旅の空

イランの旅 2004

ペルセポリス、ナグシェ・ラジャブ
ナグシェ・ロスタム、パーサールガード

ペルセポリスの日

充分、睡眠はとったはずなのに、朝、起きてみると、頭痛がして、体がだるかった。時差ボケと、炎天下を歩きまわった昨日の疲れが出たのかもしれない。外に出ないで休養した方がいいかもしれないと一瞬思ったが、なんといっても、今日はあのペルセポリスに行く日なのだ。ホテルで安静にしているなんて考えられないことだった。
こんな調子だったから、頭がボーっとしていたのだと思う。チェックアウトの際、フロントに部屋の鍵を返すのを忘れてしまった。ズボンのポケットに部屋の鍵が入っていることに気付いたのは、ペルセポリスに着いてからだった。

交通事情

ペルセポリスは、シーラーズから1時間ほど車で走った郊外にある。
シーラーズ市内の道路は非常に混雑する。車窓からイランの過酷な交通事情を目の当たりにした。
とにかく車の数が多いのである。片側3車線の道路なのに、車の列は4つ、5つ、しかも前後左右びっしり詰まっている。隙あらば、対向車がいようと、交差点を塞ぐのもお構いなしに突入し、右端の車線から車線変更せずに一気に左折したりする。当然のように、どの交差点も大渋滞だった。
歩行者優先という概念は存在しない。横断しようとする歩行者がいても、決して車の方から止まることはない。止まってくれたり、途切れたりするのを待つものではなく、体を張って止めるのだ。我々は、ガイドの誘導なしには、怖くてとても渡れそうにない。
一方で感心するのは、どんなに無理、強引な割り込みをされても、まるで、それを見越していたかのようにきちんと手前で止まることだ。割り込まれた方の表情を見ても、特に腹を立てているふうには見えなかった。日本だったら、猛烈にクラクションを鳴らされると思う。
市内を抜ける間、道路のあちこちで繰り広げられるカーアクションのおかげで、少しも退屈しなかった。

郊外の道

郊外に出ると、そこからペルセポリスまでの道は、まるで地質学の教科書のような雄大な景色の連続だった。岩盤を捻じ曲げるとてつもない力が働いた跡が残っている。
白っぽい乾いた山肌に、緑がよく映える。写真を撮っておけばよかったとつくづく思う。つい風景に見とれた。
片側一車線の、道行く車も少ない田舎道を、我々が乗る大型観光バスは、時速80km以上で疾走した。揺れが大きくて、途中、車内中央の冷蔵庫まで水を飲みにいくのは命がけの気分だった。
片側一車線の道路だが、我々が乗った大型バスは果敢に追い越しをかける。スリル満点のドライブである。追い越す車、追い越される車、対向車という具合に、片側1車線の道路に時々、3台の自動車が並んだ。一番前の席に座っていた添乗員Tさんに後で聞いたら、途中、ヒヤヒヤする場面は何度もあったとか。それでも、運転手を見ていると、判断力は確からしいし、本当に無茶なことはしないとわかったので、割と安心していられた。
街道沿いには、ところどころに小さな村があった。道路脇に、飲み物や菓子などを売る屋台があったりする。
道路沿いにわずかな家が並ぶばかりの集落があった。家の前でぼんやり座っている男性は一日何をして過ごすのだろう。

ペルセポリス 1  Persepolis (Takht-e Jamshid)

バスは、遺跡から少し離れた駐車場に止まった。見学の前にトイレを済ませるが、その時間すらもどかしく、はやる心を抑えきれない気がする。
カフェやチケット売場の脇を抜けると、要塞のような巨石建造物が現れた。ペルセポリスは、最初から期待を裏切らなかった。てっきり、地面と同じ高さだと思っていたら、人間よりも大きな切り石を積んで高さ7~8mの基壇を作り、その上に宮殿を建てたのだ。この高さは予想外だった。
入口に向かう途中、イラン人のある一団とすれ違った。子供たちのほかは、みな黒いチャドルを被った女性ばかりだ。一緒に記念写真に入ってくれるよう頼まれた。こちらのカメラでも撮らせてもらおうと思ったが、撮り終わるとさっさと行ってしまった。こうして会う人々の表情が意外にみな明るいのである。
ペルセポリスPersepolis

ペルセポリス 2  Persepolis

ペルセポリスは、アケメネス朝の王が例年の儀式を執り行うために造った宮殿と考えられている。今から2,000年以上前、様々な国の使節団が王に拝謁するために通った大階段を上る。馬に乗ったまま上れるように段が低くなっている。石のブロックを積むのではなく、巨石を削りだして階段状に加工しているのだ。
階段を上り詰めると、クセルクセス門の前に出た。頭は人間、体は翼の生えた馬という不思議な姿をした神の巨大なレリーフが石柱に施されている。胴体や足の筋肉などは、石とは思えないほど、滑らかな曲面を彫ってあった。
門から振り返ると、遺跡の前方に広がるマルヴダシュト平原がはるか遠くまで見渡せた。イランでは、ペルセポリスのことを、タフテ・ジャムシード(ジャムシード王の玉座)と呼んでいる。ペルセポリスという呼び名はあまり通りがよくない気がする。
クセルクセス門(万国の門)クセルクセス門のレリーフ百柱の間とアルタクセルクセス2世王墓

ペルセポリス 3  Persepolis

クセルクセス門を抜けると、広大な空間が開けた。右手奥に見える謁見殿には、高さ20mはあろうかという白い石柱が林立している。石柱の装飾は、古代ギリシャの様式と一見、似ているようで独特の形だった。そのさらに奥にはタチャラと呼ばれるダレイオス1世宮殿が見える。前方には百柱の間、背後の岩山には、巨大な岩窟墓が2つあった。歩を進めれば、素晴らしいレリーフ、柱飾り、彫像などが次から次へと現れる。もう無我夢中だった。
子供たちTakht-e Jamshidアパダーナ(謁見の間)の列柱 自由時間がいくらあっても足りないと感じる。残り時間を考えると、後ろの山にある岩窟墓はあきらめるしかなかった。炎天下を2時間近く歩き回って、ふと気づくと、ホテルを出る前の頭痛や体のだるさは、いつの間にかすっかり消えていた。
奥さんと妹を連れて旅行に来たという若いイラン人男性が、ツアーメンバーのHさんたちに英語で話しかけてきて、しばらく談笑していた。髭を生やして強面に見えたが、非常に気のいいやつだった。遺跡見学に訪れていた子供たちに囲まれたりもした。
遺跡内に、宮殿のハレムを一部復元した博物館があった。博物館の赤い柱や壁を前にして妙な既視感にとらわれた。これと似た感じの建物を昔、見たような気がする。しかも、奈良で。
タチャラ牡牛の柱頭飾りホマー(グリフィン)の柱頭飾り

ナグシェ・ラジャブ  Naqsh-e Rajab

NAQSH(ナグシュ)とは「模様、絵」の意味。ラジャブとは、この場所で昔、チャイハネを営んでいた人物の名前らしいが、遺跡は、3~4世紀、ササン朝ペルシアのものである。
王と家臣、神官や神々を表した見事なレリーフが残っている。所々、顔が削り取られているのが残念だ。顔をつぶさないと岩に掘られた人物が動き出すという迷信があったらしい。ガイドの説明を聞いていたら、ベンチに座っていた先客の若い男性3人組が席を空けてくれた。
雲ひとつない空、灼熱の太陽が、すでに充分乾ききった地面をさらに照りつけている。干からびて骨と皮だけになった牛の死骸が転がっていた。
ナグシェ・ラジャブNaqsh-e Rajabナグシェ・ラジャブ:周囲の風景

ナグシェ・ロスタム  Naqsh-e Rostam

ナグシェ・ロスタムアケメネス朝の王墓Naqsh-e Rostam
荒涼とした平原に、岩壁が巨大な屏風のように続いていた。写真や映像でしか見たことのがないのに、アメリカ西部の風景を連想した。その岩壁に、紀元前6世紀頃、アケメネス朝の王たちが岩肌をくりぬいて墓を作っている。小高い丘を登っていくと、十字形の墓が上の方から見えてきて、圧巻だ。
アケメネス朝から数百年後、ササン朝の王たちが、先祖の墓の下にレリーフを刻んだ。世界史の教科書にも載っていた有名なレリーフがある。馬上のシャープール1世に跪くローマ皇帝フィリップス・アラブスと両手を掴まれたヴァレリアヌス帝。対ローマ帝国戦勝記念レリーフである。こんなに大きいとは思わなかった。ローマ皇帝の姿が、ローマからはるか遠く離れたイランに刻まれているのは不思議な気がする。改めて、古代史のスケールの大きさを感じた。
対ローマ帝国戦勝記念レリーフローマ皇帝ヴァレリアヌスシャープール1世
2時近くになって、ペルセポリス周辺で唯一のレストラン、ラーネイェ・ターヴース(孔雀の巣)で、少し遅い昼食にありついた。レストランは、国内外からの観光客で大繁盛していた。中庭にしつらえたテーブルは、頭上に生い茂る木々ですっぽりと日陰に入っている。木陰の昼食はなかなか気持ちよかった。

パーサールガード(パサルガダエ) 1  Pasargad

パーサールガードは、バビロン捕囚のユダヤ人を解放したことで有名な大王キュロス2世が都を置いた場所で、ペルセポリスから車で1時間余り、かなり離れた場所にある。
最初に、キュロス2世王墓に立ち寄った。保護のためか、修復中なのか、墓全体に足場が組んであったのには幻滅した。ガイドのアミールさんによれば、もう10年以上もこの状態だという。しかし、やはり写真と実物とでは、迫力も石の重量感も違う。かのアレクサンドロス王もキュロス2世を尊敬し、ここを訪れたという。
キュロス2世より後のアケメネス朝の王たちがこれとは全く形式が違う、岩窟墓を採り入れたのは不思議だ。
キュロス大王墓パサルガダエ:周囲の風景

パーサールガード 2  Pasargad

パーサールガードの宮殿跡は、キュロス2世王墓から、さらに離れた場所にある。今は、わずかな遺構が広大な区域に点在しているばかりだ。
ペルセポリスに比べると淋しい気もするが、ここは、かつてアケメネス朝の最初の首都があったところ。当時は、もっと壮麗な宮殿があった。
日差しを遮るものもない、だだっ広い荒野の遺跡に、真っ黒に日焼けした守衛の男性が一人、椅子に座っていた。
パーサールガードPasargadパサルガダエ

コーラン門、そしてエスファハーンへ  Darvaze-ye Qor'an

シーラーズに戻る途中、コーラン門へ立ち寄った。ちょうど夕暮れ時にさしかかっていた。昔、ある王が、旅人の安全を祈願して、古い貴重なコーランをこの門に奉納したという。門を見つめる我々自身にも周囲から注目の視線が集まる。
門の先はゆるやかな登り坂が続き、その先は、険しい岩肌が見えるだけだ。その昔、多くの旅人がこの門を通って旅立った。
今夜、シーラーズを発ってエスファハーンへ向かう我々にもぴったりな場所だ。振り返ると、夕映えにうっすらと赤く染まったシーラーズの町並みが見えた。
コーラン門コーラン門