旅の空

追憶のイエメン

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サナア

古代の中近東や地中海世界において乳香や没薬は宗教儀式に用いる薫香あるいは薬品として珍重され、それらの香料を産出する南アラビアは莫大な富を集めた。このため、この地域は古代ギリシャ人やローマ人からは「幸福のアラビア」と呼ばれた。そのアラビア半島南端にあるイエメンを旅したのは2006年のことだが、それから12年が経った今、この国は内戦状態に陥っている。

2018年4月末現在、外務省の海外安全情報では最も深刻な「退避勧告」(レベル4)がイエメン全土に発出されている。その上、首都サナアにある日本大使館は2015年2月から閉鎖されており、観光旅行など到底、望むべくもない状況にある。

筆者が旅行した当時もイエメンには政府の統治が及ばない部族支配地域があるとされ、一部の地域では外国人の誘拐事件が度々発生していた。それでも、そうした地域を除けば、特に危険を感ずることもなく旅行できたのだ。

2001年9月のアメリカ同時多発テロ後もしばらく、イエメン国内の政治情勢は安定していたように見えた。イエメンの治安が怪しくなり始めたと感じたのは2009年3月にシバームという世界遺産の街で、韓国人旅行者のグループが自爆テロの犠牲になる事件が起きた時だった。この事件は旅行者にとって、イエメンという国の危険度が質的に変わったことを示す兆候だったと思う。それまで、一部の地域で度々発生していた外国人の誘拐事件でも、最終的には、人質は危害を加えられることなく解放されていたのだ。その後、イスラム過激派が引き起こすテロ事件のニュース報道を多く目にするようになった。

しかし、内戦への決定的な転機となったのはやはり、2010年から始まった、いわゆる「アラブの春」だろう。チュニジアに端を発したアラブ諸国における民主化運動のうねりは、それまで20年以上にわたって政権の座にあったサレハ大統領の退陣という形でイエメンにも波及した。そして、新たに就任したハディ大統領率いる政権側と、フーシ派と呼ばれる武装勢力との間で戦闘が起こり、たちまち内戦へと発展していった。

元々、20世紀に南北の共和国に分かれて建国したイエメン共和国は、長年の紛争を経て1990年に歴史的な南北統一を果たしたばかりだった。それが今や、首都サナアをはじめフーシ派が支配する北部と港湾都市アデンを中心に政権側が支配する南部という形で分断状態に至る。あたかも統一前の状態に逆戻りしたかのようである。

しかも悪いことに、ハディ政権側には隣国のサウジアラビアが、フーシ派にはイランが付いて、それぞれ背後で手を引いているとされる。イエメン内戦の黒幕としてイランの名前が挙がっているのは当サイトの主旨からしても誠に遺憾である。

イエメン内戦は今や、サウジアラビアとイランという地域の大国同士による覇権争いの様相を呈している。好転の兆しが一向に見えない中で、12年前の旅の記録を残しておきたいと思い立った。アラブの最貧国などと言われているが、中に入ってみると、この国は実に豊かで魅力的な表情を持っていた。しかし、筆者がかつて訪ねた数々の名所旧跡は破壊を免れているだろうか。

12年が経った今でも、たくさん撮った写真と旅行会社がくれた資料、旅のメモさえあれば、予想をはるかに超えて楽しかったあの旅を記憶の中で再現できる気がする。行く先々で出会うイエメンの人々は、異国からの訪問者に笑顔を向けてくれた。それに、陽気で気さくで人の良いドライバーたちとガイド。彼らは今頃どうしているのだろう。無事でいるだろうか。

イエメンの人々が、一日も早く内戦を克服し、かつての平穏な暮らしを取り戻すよう願ってやまない。

ドーハ  Doha

羽田から関西国際空港で飛行機を乗り継ぎ、カタールのドーハへやって来た。の朝5時過ぎである。飛行機の座席前のディスプレイに表示された外の気温は25℃だった。タラップを降りる時、さほど暑さは感じなかったが、日の出前でこの温度なのだから、陽が高くなればきっと30℃を軽く超えるだろう。ヨーロッパやアジアの色々な国から乗り継ぎで人が集まるドーハの空港は当時、拡張工事の真っ只中で、通路は身動きがとれないほど混雑し、待合スペースにあるベンチは一つも空きがなかった。

3時間余りの乗継時間の後、ドーハからさらにイエメンの首都サナアへ向けて、眼下にアラビア海を望みながら飛ぶ。陸は不毛の砂漠がどこまでも広がっている。考えてみれば過酷な環境だが、上空から見ると、海の透き通るような青色も砂漠のベージュ色も美しかった。所々に桟橋や油田関連と思われる施設があった。涸れ川(ワジ)が大地を抉ったかのような筋を刻んでいる。

農村風景が見えてくる。耕地を塀で囲っていた。

サナア  Sana'a

イエメン共和国の首都サナアの空港に降り立ったのは同じ日の正午頃。乗り継ぎ時間も含めれば、18時間以上もの長いフライトだった。サナアの空港に無事着陸した飛行機の窓から外を眺めと、空港内の草地に用済みの機体が腹ばいのまま放置されていて唖然とした。空港でガイドの出迎えを受け、ミニバスに乗り込む。今回はユーラシア旅行社が催行する総勢20人余りのツアーに参加している。

まず、この日に泊まるホテルで休憩してから、旧市街を少し観光することになっている。車窓の景色を眺めながら、すさまじい所に来たと早くも思った。それまでに訪れたイランやトルコともまるで違う国だ。それだけに、宿泊するタージ・シバ・ホテルの部屋が普通の中級ホテル並みだったので安心する。

イエメンの首都サナアの街並み|Sana'a,Yemenタージ・シバ・ホテルの室内(サナア、イエメン)|Taj Shiba Hotel of Sana'a,Yemen

午後3時からサナア旧市街の観光に出かける。サナアは世界でも最古の街の一つとされ、伝説によれば、旧約聖書に登場するノアの箱舟で有名なノアの息子セムが建設した。かつて、街は全長10キロ以上にも及ぶ城壁で囲われ、5つの門で守られていたが、現在はイエメン門(バーバル・ヤマン)を残すのみだという。ちなみに、アラビア語ではイエメンのことを「ヤマン」(al-Yaman)という。

イエメンの首都サナアの旧市街|Sana'a自動小銃を持った車内の男たち(イエメン、サナア)|Sana'a,Yemen

車を降りて、ちょうど広場にさしかかったところで、1台の乗用車に呼び止められた。中には4人の男が乗っている。なんとその中の少なくとも2人は自動小銃を手にしているではないか。でも、彼らは軍や警察の服装をしていない。民間人のはずである。この国ではごく普通に銃が出回っているという予備知識はあったが、街歩きを始めたばかりで遭遇したこの光景にはいきなりショックを受けた。しかも、彼らは身振り手振りも使って他ならぬ僕に向かって何か言っている。カメラを向けたつもりはなかったが、写真を撮られたと勘違いして怒っているのだろうか。だが、落ち着いて彼らの真意を探ると逆だった。俺たちを撮ってくれと言っていたのだ。写真を撮られると彼らは満足した様子で走り去った。

イエメンの首都サナアで出会った子供たち|The Childrens of Sana'a,Yemenイエメンの首都サナアで出会った子供たち|The Childrens of Sana'a,Yemen

日干しレンガと石と漆喰で造られたイエメンの伝統的な高層建築に囲まれた路地を歩いていると、ちょうど学校帰りの時間と重なったらしく、小学生らしき好奇心いっぱいの子供たちに囲まれた。

イエメンの首都サナアで出会った子供たち|The Childrens of Sana'a,Yemenイエメンの首都サナアで出会った人たち|The People of Sana'a,Yemen

カメラを向けられると嫌がるかと思いきや、「スーラ!(写真を撮って)」と言ってせがんでくる子供たちが多かったのが意外だった。何より素晴らしいのは、子供たちの表情が無邪気で実に生き生きとしていたこと。ただ、女性に関しては、風景の一部として写る場合は別として、相手が自分にカメラが向けられていると意識するような撮影はしないよう気を使った。イスラム圏で、しかも女性の場合は特にそうだが、本人の同意なく写真を撮らないよう注意を受けるのは団体ツアーでは毎度のことである。

イエメンの首都サナアで出会った子供たち|The Childrens of Sana'a,Yemenイエメンの首都サナアで出会った子供たち|The Childrens of Sana'a,Yemen

その後、旧市街にあるゴールデン・タール・ホテルの屋上カフェで紅茶を飲み、最上階にあって来客をもてなすマフラージと呼ばれる寛ぎの間で休憩した。紅茶には香辛料の良い香りがしたので聞いてみると、カルダモンが入っているのだという。香辛料の使い方を心得ているなあと感心した。

ホテルの屋上からは旧市街の眺めがほぼ360度に渡って楽しめるのだが、あいにくこの日は曇っていて、白く縁取りをされた茶色の街並みは今一つ冴えなかったのである。晴れの日と曇りの日とで色合いがどれほど違って見えるか、最終日に再び観光するサナアで思い知ることになる。

ゴールデン・タール・ホテルの屋上カフェ(イエメン、サナア)|Sana'aイエメンの首都サナアの旧市街|The Old City of Sana'a,Yemen
スーク  Suq

ホテルへ帰る道すがら、サナアの市場(スーク)を通った。民族服を来て腰に小刀を差した男たちが路地を行き交っている。サナアのスークを歩くと、まるで違う時代をさまよっているかのようだ。車があらゆる所に入って来るので、あまり安心して歩けないが、狭い路地を挟んで両側にずっと連なる店先には、食料や香辛料、衣類に布生地に履物、陶器や金属製品、その他日用品などなど、ありとあらゆる品が所狭しと並んでいた。

サナアのスーク(イエメン)|The Suq of Sana'a,Yemenサナアのスーク(イエメン)|The Suq of Sana'a,Yemen

ピスタチオを売る店の前で立ち止まって品定めをしていたら、味見をさせてくれた。シリア産とイラン産が入ってきているという。かつての交易路を彷彿とさせるではないか。どちらも甲乙つけがたい美味しさだった。今、買うと荷物になるので、サナアへ戻って来る最終日にまたこの店へ立ち寄ることにした。

サナアのスーク(イエメン)|The Suq of Sana'a,Yemenサナアのスーク(イエメン)|The Suq of Sana'a,Yemen

スークで売っている数多の商品の中で、イエメンならではといえる品は、成人男性がその証として腰に差すジャンビーヤという三日月型の小刀、それと乳香だろう。乳香はイエメンの隣国オマーンに多く自生する樹木の樹脂を原料とする香料である。古代から宗教的儀式に用いられ、黄金と同じ価値で取り引きされたこともあったという。試しに焚いてもらうと、甘いだけではない、苦みも感じる香りが辺りに立ちこめた。松脂の匂いにも似た高貴な香りである。この乳香を焚くための石で作った小さな炉も土産に良さそうだ。

サナアのスーク(イエメン)|The Suq of Sana'a,Yemenサナアのスーク(イエメン)|The Suq of Sana'a,Yemen

そしてもう一つ、コーヒー好きとして触れないわけにはいかないのが、イエメンこそがコーヒーの発祥地であることだ。コーヒーの木を栽培できる条件は、適度な雨量と日光、温度、土質の4つであり、地理的には「コーヒーベルト」と呼ばれる、赤道を挟んで北緯、南緯それぞれ25度を上限とする範囲内にある標高500~2,500メートルの高地である(出典:「コーヒーの生育条件」AGF)。イエメン南西部の山岳地帯はこの条件に合致する。

コーヒーの代表的銘柄であるモカの名は、中世からコーヒー豆がさかんに積み出されるようになったイエメン南西部の紅海に面した港町、モカ(al-Mukha)に因んでおり、イエメンで産出されるモカはエチオピアのモカ・ハラリと区別してモカ・マタリと呼ばれる。

ただ、イエメンで主流なのは、コーヒーの豆(種)ではなく被殻(果肉)を煮出した後に生姜や砂糖を加える飲み方で、ドリップで淹れたものとはまるで違う味になる。しかも、イエメン人の間で日常的に飲まれているのはコーヒーではなく紅茶だという。

イエメン門(サナア)|Bab al-Yaman (Gate of Yemen) of Sana'a,Yemen

イエメン門(バーバル・ヤマン)へと続く通りには、門の外へ向かう、あるいは門から入ってくる人の流れが絶え間なくある。門の前の広場では男たちがたむろしていた。

正直なところ、僕はこの期に及んでなお、イエメンに来たことを後悔する気持ちがあった。日本はおろか、今までに行った国々と比べても、社会の向いている方向があまりに違いすぎる気がしたからだ。しかし、このとき僕はまだ知らなかったのだ。これから先に豊饒な世界が広がっていることを。

アザーン  Adhan

、4時頃のアザーンで目が覚めた。アザーンとはイスラム教で定められた1日5回の礼拝の時を告げる詠唱である。かつてはムアッジンと呼ばれる役職者がモスクの尖塔(ミナレット)の上から肉声で呼びかけていたらしいが、現代では録音したものを放送する。唱和される内容は厳格に決まっているのだが、節回しは詠唱者によって違うため、音楽のように聞こえる。思うに、アザーンはイスラム圏を旅する醍醐味の一つである。