旅の空

ペルシアと奈良

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ペルシアン・グラスの物語
正倉院御物「白瑠璃碗」

【白瑠璃碗】
白瑠璃碗(由水常雄氏による復元作品)

ガラス研究者・工芸家、由水常雄氏による復元作品(氏の許可を得て掲載しています)

第60回正倉院展

「奈良はシルクロードの終着点」とよく言われます。ローマ世界と中国とを結ぶ古代の隊商路、シルクロードを通って、はるか西方の文物が、中国を超え、さらに飛鳥、奈良時代の日本にまで到達していました。
それを最も雄弁に物語るのが、奈良・正倉院の宝物で、ペルシア伝来のガラス、「白瑠璃碗」(はくるりのわん)でしょう。
平成20年の「第60回正倉院展」に、この白瑠璃碗が13年ぶりに出典されるというので、奈良国立博物館へ見に行ったのですが、実物は本当に驚くべきものでした。
碗の全面に施された円文切子は照明の光を反射して宝石のように輝き、切子の一つ一つが、まるで万華鏡のように反対側の切子を無数に映していました。
あまりの美しさに、しばらく展示ケースの前から離れられませんでした。これがただのガラスでできているとはとても信じられませんでした。

円形切子碗

この素晴らしいガラス碗は、6世紀、ササン朝ペルシアの王立工房において製作されたと考えられています。ササン朝ペルシアは、3世紀から7世紀まで、現在のイラン、イラクを始め、西アジアから中央アジアに至る広大な地域を支配した古代オリエントの覇者です。
しかし、西方起源と目されてはいたものの、白瑠璃碗の製作地がこのササン朝ペルシアであると判明したのは、20世紀になってからのことです。
1959年3月、東京大学イラク・イラン遺跡調査団の先発隊としてイランの首都テヘランにいた深井晋司氏は、ふと入ったある骨董屋で、ガラクタ品に交じって隅に置かれたガラス器を見つけました。氏は、それを見つけたときの驚きを著書で次のように記しています。

…よくみようと手にとったとき、私の手は思わずふるえた。なんと外側の全面に円形の切子装飾を施したカット・グラスではないか。…「いったい正倉院のガラス器と同じ作品がこんな骨董屋の、しかもがらくたの中にあるのか、そんなはずはない」…

これと前後して、同種のガラス器が盗掘によってイラン北部で大量に出土し、テヘランの市場に流れたといいます。革命前のイランでは、盗掘品が首都の骨董屋の店先に堂々と並んでいたとか。
イランの古墳から同種のガラスが大量に出土したこと、また、工房跡とみられるイラクの遺跡から大量の破片が見つかったことで、これらがササン朝ペルシアで製作されたことがはっきりしました。
断片も合わせると、この手の円形切子碗は約2千点が現存するといわれていますが、正倉院の白瑠璃碗は、作られてから土に埋まったことがない、製作当時の輝きをそのまま伝える世界で唯一の品だといわれています。

出自

第60回正倉院展の特設ホームページと図録には、この白瑠璃碗に関して、次のような説明文が載せてありました。

(中略)「おそらく、ササン朝ペルシアの王侯たちに分配され、さらにその一部が通商などによってはるばるシルクロードを超えて運ばれたのであろう。」・・・

白瑠璃碗が王侯の下賜品だったというのは、今までに聞いたことのない話でした。「その昔、遣唐使が唐の都長安から持ち帰ったシルクロードの交易品」というイメージとは少々違うニュアンスが感じられたのです。
そんな折、「正倉院「白瑠璃碗」の源流 ‐ 古代ペルシアのカットグラスをめぐって」という講演会があったので、東京国立博物館へ聞きに行きました。講師は、古代オリエント博物館研究員の宮下佐江子氏です。
講演の中で、さらに驚く話がありました。正倉院白瑠璃碗タイプは、ササン朝ペルシアの王が臣下の貴族や豪族に下賜するために作らせた非常に特殊な品で、基本的に売り物ではなかった、というのです。
質疑応答の時間を設けてくださいましたので、その根拠について質問してみました。氏は、推論であると断った上で、次のような説明をしてくださいました。
「古代オリエント世界では、伝統的に、王が臣下と会食する際は、食事が盛られた器まで分け与える習わしがあった。正倉院白瑠璃碗タイプは、イラン本国でも周辺国でも決まって古墳から出土するが、それら古墳の被葬者は、副葬品などから地方豪族あるいは部族長クラスと考えられる。」
つまり、生前、ペルシア王との会食を許された被葬者が、恩賜の白瑠璃碗を故郷へ持ち帰り、それが他の副葬品とともに墓に納まったのであろうということです。
古代ガラスの権威といわれる人たちの著書を読んでも、白瑠璃碗が王侯の持ち物だったということは書いていないのですが、正倉院展の解説や宮下氏の講演に加え、あるガラス関係の本でも同様の説明を見ましたし、東京国立博物館でボランティアガイドが同じ説明をしていましたので、あるいは、最近の学説なのかもしれません。
しかし、もし、白瑠璃碗が王侯の持ち物だったというのなら、そのような品が一体なぜ、日本に来たのでしょうか。

来歴

正倉院は、元は東大寺の仏具などを納めるために建てられた付属倉庫でした。
西暦756年、聖武天皇の七七忌の法要に際し、光明皇太后が東大寺に天皇の遺品や宝物を施入したのが正倉院御物の始まりとされています。ササン朝ペルシア伝来の白瑠璃碗もまた、そうした聖武天皇ゆかりの品の一つ。それが一般的な理解ではないでしょうか。
しかし、ガラス研究者・工芸家の由水常雄氏によれば、光明皇太后が正倉院に施入した合計約740点の宝物の中に、白瑠璃碗は含まれていません。天平年間で計5回わたって東大寺に奉献された宝物は、全て『東大寺献物帳』という目録に記載されていますが、これには、白瑠璃碗のみならず、現在、正倉院に6個あるガラス器が一切見当たらないといいます。
正倉院の宝物は、天平以降、各時代で開封点検が行われ、その都度、開検目録が作成されていますが、白瑠璃碗らしきものが現れるのは慶長17年(1612)、はっきりと目録に記録されたのは元禄6年(1693)、どちらも江戸時代のことです。
ただ、そのことは、江戸時代まで正倉院に白瑠璃碗がなかったことを直ちに意味するわけではありません。 正倉院に3つある倉のうち、当初、勅封蔵(宝庫)だったのは北倉のみ、後に中倉、最終的には南倉も加えられますが、長い間、正倉院は東大寺の倉庫としても使われていました。開封点検の対象とされたのも、当初は勅封蔵の北倉のみ、後に中倉が加わり、南倉が初めて対象となったのが元禄6年、南倉はこのとき初めて点検目録が作成されたといいます。さらにややこしいのは、長い歴史の中、倉庫間で宝物の移動があったことです。
つまり、白瑠璃碗は、いつの間にか正倉院に入っていて、人知れずそこにあった、ということになります。
白瑠璃碗が正倉院に入庫した時期や経緯は一切不明なのです。

白瑠璃碗の謎

では、白瑠璃碗が日本にやってきたのはいつなのか。
ヒントになるかもしれないのは、6世紀前半の天皇陵から出土したと伝えられる、もう一つの白瑠璃碗の存在です。
正倉院の白瑠璃碗ともう一つの白瑠璃碗とは、あまりに瓜二つなため、同時に日本へ来たのではないかと考えられているのです。
それにしても、白瑠璃碗タイプのササン朝ガラスは、中国では西域で1個(やや型式の違うものを含めれば2個)見つかったのみ、朝鮮半島では1つも見つかっていません。(ただし、中国でも朝鮮半島でもタイプが違うササン朝グラスは見つかっている)
そのような特別なガラス碗が、しかも本国で出土したものと比べても優品と思われる個体が、日本に2つもあるのです。私には奇跡に思えます。その背後には何か特別な事情があったのではないでしょうか。
一体なぜ、このガラス碗が日本にやって来たのか、そして誰がこれを持ってきたのか?
もし、それがわかったところで、自分の人生には何の関わりもないことですが、この疑問はどういうわけか私を強く捉えて離しませんでした。それで、自分なりに色々と調べてみることにしました。こちらは、言ってみれば、書物と空想の旅です。あるいは、白瑠璃碗の魔力にとりつかれてしまったのかもしれません。
たった1個のガラス碗に、日本と古代ペルシア、それぞれの歴史が交差します。

正倉院
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