旅の空

ペルシアと奈良

2

ペルシアン・グラスの物語 その2
もうひとつの白瑠璃碗

【伝安閑天皇陵出土円形切子碗】
伝安閑天皇陵出土円形切子碗

(東京国立博物館所蔵、カットグラス、ササン朝ペルシア、6世紀)

もうひとつの白瑠璃碗

東京国立博物館・平成館に、正倉院の白瑠璃碗にそっくりなガラス碗が展示されている。 大阪府羽曳野市の安閑天皇陵から出土したと伝わるササン朝カットグラスである。
正倉院の白瑠璃碗(高8.5×口縁部径12×底部径3.9cm)と、この伝安閑天皇陵出土碗(同8.6×11.9×3.9)とは、寸法、材質、切子の数はもとより、研磨された切子の曲率半径までほぼ一致し、同一工房において同一時期に製作された可能性が高いとされる。あまりに瓜二つなことから、これら2つの碗が別々に日本へやってきたのではなく、同時に来たと考える根拠になっているのである。また、イラン及び周辺国における出土状況から、この種の円形切子厚手碗が製作された年代は6世紀とされている。
一方、日本書紀によれば、安閑天皇は、継体25(531)年に即位、在位4年余りにして安閑2(535)年12月に死去、同じ月に埋葬された。
このガラス碗は、いつ作られ、そして、いつ日本へ渡ってきたのか。それが安閑天皇陵から出土したのであれば、作られたのも日本へ来たのも墓の主が埋葬される前と考えるのは当然だろう。6世紀にササン朝ペルシアで作られたガラス碗が、6世紀の日本の天皇陵から出土したとしても、特段、矛盾はなさそうに見える。
しかしそれは、伝えられている「安閑天皇陵出土」が事実であれば、という前提条件付きである。この碗は、出所の信憑性如何で、渡来年代や製作年代の推定が覆る可能性を秘めている。つまり、あの碗は本当に安閑天皇陵から出土したのか、さらに、そもそも、その古墳は本当に安閑天皇の陵なのか、という疑問があるのだ。

伝播のタイムラグ

疑問点の一つは、「伝播のタイムラグ」である。ササン朝ガラスでいえば、作られた本国(イラン、イラク)で出土する層と、伝播した先の日本など遠隔地で出土する層とで、一定の年代差があることを指す。
ガラス研究者の由水常雄氏は、このタイムラグについて、50年説を唱えている。また、谷一尚氏によれば、ペルシアから中国までは伝播年代の差がほとんどないのに対し、日本を含むその他の周縁地域ではかなり年代差が出るのが一般的傾向という。
表1に、イラク、中国、日本におけるササン朝グラスの出土状況を示した。いずれも、ローマ帝国のガラス製作技法をそのまま踏襲した初期のササン朝グラスで、製作年代は3~4世紀とみられる。

【表1】
出土地所在地種類埋葬年代
ヴェー・アルダシール
テル・マフーズ
イラク薄手切子括碗3~4世紀初頭
顎城五里敦121号西晋墓中国湖北省薄手切子括碗 265~316年
新沢千塚126号墳奈良県橿原市薄手切子括碗5世紀後半

表2は、白瑠璃碗とは種類が異なるものの、同じ6世紀の製作とされる後期ササン朝グラスの中国と日本における出土状況である。白瑠璃碗の破片が大量に出土したイラク中部・キッシュの工房跡から同様に破片が見つかっており、同じ工房で製作されたとことがわかっている。

【表2】
出土地所在地種類埋葬年代
王士良墓中国陝西省咸陽円形切子浅鉢583年
北周李賢墓中国寧夏回族自治区固原浮出円形切子碗565年
沖ノ島8号遺跡福岡県沖ノ島浮出円形切子碗(断片)6世紀後半
賀茂別雷神社本殿北方京都市上賀茂神社二重円圏切子碗(断片)7世紀

6世紀にササン朝ぺルシアで製作されたガラス碗が、6世紀前半の安閑天皇陵に副葬されたというのは年代的に早すぎはしないだろうか。仮に、最大限遡って、西暦500年ちょうどにこの碗が製作されたとして、伝播のタイムラグを50年とすると、日本に到達するのは550年、安閑天皇が埋葬された535年より後になる計算である。
それどころか、そもそも、この碗が製作された年代自体が、安閑天皇の埋葬年より後だった可能性さえあるのではないか。

ホスロー1世

ササン朝ペルシア最大の王にして「人民の保護者、正義の遂行者」などと後世まで讃えられるホスロー1世アヌーシールワーンが即位したのが531年。以降、40年以上に及ぶ彼の治世下で、ササン朝ペルシアは、黄金時代を迎える。特に、芸術・科学・文学の分野においてイラン文明の最高潮を呈したという。(足利惇氏『世界の歴史 9 ペルシア帝国』)
ホスロー1世即位前のササン朝は、内憂外患の時代であった。宮廷の権力闘争、内紛、飢饉、そして、新興宗教勢力が引き起こした社会的混乱などで国内は疲弊し、対外的には、長年の宿敵である東ローマ帝国から借金をして北方の遊牧民族国家に貢納するまでに落ちぶれていた。
そんな危機的状況から国を建て直し、中興の祖となったのがホスロー1世である。
現在、その年代をほぼ確定できるササン朝のガラス容器は、アルダシール1世(224~261)紀を中心とする前期と、ホスロー1世(531~579)紀を中心とする後期の作品であるという。(谷一尚『ガラスの考古学』)
正倉院や伝安閑天皇稜出土の碗は、イラン本国などで出土する同形式の碗と比べても、最上級の部類に入る。円形切子碗という形式が行き着いた最終形と思えるのだ。
白瑠璃碗は、ホスロー1世治下、ササン朝ペルシアの最も輝かしい時代の産物とは考えられないだろうか。

伝「安閑天皇陵」

大阪府藤井寺市から羽曳野市にかけて、日本最大級の大型前方後円墳をはじめとして、100基以上もの古墳が密集する地域がある。古市古墳群である。現在、安閑天皇陵に治定される古市築山古墳(ふるいちつきやまこふん)もその中の一つである。
『日本書記』や『延喜式』では、安閑天皇陵を「古市高屋丘陵」(ふるいちたかやのおかのみささぎ)と記しているのだが、問題は、その文献上の安閑天皇陵が、現実の安閑天皇陵と一致するのかどうかである。
実は、古代の天皇陵とされる古墳のほとんど全てが同じ問題を抱えている。天皇陵は、長い間、どれが誰の墓なのかわからなくなっていたのだ。
歴代天皇陵の調査・治定作業は、江戸時代末になってようやく着手され、明治時代に完了したという。現在の天皇陵は、江戸時代以降の調査結果に基づいて決定されたものである。当時の調査は、古文献と各地の伝承、地名などを比較考証することで行われたが、現在の学問的水準から見れば問題が多いとされる。
奈良時代以前の天皇陵に治定されている古墳40基のうち、歴史学、考古学的に見て被葬者が同意できるのは、天智天皇陵と天武・持統天皇合葬陵など数基に過ぎないという。大仙古墳はそのよい例ではないだろうか。公式には「仁徳天皇陵」として管理されている日本一の巨大古墳も、その真の被葬者は、仁徳天皇陵でない可能性の方が高いといわれている。
何故、そのような事態に至ったのか。
8世紀、律令国家体制のもとで、天皇陵の守衛・管理をさせるため、陵守(みさざきもり、陵戸)や墓守(はかもり、守戸)という身分が設けられた。また、特定の天皇陵に対して、貢物などを献ずる荷前使(のさきのつかい)と呼ばれる役職があった。しかし、律令国家体制の衰退とともに、陵守や墓守の戸数が維持できなくなり、陵墓の荒廃を招く。また、「死のケガレ」を嫌って、荷前使に任命されたにもかかわらず、陵墓に赴かない貴族が続出するようになった。加えて、その使を送る対象とされたのも、9世紀の時点で10陵4墓、10世紀には10陵8墓のみであった。(安閑天皇陵はこの中に入っていない)9世紀の時点で、すでに、それまでの天皇陵全てを管理しきれなくなっていたのだ。荷前使も、後世になると儀式だけで実際に陵墓には赴かなくなり、さらには儀式さえも行われなくなった。
これらのことが、やがて陵墓の所在がわからなくなる原因を作ったという。極端な言い方をすれば、天皇陵は、造ったそばから、それが誰の墓なのか忘れられていった。
そういった事情から、現在の安閑天皇陵、古市築山古墳が、実際はもっと後世の天皇陵である可能性はないかと筆者は考えた。6世紀のササン朝グラスが日本に到達する年代差を考慮してのことだ。ところが、古市築山古墳の築造は、安閑天皇の代をむしろ遡る可能性があるのだ。
この古墳の周囲から出土した円筒埴輪は6世紀初頭前後の特徴を示しているという。安閑天皇が埋葬されたという535年とは若干だが、年代が合わない可能性があるのだ。古市築山古墳は、安閑天皇やその父であり前代の継体天皇(531年没)よりさらに前、5世紀の大王級の人物陵である可能性さえ考えられる。もし、それが正しければ、「伝播のタイムラグ」は、ますますつじつまが合わなくなるのだ。
蛇足だが、日本書紀には、安閑天皇、皇后春日山田皇女、天皇の妹である神前皇女の3人を合葬したとある。しかし、現実には、安閑天皇陵(古市城山古墳)と春日山田皇女の墓(高屋八幡山古墳)が別々に治定されている。これは、『延喜式』に、安閑天皇陵と安閑皇后稜がそれぞれ別の陵として記載されているためだが、その安閑皇后陵の治定にも疑問がある。高屋八幡山古墳から出土した円筒埴輪も古市築山古墳同様に6世紀初頭のものだという。日本書記は安閑皇后の没年を記していないが、少なくとも543(欽明4)年以降のことだ。安閑天皇の2代後の欽明天皇が、即位の際、まだ年少であることを理由に山田皇后(安閑皇后)に政務の決裁を依頼したところ、皇后はそれを辞退した、という記事がある。
藤井寺市教育委員会 編 『新版 古市古墳群』では、安閑天皇より後に亡くなったはずの山田皇后の陵(高屋八幡山古墳)の築造年代を、むしろ安閑天皇陵(古市築山古墳)よりも前に置いた編年表を載せている。もし、安閑天皇と山田皇后の真の陵が実はそれぞれ逆だったとしたら、伝播のタイムラグの矛盾はより小さくなるかもしれない。

伝「安閑天皇陵出土」

この碗が「安閑天皇陵」から出土したというのは、江戸時代の伝承である。3つの古文献がそれを伝えているという。

  • 「・・・今(1801年)より80年前洪水の時安閑天皇陵の土砂崩れ落ちて、その中より朱など多く出て、これに交じりて出るとあり・・・当寺(西琳寺)に蔵む・・・」 『河内名所図会』
  • 「近年土民発陵、得古代器物等・・・」 『前王廟陵記』(元禄11年刊)
  • 「天正(1573~1592)の・・・、里の民、此御陵をあばきしにや・・・土中より玉碗一を得たり。その家に納めること百余年にして、終に西琳寺に寄附す・・・」 『一話一言』

これらの記述は、あのガラス碗が安閑天皇稜から出土したことの根拠になりうるものだろうか。1と3は80年~200年以上前の話を伝聞として書いており、2は、「古代器物」がガラス碗を指すのか不明である。1と3は碗が出土した年代が150年近く離れていて、しかも出土原因が片や洪水、片や盗掘である。どれもそのまま信用することはできないように思われる。
6世紀の天皇陵に副葬品がガラスの碗1個だけということはないはずである。他の副葬品はどうなったのだろうか。なぜ、あの碗だけ残されたのか。
千年以上も土中にあった割には、ガラスの状態が良すぎるようにもみえる。イランなどで出土した同種の碗は、元々、それがガラスだったとは思えないほど変質・変色したものが多いのだ。もっとも、その点は、直接、土に触れていたかどうかの違いかもしれないが。

謎多き碗

この碗が「再発見」された経緯も何やら怪しげである。明治の廃仏毀釈の際、この碗を保管していた西琳寺も廃寺となり、碗は売却され、行方不明になっていたという。それが、1950年8月、さる農家の納屋に保管されていたのを持ち主が学者に鑑定を依頼したことがきっかけで再び世に出た。
「6世紀」、「安閑天皇陵」、「安閑天皇陵出土」、この中で、一番確からしいのは、ガラスの製作年代だけではないだろうか。
しかし、肝心のイラン本国において、同種の碗のほとんどが学術的調査によらず、盗掘によって出土したため、それ以上の詳細な製造年代特定は困難であるという。
伝安閑天皇陵出土の「伝」は、その古墳が安閑天皇陵であること、ガラス碗がその古墳から出土したことの両方にかかっているのだ。私は、この碗が日本に来たのは6世紀でもなければ、安閑天皇陵から出土したのでもないのではないかと想像している。
正倉院の白瑠璃碗以上に謎めいたガラス碗である。

追記 2011/1/30

上の記事と直接関係のない話題ではあるが、2010年12月10日付けの新聞各紙面は、とある古墳発見のニュースを、この手の話題としては異例と思える大きな扱いで取り上げた。
奈良県明日香村、牽牛子塚古墳(けごしづかこふん)のすぐ近くで発見された越塚御門古墳のことだ。
「「斉明天皇陵」決定的」、「「斉明陵」隣に皇女墓か」等々、新聞各紙の見出しは、その古墳の発見が持つ重みを物語る。
『日本書紀』には、天智6(西暦667)年2月27日、斉明天皇とその娘で孝徳天皇の皇后、間人皇女(はしひとのひめみこ)とを小市岡上陵に合葬し、同日、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を陵の前の墓に葬ったとある。
現在、宮内庁が斉明天皇陵として管理しているのは、牽牛子塚古墳から南西に約2.5km離れた車木ケンノウ古墳(越智崗上陵)であるが、牽牛子塚古墳が2つの石室を持つこと、貴人の葬送に用いられた最高級の棺の破片や豪華な副葬品、女性の臼歯が出土したこと、さらに、7世紀の天皇陵に特徴的な八角形墳であると判明したことなどから、牽牛子塚古墳を真の斉明天皇陵とする説はそれ以前から有力だった。
今回、牽牛子塚古墳のすぐ手前で見つかった越塚御門古墳は、日本書紀の斉明天皇と大田皇女の陵墓に関する記述を裏付けるもので、牽牛子塚=斉明陵説を駄目押しする決定的な物証となったわけである。
新聞記事はまた、斉明天皇陵にとどまらず、現在の陵墓指定に共通する問題として、その指定の正しさが改めて問われていること、最新の調査研究に基づく見直しが必要であることを訴えていた。
このニュースに触れて、安閑天皇陵に関しても日本書紀の記述は正しいのではないかという思いを強くした。
前述したように、日本書紀には安閑天皇と皇后春日山田皇女を合葬したとあるのだ。
現実にはそれぞれ別に指定、管理されている安閑天皇陵と皇后陵は、そのこと自体が、少なくともどちらか一方は指定が誤っていることを示唆するものではないだろうか。