旅の空

レバノン 2019

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フェニキア人の風景

旅の適期

イランなど中近東地域への旅に出るようになったのは2004年からだが、実は、その頃からずっとレバノン行きを狙っていた。

ただ、当時はヨルダンとシリア、レバノンの3か国セットのパッケージツアーが一般的で、旅行期間が10日を超えるものばかり。日数が長い分、旅行代金も高額で、夏休みが1週間程度しか取れない身にとっては高嶺の花だった。それに、一度に何か国も巡るような旅の仕方は好みでない。1回の旅行では1つの国をじっくりと巡りたいと思っていたから、長いこと、この3か国を旅する機会はなかった。

2011年に始まった、いわゆる「アラブの春」は、この地域の観光にも甚大な影響を及ぼした。シリアが内戦に陥ったため、この3か国セットのツアーはもはや催行できなくなって、代わりに、残りの2か国をセットにしたものやそれぞれ1か国だけを巡るツアーが組まれるようになった。3か国のうち1か国だけを巡るツアーでは、3か国あるいは2か国が抱き合わせの場合と比べて日程に余裕がある上、3か国を巡るツアーでは割愛されてしまう名所旧跡が行程に入ったりするため、かえって好都合な面があった。とはいえ、シリア旅行の夢が潰えたことで、さらに、パルミラ遺跡の破壊が報道されるに及んで、まるで自分が取り返しのつかないことをしたかのような喪失感を味わった。

2012年にヨルダン行きは叶ったものの、レバノンは長らく政情不安や頻発するテロの影響で治安が悪く、外務省の海外安全情報も危険度の高い状態が続いた。例えば、同じ中近東地域でも、イランは危険な国という先入観が一般には流布しているが、実際はごく一部の地域を除けば治安は安定しており、外国人も安心して旅行ができる。海外安全情報で比較しても、当時のイランとレバノンとでは安全度の次元がまるで違っていた。

そんな状況でもレバノンのパッケージツアーを催行し続ける旅行会社があったにはあった。レバノンで外国人観光客がテロに遭遇したという話は聞かなかったし、観光名所を訪ねるだけの旅であれば、実はさほど危険はなかったのかもしれない。しかし、海外安全情報の危険度を示す地図の色がほとんど黄色か赤(退避勧告か渡航中止勧告)という状態ではさすがに行く気にならず、夏休みの時季が近づくと一応、海外安全情報を確認しては、今年もレバノン行きは無理だな、と見送る年が何年も続いた。

シリアの内戦は、ほどなくしてレバノンにも飛び火した。反政府過激派集団「イスラム国」がシリアから侵入してきたのだ。国境沿いではイスラム国に対する掃討作戦が展開され、退避勧告の発令地域がさらに広がる。国境沿いの一部地域とはいえ、現に戦闘が行われている国への旅はますます遠のいた。

その後、国境沿いに居座っていたイスラム国の掃討作戦が完了したとの報道があり、レバノン国内の治安状況も好転の兆しが見えてきた。海外安全情報の危険度のレベルも時間を追うごとに下がっていく。レバノン旅行をいよいよ具体的に考えられる政治情勢になってきた。

しかし、折しもレバノンでは、2018年5月に9年ぶりの総選挙があり、欧米からテロ組織扱いされるシーア派政党ヒズボラの躍進が伝えられた。組閣の難航と長期化を予測する報道もあった。中近東地域では、最初は些細なことに見えた事件が、たちまち炎上して国の政治をも揺るがす騒乱へと発展する事態が残念ながら起こりうる。レバノンがかつて15年以上にわたる内戦を経験したことを考えればなおさら安心できなかったので、2018年の旅行も見送った。

そして2019年、総選挙から数か月以上を経て、難航していた組閣が成立したというニュースが目に留まる。宗教的モザイク国家といわれるレバノンでは、キリスト教とイスラム教で合わせて18の宗派がある。国会の議席数128はキリスト教諸派とイスラム教諸派で半数ずつ配分され、慣例により、大統領はキリスト教マロン派から、首相はイスラム教スンニ派から、国会議長はイスラム教シーア派からそれぞれ選ばれる。総選挙で躍進を果たしたヒズボラも重要閣僚のポストを得るようだった。

国境地帯でのイスラム国掃討が完了し、懸案だった組閣も成立したことで、治安が悪い方に向かうとは考えにくかった。実際に海外安全情報も国全体として、危険度が以前より下がっている。レバノン旅行には千載一遇の好機到来と見た。だが、万事がそう都合良く進むことはなくて、レバノン最大の見所といえるバールベックやティール(ティルス)のある県は、以前から出ていた渡航中止勧告が旅行当時はまだ継続していて、引き下がる気配がなかった。渡航中止勧告とは、「その国・地域への渡航は、どのような目的であれ止めてください。」というメッセージであり、自分が行こうと考えている国にそれが発出されていたとすれば、心理的に大きなプレッシャーとなる。レバノンのツアーを扱う常識的な旅行会社はそうした「危険な」地域を除外したツアーを設定していたが、僕にしてみれば、バールベックやティルスに寄らないレバノン旅行などありえない。非常に悩ましかった。

西遊旅行社は以前からレバノン単独の旅行を催行しており、バールベックやティールも以前から変わらずツアー行程に入っている。海外安全情報との齟齬をどう考えているのか説明を読むと、「現地手配会社と治安状況の確認を綿密に行い、ツアーとして問題がないと判断」とある。もう腹をくくるしかないと思い、西遊旅行社のツアーを申し込む。旅行時期は2019年8月中旬から下旬にかけての8日間である。レバノンへ旅行に行くことは、家族や職場にはもちろん伝えたが、渡航中止勧告が出ている地域にも足を伸ばすことは、帰国後も伏せておくことにした。

飛行機高山病?

勢いでツアーに申し込んだようなものの、対策を考えなければいけない個人的な問題があった。ここ数年、往路のフライトで必ずといっていいほど体調を崩している。症状は決まって、到着翌日まで続くひどい頭痛と吐き気だが、不思議なことに、現地に到着して数時間ほど経つとそれらは嘘のように消え、帰りの便では全くそうした症状が出ない。また、症状が出るのは、ドバイ経由やアブダビ経由など日本を夜に発つ便だけで、インドネシアに行った時のように昼出発の便では往路も復路もフライト中の体調は何ら問題がなかったので、夜出発というのが自分にとっては問題なのだろうと考えていた。

日本からレバノンへの直行便などはないので、今回もドバイ経由のエミレーツ航空を利用することになる。機材も新しく快適だし、ドバイ国際空港の免税店で買い物するのを楽しみにしているので、エミレーツ航空自体に不満はないのだが、あの頭痛と吐き気は、海外旅行に行くのをもうやめようかと思うほどつらいもので、往路だけの問題とはいえ、何とかしなければいけないと思っていた。

色々と調べる中で思い当たったのは、これは「飛行機高山病」ではないかということ。要は、旅客機の機内は標高2500メートル相当の気圧に保たれており、離陸後は短時間で一気に高山へ登るのと同じ状態になるので、高山病にかかってもおかしくないというわけである。でも、そうだとすると帰りの便でそうした症状が一切出ないことの説明がつかない。

調べてみてもやはり何なのかわからない。でも、あの頭痛と吐き気で味しむのはもう御免蒙りたい。打開策といえるかどうかわからなかったが、離陸前に乗り物酔い止めの薬を飲んでみた。そのせいかどうかはわからないが、今回は頭痛や吐き気に苦しむことはなかった。

フェニキア人の風景

「フェニキア人の風景」とは考古学者が使う用語で、穏やかな入り江に突き出た岬、陸から狭い海峡で隔てられた小島など、フェニキア人が都市を築く際に選んだ特徴的な地形を指すという。それは、風向きが変わっても船を出しやすく、外敵に攻められた場合には防御しやすい地形でもある。かつて地中海の交易を牛耳った海洋商業民族ならではの着眼なのだろう。

この旅行記の副題「フェニキア人の風景」は、それとは違う意味を込めている。一つは、眼前に広がる地中海や険しい山々、レバノンの国旗にも描かれ国の象徴にもなっているレバノン杉など、フェニキア人も眺めていたであろう、古代から変わらない風景。そして、もう一つが、ギリシア風でもローマ風でもないフェニキアならではの都市の風景。そうしたものが果たしてあったのかどうか、あったとすればどのようなものだったのかを探る旅という趣旨である。現地に行けば何かしらわかるのではないかと期待した。

フェニキア史の一般向け概説書としては現在、『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』(著:栗田伸子・佐藤育子、講談社学術文庫)があるのみだ。この本は、古代メソポタミア史や地中海世界史という大きな枠組みの中ではともすると埋もれてしまう歴史や文化への扉を開いてくれた点でとても有益だっただけでなく、予め読んでおいたおかげで、レバノンの旅が何倍も充実したものになった。

フェニキアの地

レバノンの面積は10,452平方キロメートル、岐阜県(10,621平方キロメートル)よりもわずかに小さな国土である。そのレバノンを巡る正味6日間の旅は、目玉観光地を網羅したまさに王道コースであったが、団体旅行にありがちな強行軍的な行程は皆無で、旅行日程にはゆとりがあった。だからといって時間を持て余すということはなく、遺跡や博物館の見学ではやはりもっと時間が欲しかったところだ。

岐阜県と同等の面積という小国ながら、レバノンは驚くほど豊富な観光資源に恵まれている。一般的なパッケージツアーではまず訪ねることのない、ガイドブックにも載っていない遺跡を思う存分巡ることができたらどれほど素晴らしいだろう。あるいは風光明媚な山間部に何泊かして周辺のハイキングを楽しむというプランだって考えられる。あるいは、白い砂浜が広がる地中海リゾートでのんびり一日過ごすのも悪くない。レバノンならきっと、2週間であれ1ヵ月間であれ、旅の計画はいくらでも立てられるのではないかと思うのだ。休暇さえ取れればだが。