旅の空

イランの旅 2004

ヤズド ~ テヘラン

ヤズドの朝  Yazd

朝、公園のようなホテル敷地内を歩いてみた。広いバラ園がある。庭の手入れをしていた庭師と挨拶を交わした。
日射は、エスファハーンよりはるかに強いと感じる。
ホテルの門を出て、周りに何か面白いものがないか探したが、ここは旧市街から遠く離れている。郊外の風景が延々と続いているだけだった。
ヤズドのホテルヤズド:郊外の風景

沈黙の塔  Dakhme

ヤズド:沈黙の塔バスに乗って集合住宅が建ち並ぶ新市街を抜けると、突然、異様な光景が現れた。草一本たりとも見あたらない土色の荒涼とした大地の先に火山のような形をした禿山がそびえている。この世とは思えない眺めだった。
我々の乗ったバスは、舗装路を外れ、未整地同然の地面を進んで行った。この世とあの世の境界線を越えたような気がした。
禿山の頂上には、山と同じ色をした丸い城塞のような建物がある。「沈黙の塔」(ダフメ)である。禿山の麓には、日干しレンガでできた廃墟らしき建物がいくつも並んでいる。
沈黙の塔は、かつて、ゾロアスター教徒が、死者の遺体を鳥に食べさせる「鳥葬」を行う場所だった。40年ほど前まではこの埋葬儀礼が実際に行われていたという。
乾いて滑りやすい斜面を登る。隣にもう一つ少し低い禿山がそびえ、頂上には同じような塔がある。禿山の背後は山脈が続いていた。背後の山腹に古代遺跡のような建物がある。ガイドのアミールさんによれば、その昔、巡礼者たちの宿泊施設だったという。
ヤズド:沈黙の塔ヤズドDakhme-ye Zartoshtiyan
分厚い土塀で円形に囲まれた地面の中央に縦穴が開いている。かつては、鳥葬の後、残った骨を投げ入れた穴に、ヨーロッパ人の観光客夫婦が座っていた。もちろん、今は、人骨などどこにも見当たらない。
塔の頂上からヤズドの新市街が見渡せた。ぽっかりと開いたこの死の空間と隣り合わせで、新しい家々が建ち並んでいる。
ヤズド:沈黙の塔沈黙の塔からヤズド新市街の眺めゾロアスター教葬祭殿
禿山をバイクで駆け回る少年たちがいた。場の雰囲気がぶち壊である。
山を下りると、どこからか、ラクダを引いた老人が現れた。観光客をラクダに乗せたり、写真を取らせたりして稼いでいるようだ。
麓には、砕石と日干しレンガで造られたゾロアスター教葬祭殿跡が残っていた。かなり崩れているが、これらの建物も見応えがある。
ゾロアスター教葬祭殿ゾロアスター教葬祭殿と沈黙の塔現代のゾロアスター教徒墓地 よく見ると、ダフメの敷地内のそこかしこに建材のレンガが落ちている。民有地との境界は一体どこにあるのか不思議に感じた。葬祭殿の一棟に勝手に住み着いた住人までいる。沈黙の塔だけでなく、景観も是非保護してもらいたい。
ダフメの近くには、現代のゾロアスター教徒の墓地がある。そこでトイレを借りた。鳥葬を禁じられた現代のイランで、火・水・空気・土を穢すことを嫌う彼らは、地べたにコンクリートを張ってその上に死者を埋葬するのだという。
バスに戻る途中、ツアーメンバーの人と「今日は涼しいですね」などと話した。後で、バスの外気温計を見たら、34℃だった。慣れもあるが、湿気があるのとないのでは、暑さの感じ方が違うのだ。

ゾロアスター教神殿  Atesh-kade

ゾロアスター教は、紀元前12世紀から9世紀の中央アジアで、ザラスシュトラ(ゾロアスター)・スピターマという人物が創始した世界最古の啓示宗教とされる。ユダヤ教、キリスト教、仏教などに大きな影響を与えたという。
世界は、善と悪、光と闇の闘い。終末の時、善神アフラ・マズターが悪魔アンラ・マンユを打ち滅ぼし、世界は一新される…。
現代のイランにもゾロアスター教徒がいることは、予備知識として知ってはいたけれども、実際にこの古代宗教が生き延びている姿は驚きだった。ヤズド市内にある現代のゾロアスター教神殿は、建物自体は新しいが、中では、1500年もの間絶えることがなかったという聖火が燃えている。壁には教祖の肖像(想像)画がかかっていた。
見学に来ていたイラン人の何家族かに頼まれて、記念写真に納まった。
ゾロアスター教神殿教祖ゾロアスター聖火

アミール・チャグマーグのタキーイェ、旧市街  Takie-ye Amir Chaqmaq

ゾロアスター教神殿を後にして、ヤズド旧市街の中心へ向かった。車窓から眺める街は、日干しレンガのベージュほぼ一色で、色彩豊かではないけれど、気品が感じられる。
アミール・チャグマーグのタキーイェは、バザール、モスクなどが集まった複合施設である。門の前に大きな広場があり、バードギールという、てっぺんに風採り窓のある独特の建築が見える。
広場で、アミールさんを囲んで説明を聞いていたら、一人の現地人男性が我々の輪に入ってきた。あなたは日本語がわかるのかとアミールさんが彼に尋ねたら、日本語はわからないが、日本人が好きなので聞いていたのだと答えた。
アミール・チャグマーグのタキーイェヤズド旧市内ヤズド旧市内

レストラン・ハーン  Chaykhane-ye Hammam-e Khan

アミール・チャグマーグから昼食場所のレストラン・ハーンまでの距離を少し歩いて、この街は、他の街とは違う独特の美しさがあると思った。旧市街をゆっくり見る時間がなかったのは非常に悔やまれる。
ハーン・レストランは、元々、ハマム(公衆浴場)だった建物を改装したチャイハネ・レストランで、雰囲気がとてもいい。
「アーブ・グーシュト」という名物イラン料理を初めて食べた。牛肉と野菜のを壺煮込みシチューだ。最初に、壺から汁を出して、それにちぎったナンを浸して食べ、一方で、壺に残った肉や野菜を潰して食べる。一度で二度おいしいという料理だ。今回、イランで食べた料理の中でこれが一番だった。
そんな時、またしても停電が起きた。気温40度超えのヤズドで、しかも熱々の煮込み料理を食べている最中という、ちょっと考えたくなかったタイミングで冷房が止まり、照明が消えた。薄暗い、熱気のこもった店内で、我々は大汗をかきながら食事を続ける。そのときの暑かった印象をかき消してしまうほど、アーブ・グーシュトは美味だったのである。
他に、みじん切りのニンニク小片が入ったヨーグルトも出た。圧倒的多数のツアー・メンバーには不評で、ほとんどが手を付けずに残していたように思う。添乗員Tさんは、わざわざ食べたい味ではないと言った。でも、僕は意外と口に合ったので完食した。
レストラン・ハーンChaykhane-ye Hammam-e Khan

休憩

ヤズド旧市内昼食後は、ホテルに戻って2時間ほど休憩する予定だ。この暑さの中で動き回れば、体力を激しく消耗する。ホテルへ向かう前に、アミール・チャグマーグ広場の向かいに、バクラヴァという甘い菓子を売る有名店があるというので、そこへ寄った。どんな味なのかさっぱり見当がつかないが、とりあえず見た目で、種類の違う2箱を選んだ。この店は、商品を受け取るところ、金額を計算するところ、支払いをするところがそれぞれ別になっていて、その仕組みを知らない我々は、店内で右往左往した。
ホテルに戻ってきた。ヤズドの暑さは格別だ。部屋に戻って、シャワーを浴びた。僕の部屋にはエアコンがなかったので、この部屋で昼の暑さをしのげるのか不安だったが、室内は、思っていたほど暑くなっていなかった。これも空気が乾燥しているせいだろうと思う。大きな換気扇を回せば、さほど苦にならなかった。ベッドに横になってしばらく眠った。

マスジェデ・ジャーメ(金曜日のモスク)  Masjed-e Jame

ヤズドのジャーメ・モスクも、エスファハーンのモスクにひけをとらない、由緒正しきモスクと見た。イランで一番高い52mのミナレット(尖塔)を持ち、ドームは、ササン朝時代、ここがまだソロアスター教神殿だったときに造られたもの。イマームモスクのような青い緻密なタイルが壁面に施されている。
このモスクの地下にはガナートが通っている。我々が行った時には、ちょうど改修中か何かだったらしく、ガナートに通じる扉の鍵を政府が持って行ったと管理人らしき老人がアミールさんに答えた。鉄格子がはめられた地下の大きな穴から冷気が上ってくる。
モスクを見学した後、少し自由時間があった。遠くまで行く時間はない。モスクの周囲には外国人相手の土産物屋も並んでいて、ヤズド名産の絹織物や骨董品などを売っていた。
周辺の通りを少し歩いてみる。ここにもバイク軍団が出没した。旧市街の狭い道を危険なスピードで走り回っている。午後4時半過ぎだったが、閉まっている店が多かった。夏は昼過ぎから夕方まで店を閉めてしまうのが普通だ。ベージュ色の高い土壁が建ち並ぶ中、空の青とタイルの水色が映える。
ヤズド:ジャーメ・モスクヤズド:ジャーメ・モスク周囲の風景ヤズド:ジャーメ・モスク周囲の風景

テヘランへ

道路で、父・母・子2人のバイク4人乗りを見た。3人乗りまでは珍しくなかったが。しかも、ヘルメットを被った人を誰一人見かけない。
ヤズドの空港へ向かう途中、我々の乗ったバスは信号無視を見つかって、パトカーに止められた。バスを下りた運転手がすぐに戻ってきた。飛行機に間に合うように外国人を空港へ送らなきゃいけないんだと言い訳したら、「そういうことならOKだ」と許してくれたという。
夜8時頃、テヘランに着いた。古代や中世の街並みから急に現代の都会へ舞い戻ってきたので少々戸惑いを感じる。
夕食は、ホテルの最上階にあるレストランで。明日一日で旅が終わってしまうという寂しさをかみしめながらの食事だった。