旅の空

日本・謎の石造遺物紀行

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鳥取編 「岡益の石堂」

岡益の石堂 (おかますのいしどう)

観光客で賑わう鳥取砂丘から15kmほど離れた山間に、「岡益の石堂」という謎の石造建築物がある。いつ、誰によって、何の目的で造られたものか。少なくとも日本国内には類例がない。
岡益の石堂Okamasu no Ishido
切石を精巧に組み合わせた基壇は一辺の長さが約6m、高さは約1mで、基壇の中央には高さ約2mの円柱が建ち、その上に四角形の台石と笠石を載せる。さらに、40cmもの厚さを持つ石の壁が円柱を囲んでいる。全て凝灰岩で造られているという。

エンタシス

注目すべきは、柱の上部ほど細くなるエンタシスの技法がこの円柱に施されていること、そして、円柱の上に載る台石の下部に蓮弁と忍冬の紋様が浮彫りされていることだ。
エンタシスや蓮華紋(ロータス)、忍冬紋(パルメット)はいずれもギリシャを発祥とし、シルクロードを通って中国、朝鮮を経由して日本に伝えられた。蓮華紋や忍冬紋は飛鳥・奈良時代の瓦などに用いられ、エンタシスは奈良・法隆寺などの柱で実際に目にすることができる。岡益の石堂もまた大陸とのつながりをうかがわせる石造遺物である。
岡益の石堂Okamasu no Ishido

安徳天皇と平家

さらに奇怪なのは、この石堂が第81代安徳天皇の陵墓参考地に指定されていることだ。陵墓参考地とは、「被葬者を特定できないが、歴代の天皇や皇太后らを葬った陵又はその他の皇族を葬った墓である可能性があるもの」。そして、安徳天皇といえば、平清盛の娘を母に持ち、2歳で即位したものの、1184年、壇ノ浦の合戦での平氏軍敗北により、わずか8歳にして海中に没したという悲運の幼帝である。その安徳天皇が、実は、壇ノ浦で亡くなったのではなくて、平氏の残党に護られて遠く離れたこの地に落ち延びていたという伝説があるのだ。もっとも、安徳天皇が壇ノ浦から秘かに逃れて生き延びていたという伝説は、鳥取だけでなく四国など各地に残っているらしい。一方で、公式には、山口県下関市阿弥陀寺町にある阿彌陀寺陵が安徳天皇陵ということになっているのだが…。
岡益の石堂Okamasu no Ishido

謎の石造遺物

鳥取市の発行する観光パンフレットなどによれば、この石造遺物は奈良時代初期に造られたとのことである。寸法は古代唐尺に基づいており、白鳳時代の岡益廃寺の一施設であったともいわれていることからすると、元々は、安徳天皇や平家と無関係であったろう。
それにしても、エンタシス、蓮弁紋、忍冬紋と聞いて連想するのは法隆寺である。法隆寺は現存する日本最古の木造建築物であるが、日本で最初に建造された寺院は飛鳥寺(法興寺)であった。飛鳥寺の建立にあたっては百済から技術者が派遣され、法隆寺の建立にも彼らが携わったと考えられている。百済から日本へ渡ってきた技術者たちの名は日本書紀などに記録されているのだが、その中には明らかに韓半島や中国出身者のものではない、ペルシア人と思しき名前が見られるのだ。
岡益の石堂にもそうした渡来人の石工が関わったのではないだろうか。