旅の空

日本・謎の石造遺物紀行

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飛鳥編 その一 「奇怪な石像群」

石人像

飛鳥は6世紀の終わりから8世紀の初めまで日本の政治・文化の中心だった。そんな古代の面影を偲ばせる数多の遺跡が奈良県明日香村ののどかな田園風景に点在する。その飛鳥は、未だ謎に包まれた石造遺物の宝庫でもあるのだ。
まずは、近鉄橿原神宮前駅から3kmほど東にある奈良文化財研究所 飛鳥資料館へ。飛鳥にある謎の石造遺物のうち、重要な2つが展示されているほか、全ての精巧なレプリカを見ることができる。
飛鳥資料館に入ってロビーでまず出迎えられるのは、杯を口にした男に背後から抱きつく女という異様な石人像である。明治36(1903)年に明日香村石神地区にある田の土中(現在の石神遺跡)から発見された。像の高さは1.7m、7世紀の製作とされる。驚くべきは、この像が噴水施設であることだ。内部には水を通す孔が開けられていて、底から入った水が、男の杯と女の口から吹き出す仕組みになっているという。現在の石人像は男が口にする杯が欠けていて、枝分かれした孔を実際に確認できる。像の風貌から、胡人を表わしたものだともいわれている。

石人像石人像(レプリカ)
須弥山石

須弥山とは仏教の世界観で世界の中心に存在する山のこと。須弥山石は、中をくり抜いた円柱状の石を3つ積み重ねた石造遺物である。高さは3段で2.3mだが、2段目と3段目の石が構造上つながらないため、元は別の石がもう一つあったと考えられている。資料館の庭に展示されているレプリカは4段で復元したものだ。この須弥山石は、石人像が出土した前の年、明治35年(1902)年に同じ明日香村の石神遺跡から出土した。これも7世紀の製作とされている。石人像と同じく噴水施設で、下段の石の底から水を引き入れて水槽状になった内部にため、四方の孔から水を噴き出す仕組みになっているという。

須弥山石須弥山石(レプリカ)

須弥山石については、日本書紀にそれと思しき記述がある。

  • 【推古20(612)年5月】 この年、百済から日本を慕ってやってくる者が多かった。その者たちの顔や体に、斑白(まだら)や白癩(しらはた)があり、その異様なことを憎んで、海中の島に置き去りにしようとした。しかしその人が、「もし私の斑皮(まだらかわ)を嫌われるのならば、白斑(しらふ)の牛馬を国の中に飼えないではないか。また私にはいささかな才能があります。築山(つきやま)を造るのが得意です。私を留めて使って下されば、国のためにも利益があるでしょう。海の島に捨てたりして無駄にしなさるな」といった。それでその言葉をきいて捨てないで、須弥山(しゅみせん)の形と、呉風の橋を御所の庭に築くことを命じた。時の人はその人を名づけて路子工(みちこのたくみ)といった。またの名を芝耆摩呂(しきまろ)といった。
  • 【斉明3(657)年7月】 十五日に須弥山を像(かた)どったものを、飛鳥寺の西に造った。また盂蘭盆会を行われた。夕に都貨邏人(とからびと)に饗を賜った。
  • 【斉明5(659)年3月】 十七日、甘橿丘の東の川原に須弥山を造って、陸奥(みちのく)と越(こし)の国の蝦夷(えみし)を饗応された。
  • 【斉明6(660)年5月】 また石上池の辺りに須弥山を造った。高さは寺院の塔ほどあった。粛慎(みしはせ)四十七人に饗応をされた。
〔『日本書紀』(下) 宇治谷 孟 訳、講談社学術文庫〕
猿石

欽明天皇陵(檜隈坂合陵、梅山古墳)隣の陪塚のようにも見える吉備姫王墓内に猿石と呼ばれる不気味な4体の石像がひっそりと置かれている。名前に猿とあるが、実際は猿を彫ったものではない。これらの像が異様なのは、その形相のみならず、背面にもまた別の面妖な像が掘られていることだ。実物は陵墓の鉄柵内にあるため表しか見られないが、飛鳥資料館の庭園にある精巧なレプリカで背面の像を確認できる。
猿石(山王権現)猿石(山王権現):飛鳥資料館のレプリカ
猿石(女)猿石(左から僧、男)
現在は吉備姫王墓内に置かれているが、これらの石像は、江戸時代の元禄15(1702)年に欽明天皇陵ほとりの平田村池田にある田の土中から掘り出され、一時は、欽明天皇陵に置かれていた。隣の吉備姫王墓内へ移されたのは、幕末又は明治初年になってからだという。
12世紀に成立した『今昔物語集』には、欽明天皇陵の周濠の岸に「石の鬼形ども」を立てたという話がある。

…然(さ)テ、其ノ麓ニ戌亥ノ方ニ広キ所有リ。其ヲ取リツ。軽寺ノ南也。此レ、元明天皇(※欽明天皇の誤り)ノ檜前(ひのくま)ノ陵也。石ノ鬼形共ヲ廻■池辺陵ノ墓様ニ立テ、微妙(めでた)シ。造レル石ナド外ニハ勝レタリ。…
〔『今昔物語集』巻第三十一 元明天皇陵点定恵和尚語 第三十五〕

欽明天皇陵が築造されたのは欽明30(569)年であるが、推古20(612)年に欽明天皇妃の堅塩媛を欽明天皇陵に改葬したこと、推古28(620)年に欽明天皇陵の大がかりな改修を行ったことが日本書紀に記されている。

  • 【推古20(612)年】 二月二十日、皇太夫人堅塩媛(おおきさききたしひめ、蘇我稲目の娘で、欽明天皇の妃、推古天皇の母)を桧隅大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改め葬った。
  • 【推古28(620)年】 冬十月、さざれ石を桧隈陵(ひのくまのみささぎ、欽明帝陵・堅塩媛を葬る)の敷石にしいた。域外(めぐり)に土を積み上げて山を造った。
〔『日本書紀』(下) 宇治谷 孟 訳、講談社学術文庫〕

飛鳥資料館によれば、猿石も7世紀の製作とされている。今昔物語と日本書紀の記述を考え併せると、これら4体の像は推古天皇の時代に欽明天皇陵に置くために作られたのだろう。これらが天皇陵に置かれたのは魔除けのためか(あるいは生きている人間を陵に近付けないため?)。インドネシア・バリ島や韓国・済州島にも猿石とよく似た石像があるという。
なお、梅山古墳が果たして真の欽明天皇陵なのかという問題があるが、陵が存在する地名、そして古墳の表面に施された大量の葺石の存在、その2点が日本書紀の記述と一致し、かつて欽明天皇陵の堤に並んでいたという猿石が実際に古墳の南に隣接する田から掘り出されている。梅山古墳を真の欽明天皇陵とみてよいのではないか。

人頭石

人頭石明日香村の南隣の高取町に光永寺という寺がある。近鉄壺坂山駅から歩いて5分ほどの距離である。その庭に、人頭石という、人の頭部を模った高さ1mほどの石像が置いてある。像の風貌は明らかに日本人のものではなく、ペルシア人のような胡人を彫ったものという説が流布している。
記録では、元禄15(1702)年に欽明天皇陵ほとりの平田村池田にある田の土中から掘り出された猿石は五体で、うち一体は高取町土佐の寺に移されたらしい。したがって、この人頭石も4体の猿石と同様に元々は欽明天皇陵に並んでいたと考えられるのだ。
石材も猿石と同じく花崗岩が用いられ、7世紀の製作とされている。

異能の工匠(たくみ)

須弥山石に石人像、猿石、人頭石。作風からいずれも同一人物が手掛けたものではないかと筆者は考える。推古20(612)年に百済より渡来した路子工またの名を芝耆摩呂、彼こそが作者ではあるまいか。
日本書紀によれば、推古20年5月、芝耆摩呂は命を受けて須弥山の形を御所の庭に築いたとある。その9年前の推古11(603)年、推古天皇は即位した豊浦宮(とゆらのみや)から小墾田宮(おはりだのみや)に都を移している。小墾田宮の推定地として目下有力なのは、「小治田宮」と墨書された土器が1987年に出土した雷丘(いかずちのおか)東方遺跡。須弥山石と石人像が出土した石神遺跡の隣の地区である。須弥山石と石人像が出土した場所がまさに「御所の庭」ではなかったか。さらに加えると、斉明天皇が須弥山を造ったという「飛鳥寺の西」や「甘橿丘の東の川原」、「石上池の辺り」もみな同じ地区を指す。
上に書いたとおり、猿石と人頭石は、元々、欽明天皇陵の周濠の岸に並べられたものだ。その時期は、「欽明帝陵のめぐりに土を積み上げて山を造った。」と日本書紀が記す推古28(620)年だろう。芝耆摩呂が来日してから8年後のことで、年代的にも矛盾しない。
明日香村に残されたこれら異様な石像の数々は、まさに異能の工匠のみが為せる業(わざ)だった。

名工の誉

蛇足だが、山梨県大月市に日本三奇矯の一つ、「猿橋」がある。伝説によれば、何と、この橋は推古天皇の時代に百済から渡来した「志羅呼(しらこ)」なる人物が、断崖を渡る猿の群れに着想を得て造ったというのだ。志羅呼とは、日本書紀に登場する芝耆摩呂のことであろう。(志羅呼=白子か?)
その伝説が事実なのかどうかはさておき、彼の名声が飛鳥から遠く離れたこの地まで聞こえていたのは確かだ。「石」と「橋」の違いはあれ、もし「猿」でつながるとしたら面白いではないか。

高取城の猿石 (2012/11/23追記)

明日香村の吉備姫王墓内に置かれた4体の他に猿石はもう1体ある。訳あって高取町の山中に築かれた中世の山城・高取城に置かれているが、5体の中で最も猿らしく見える猿石である。
近鉄壺坂山駅からの距離はおよそ4キロ、車道の行き止まりでタクシーを降り、登山道といった方がよさそうな参道をひたすら登ること約20分、明日香村栢森方面へ続く古道との分岐点に猿石はひっそりと佇んでいた。
高取城の猿石高取城の猿石
そもそも高取城の猿石は、他の4体と同様に欽明天皇陵ほとりの平田村池田から掘り出されたが、高取城の石垣に転用する目的で運ばれて来たものらしい。今は欠けているが、背面にはかつて何か別の像を彫ってあったのがわかる。他の4体の猿石と作風が同じだ。やはりこれも同一人物が手掛けたものではないかと思う。