レバノン 2019
2
ナハル・エル=カルブとハリッサ
ベイルート Beirut
2019年8月某日、エミレーツ航空957便は午前10時半頃にベイルート国際空港に到着した。
前日の午後10時に成田を出発してから経由地のドバイまでは約11時間、ドバイの空港でおよそ2時間半の乗継待ちの後にドバイからベイルートまでさらに4時間のフライトをエコノミークラスの窮屈な座席でどうにか耐える。ドバイを経由するツアーでは毎度のことだが、一種の苦行といえるものである。
入国審査を済ませ、機内預けの荷物を受け取り、現地手配会社のガイドと合流し、バスに乗り込めば、もう観光は始まっている。最初に向かうのはベイルートからほど近い「ナハル・エル=カルブ」(犬の川)と呼ばれる史跡。個人的に今回の旅の中でかなり重要視していた箇所だが、飛行機の中でろくに眠られず、徹夜明けのような状態で直行するとは無情である。
バスは高速道路のトンネルを抜けてすぐ、川沿いの脇道へと逸れて停まった。
ナハル・エル=カルブ(犬の川) Nahr el-Kalb (Dog River)
ベイルートの15キロほど北に位置するナハル・エル=カルブ(犬の川)には、最古は紀元前13世紀のものから、最新は20世紀のものまで、22の碑文が岩壁に刻まれている。「犬の川」などという奇妙な名前が付いたのは、時に渓谷に吹く強風が犬の唸り声のような音をたてるからだとか、かつて碑文を守る番犬代わりの犬の像があったからだとかいわれている。犬の像はオスマン帝国時代に海に打ち捨てられてしまったらしいが、今もその台座部分だけが残っている。

犬の川という名前から想像していたのは、川沿いの斜面に沿ってレリーフが並んでいる光景だったが、先導するガイドは、我々が乗ったバスが今しがた通り抜けたばかりのトンネルの脇にあるコンクリートの階段を上ってゆくではないか。
たしかに、川沿いの岩壁にも碑文はいくつかあるのだが、主要なものは海に面した断崖に刻まれているのだ。
そこは高速道路のすぐ脇という、およそ古代遺跡などありそうもない立地で、しかも、碑文が刻まれた岩山の下をトンネルが貫いている。碑文やレリーフは、そこを行き交う人に支配者の威光を見せつける意図がある。ある程度、大きな街道に面しているのかと思いきや、そこは断崖の斜面を切り開いたような隘路だった。

遺跡の立地には意表を突かれたが、この下を現代はトンネルが通っていることから察するに、ベイルートからジュベイル(ビブロス)方面への移動に際してはこの断崖が一種の難所であり、それでも狭くて高低差のあるこの道が最短経路だったのだろう。
ナハル・エル=カルブに最初に碑文を刻んだのは、エジプト新王国第19王朝のファラオ、ラメセス2世(在位:紀元前1279年頃-1213年頃)である。エジプトは当時、レバント地方の支配をめぐって小アジアに本拠を置くヒッタイト王国と対立しており、紀元前1274年にはシリアのオロンテス川付近のカデシュで両軍は矛を交える。ナハル・エル=カルブの碑文は、カデシュの戦いでシリアへ遠征した際にラメセス2世が刻ませたものと考えられている。

ラメセス2世の碑文は2基が現存しているが、そのうちの一方には右に、新アッシリア帝国のエサルハドン王(在位:紀元前681-669年)の碑文が刻まれている。
僕にとっては初めて見るアッシリア遺跡である。イラクやシリアへの観光旅行が事実上、できなくなった今、各地の博物館に展示されている遺物を除けば、一般人が現地で目にすることのできるアッシリアの史跡といえば、ここだけではあるまいか。風化は進んでいるものの、楔形文字がはっきりと見て取れる。
エサルハドンの碑文がここに刻まれたのは、ラメセス2世の治世からおよそ600年も後のこと。エサルハドンは二度にわたってエジプトへの軍事遠征を行っている。この時代のエジプトはもはやラメセス2世の頃の勢いを失っており、ヌビア地方からやってきた異民族であるクシュ人に支配されていた。エサルハドンは、クシュ王朝とも呼ばれた第25王朝タハルカ王を破り、紀元前671年に下エジプトを占領する。エサルハドンがナハル・エル=カルブに刻んだ碑文は、エジプト征服と勝利の記念碑であった。エサルハドンがラメセス2世の碑文を破壊せず、そのすぐ横に自らの碑文を刻んだのにはそうした意趣を込めているのだろう。

面白いことに気付いた。ナハル・エル=カルブにあるエジプトの碑文は全てラメセス2世のもので、フランスのナポレオン3世が自分の碑文を刻むために削り取って現存しないものを含めて3つあったが、アッシリア帝国の碑文はエサルハドン以外の誰のものか判明していないものを含めて全部で5つ。ラメセス2世の碑文の隣には必ずアッシリア帝国の碑文がある。アッシリアの王がエジプトを強く意識していたことがうかがえる。
しかし、黄金期を迎えていた新アッシリア帝国もエサルハドンの死からわずか60年後の紀元前609年には新バビロニア王国に首都ニネヴェを占領されて滅亡する。ナハル・エル=カルブに刻まれた数々の碑文は勝者の栄光を高らかに謳っているが、それだけに盛者必衰の理をも想起せずにはいられない。

ここには紀元前13世紀から20世紀までの22基の碑文が刻まれていると冒頭に書いたが、その年代分布には偏りがある。エジプトと新アッシリア、新バビロニアのものが8基と全体の3割強を占めており、その後はヘレニズム期が1つ、帝政ローマ後期(3,4世紀)が2つ。その次は、マムルーク朝のスルタン・バルクーク(14世紀)まで一気に飛んでしまう。
古代オリエントのもの以外に個人的に興味を引かれたのは、ローマ帝国ポエニケ属州総督プロクルスの碑文。ローマ帝国のシリア属州は4世紀に細分化され、ポエニケ属州が成立したという。「フェニキア(ポエニ)」が公的な名称になったのは後にも先にもこのときだけではあるまいか。
プロクルスはバールベックに道路を敷設し、供犠を行ったということだが、碑文は風化が進んでいるのか、現地で眺めた限りでは正直なところ、そこに文字が刻まれているのかどうかもよくわからなかった。

碑文を一通り見た後に、一つ重大な見落しをしていることに気付く。ここには、新バビロニア王国のネブカドネザル2世(在位:紀元前605-562年)の碑文もあるはずだが、見学した碑文の中に新バビロニアのものはなかった気がする。見過ごしたかと思って端から端までもう一度探したがやはり見当たらない。おかしい、そんなはずはないと未練を残しつつも、時間切れでやむなくバスに戻った。

帰国後に気付いたのだが、ネブカドネザル2世の碑文だけは川向うのかなり離れた場所にあったのだ。団体旅行のわずかな自由時間でそこまで行くのは厳しかったかもしれないが、のっけから痛恨の取りこぼし発生である。
それにしても、他に良い場所はまだ充分あったはずなのに、ネブカドネザル2世は一体なぜ、一人だけ離れた場所に碑文を刻んだものだろうか。
ジェイタ洞窟(Jeita Grotto) Maghara Jeita
ナハル・エル=カルブの次に向かったジェイタ洞窟は、全長7キロメートルにも及ぶという鍾乳洞である。レバノンを代表する観光名所というだけでなく、清浄で豊富な水が湧き出るこの鍾乳洞は、ベイルート市民の喉を潤す貴重な水瓶でもあるということだ。
ただ、レバノンの目玉観光地であることは理解できるのだが、個人的にはあまり関心があったわけではなく、ツアーの行程に入っていたから行ったまでだ。おまけに、鍾乳洞の内部は写真撮影が禁止だったため写真は一枚も残っていない。とても大きくて見事な鍾乳洞であったことは間違いないが、あまりよく覚えていないというのが正直なところだ。

鍾乳洞よりも印象に残っているのは、地中海地方の乾燥したイメージからは想像もつかない周囲の山の緑の濃さである。トルコの地中海側にも行ったことがあるが、ここまで木々が鬱蒼としていなかったような気がする。
ハリッサ Harissa
ジェイタ洞窟からレバノンでも屈指の景勝地であるハリッサの丘へ向かう。バスは山道をぐんぐんと上って標高を稼いでいく。レバノンの山がちな地形に改めて驚いている。空港からナハル・エル=カルブまでは海岸沿いにいたのに、そこからジェイタ洞窟を経ていつの間にか山の上に来ている。

ハリッサは、宗教的モザイク国家といわれるレバノンで最大勢力を占めるキリスト教マロン派の総本山となっており、5千人を収容するというコンクリート造りの巨大な教会がある。
レバノン行きを決めるまでマロン派なる宗派のことを全く知らずにいたのだが、その名は5世紀のシリアに生きた人物にして宗祖たるマロン(マールーン)に由来する。始まりは数ある東方教会の一派であったが、中世になって独自の典礼を保持することと引き換えにローマ教皇に帰依して以降は「東方典礼カトリック教会」に位置づけられて今日に至る。キリスト教の神学論争は難解、複雑で、それを語るだけの知識もないので触れないが、非常に古い宗派であることは意外だった。ビザンツ帝国やイスラム帝国の概説書を何冊か読んでいたので、中世の中近東史もある程度は見当がつくつもりでいたのだが、そうした本の中にマロン派についての言及があったかどうかすら記憶が定かでない。

その巨大な教会のすぐ近くに、歴史的にも宗教的にも関係の深いフランスから贈られた「レバノンの聖母」と呼ばれる大きなマリア像が立っている。改めて写真を見直すとそうでもないのだが、高台から街を見下ろすマリア像の表情は悲嘆にくれているようにしか見えなかった。この国で1970年代の15年にわたって続いた内戦のことをちょうど読んだばかりだったからかもしれない。

ハリッサの展望台からは、レバノン有数の海岸保養地といわれるジュニエの街並みと弓なりの形をした湾を眼下に一望できる。レバノン屈指の絶景といって過言ではないと思う。それにしても、海岸からの直線距離が2キロメートル足らずのこの丘の標高が650メートルもあるとは信じ難い。

アミユン Amiyun
ハリッサを見学するとこの日の観光は終了し、その後は宿泊先へ移動するのみとなる。翌日は、北部の山岳地帯にあるレバノン杉の森を訪ねることになっており、最寄りのブシャーレという村のホテルに泊まる。
カディーシャ渓谷へと向かう道中でアミユンという街を通過した時だ。車中からではあるが、切り立った崖の上に建つ教会をガイドが教えてくれた。聖ヨハネ「アル=シール」教会という名前らしいが、注意を引いたのは教会ではなく、教会が建つ断崖に穿たれた無数の四角い穴。これはネクロポリスであろう。

この磨崖横穴墓群は、ガイドの話ではフェニキア時代のものということだったが、主にローマ時代のものと書いているウェブサイトがあれば、炭素年代測定では石器時代にまで遡ると書いたサイトもあって、どれが正しいのだろうか。
できればバスから降りて直に見たかったところだが、この遺跡が強く印象に残ったのは、地中海以西の地域でこうした磨崖横穴墓はほとんど見られないと以前、何かで読んだ気がしたからだ。だが、ネットで調べてみたところ、イタリアのシチリア島に紀元前13世紀から紀元前7世紀までに造られたパンタリカという磨崖横穴墓群がある。シチリア島といえば、カルタゴのフェニキア人が紀元前1千年紀に植民市を築き、ギリシア人と熾烈な争奪戦を繰り広げた場所だ。
写真を見る限り、アミユンの磨崖横穴墓はパンタリカのものとよく似ているように思えたが、パンタリカはシチリア島の先住民が造ったということなので、おそらく関連はないのだろう。時代や場所が違っても、人は同じようなことを考え、似たような形を思いつくということだろうか。
グーグルマップを見る限り、アミユンにはこれによく似たフェニキア墓地とされる遺跡が他にもあるようだ。
ブシャーレ Bsharre
カディーシャ渓谷中の村、ブシャーレに着いたのは日没前だった。この日の宿泊先であるホテルへ着く前に、眺めの良い場所でバスを停めてくれた。自然環境としては人里離れた高原の趣だが、深い渓谷を隔てた崖の上には意外に多くの家が建っている。夕暮れ時ということもあるが、高い山に登ったときのような肌寒さだ。この日は朝から曇りがちな空模様であったが、ここに来て雲は厚くなり、いかにも山の天気らしく靄が立ち込めてきた。しかし、厚い雲は海の辺りまではかかっておらず、雲の切れ間から夕焼け空が見える。にじんだような鈍いオレンジ色が印象的だった。

すっかり日が落ちてからホテルのバルコニーに出て周囲の景色を眺めた。はるか前方には山脈があり、今いるホテルとの間に深い渓谷があることは暗闇の中でもわかった。聞こえてくるのは、時折、ホテル下の道路を通る車の走行音のみ。一面の暗闇に街路と人家の慎ましい明かりだけが点々と灯っていた。
