旅の空

イランの旅 2010

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2010年イランの旅

核問題と経済制裁

2010年の夏休みも、他の行先をほとんど考えないでイランに決めてしまった。3回行っても、まだ訪れていないところ、もう一度行きたいところがたくさんある。
今回は、2004年の旅でも訪れたヤズドを再訪するつもりだった。前回は旧市街を散策する時間がほとんどなく、欲求不満が募ったところだ。それに、ヤズド郊外にあるゾロアスター教の聖地チャク・チャクは、以前から行ってみたい場所だった。

2010年の夏休みは、9月8日(水)から14日(火)までの7日間。2010年のラマダンは、8月11日から(イランは12日から?)9月9日までなので、ラマダンをうまく避けることができた。
イランを旅行しようとすると、直前に何かしら政治問題が起きるという展開が過去2回続いているが、この年も例外ではなかった。
核問題は、僕が初めてイランを訪れた2004年からの懸案事項だったのだが、2010年6月に国連決議が採択されたのを受けて、イランへの経済制裁が一層強化されるのは避けられない情勢となった。
暗澹たる気持ちにさせられたのは、日本政府が、国連決議による追加制裁にとどまらず、アメリカの主導するイランへの独自制裁に踏み切ったことだ。イランは「友好国」ではなかったのか。イランの政治体制を賛美するつもりはないが、なぜ、日本が独自制裁まで行う必要があるのか。政府が、長期的視野や国益ではなく、単に、アメリカの顔色をうかがって政策決定しているようにしか見えなかった。
日本が対イラン独自制裁を発表したのが旅行直前の9月3日。最悪のタイミングになった。2007年の旅以降、イランで日本や日本人の存在感が低下しているのを感じている。2004年には、通りすがりの人から「日本人?」と声をかけられたものだが、今では、「中国人?」か「韓国人?」と聞かれるのがせいぜいである。街中ではサムソンやLGなど韓国企業の広告が目につき、道路を走るのは、起亜自動車の「Pride」のような韓国車ばかり。日本企業はイランで一体何をしているのかと歯がゆく思うことしきりである。
そのような中で、日本の独自制裁は、イランとの関係にどういう影響をもたらすのか。イランの人々が、あくまで政治の話とは別次元で、日本や日本人に良い感情を持ち続けてくれるだろうか。
政治や経済の面だけでなく、年々、そうした感情的なつながりも薄れてゆくように感じていた。でも、そんなときこそ、正倉院の白瑠璃碗を思い起こすべきなのだ。シルクロードの時代に遡る交流の歴史は、両国にとって、立ち返るべき貴重な原点だと思う。

再びエミレーツ航空

今回もイラン航空の出発日と日程が合わなかった。少し前に、エミレーツ航空が成田空港に就航するようになったが、あいにくその出発日にも合わず、前回同様、関西国際空港経由のフライトになった。エミレーツ航空は快適なのだが、さすがに羽田→関西→ドバイ→テヘラン→ヤズドという乗継は多いと思う。
現地時間の朝5時前、まだ暗い中、ドバイ空港に着く。ドバイは2回目だが、巨大空港だけに、着陸してからバスに乗ってターミナルに着くまでが非常に長く感じられた。乗継のわかりやすさには今回も感心する。搭乗待合室の冷房が効き過ぎなのも相変わらずだ。今回は薄手のジャケットを用意していたが、それを羽織ってもまだ少々寒い。商用でイランへ向かうらしい中国人たちはさすがに慣れていて、ジャンパーを着込んでいた。

4度目のイラン

エマーム・ホメイニーに降り立つのもこれで二度目、もう勝手がわかっているから鼻歌気分だった。前回と比べると、機内預け荷物が出てくるまでにずいぶん時間がかかったように感じた。セキュリティチェックを受けて、ゲートを出たのは午前11時近くだった。
空港で出迎えてくれたのは、去年もテヘランで世話になった日本語ガイドのマジドさん。それから、3年前にソルターニーエで出会ったテヘラン在住の女性二人、マルズィエとマースーメ。彼女たちとは時々、Eメールのやり取りが続いていた。
18:35発のヤズド行きの飛行機まで少し市内観光をする時間がある。彼女たちとは一旦別れ、昼食後にテヘラン市内のニヤーヴァラーン宮殿で落ち合うことにした。
テヘランTehran
空港からマジドさんの車に乗ってテヘラン市内へ向かう。以前と変わらず平穏なテヘランの街を車窓から眺めていると、核問題や経済制裁などは、まるで、どこか別の国の話であったかのように感じられた。マスコミの醸し出す緊迫したイメージと実際に受ける印象との落差に拍子抜けする。程度の差はあれ、これも毎度のことである。
でも、初めて訪れた6年前、この国は希望と明るさに満ちていたような気がしてならない。
テヘランTehran

ニヤーヴァラーン宮殿  Kakh-e Niyavaran

ニヤーヴァラーン宮殿は、アルボルズの山裾、ダルバンドにもほど近いテヘランの超一等地に、広大な敷地の中、木立と芝生に囲まれて建っている。この宮殿もまた、イスラム革命前の前王朝時代に建てられたものだ。テヘランやラームサルで見たパフレヴィー王朝時代の宮殿に比べると質素で、生活感さえ感じられて良い。といっても、中にある調度品はすべてアンティークの高級品であるが。
ニアバラン宮殿Niavaran Palace, Tehran
マルズィエ、マースーメと宮殿の中を一緒に歩きながら会話した。しかし、着いたばかりの移動疲れと寝不足で気分も体調も今一つ。宮殿の見物も上の空だった。久々に会ったというのに、あまり元気な顔を見せられなくて、彼女たちには申し訳ない気がした。
彼女たちとは、一緒に記念写真を撮った後、別れた。
ニヤヴァラン宮殿Kakh-e Niyavaran

空港へ

ホメイニー師住家近くのとあるナーンヴァーイーニヤーヴァラーン宮殿を出た後、マジドさんの案内で、イラン革命の立役者であるホメイニー師が住んでいた家を見に行った。同じ山の手ではあると思うが、高級住宅地という感じではなくて、周囲は、ごく庶民的な家ばかりだった。
ホメイニー師の住家は、ニヤーヴァラーン宮殿と違って、素っ気ない、小さなコンクリート造りだった。しかし、家のすぐ前に建てられたモスクへと専用の通路が造り付けてあったり、周囲は厳重に塀で覆われたりと聖域化していた。あまり時間がないせいか、マジドさんが先を急ぐので、写真を一枚も撮らなかった。

ヤズドへ

ヤズド行きのイラン航空298便は、18時35分の出発予定である。例によって、2時間ほど前にはメヘラバード空港に到着していた。外国人の乗客は、今回も僕一人だけのようだ。でも、前回ほどの不安感はない。ほぼ定刻どおりに搭乗が開始された。
タラップを登って、もうすっかりお馴染みの古ぼけた飛行機に乗り込む。窮屈な窓側の座席に手際よく体を収めた。外の熱が伝わってくるのか、離陸前の機内は少し暑い。
テヘランを飛び立ってしばらくすると、人家がまばらになっていき、眼下の風景は、やがて不毛の荒野へと変わる。乾いた土色だけの山肌が、幾筋もの溝で鋭くえぐられていた。
ヤズドの空港は、全く記憶になかったが、日本の離島にあるような小さな空港だった。ダーマンダルヤーという英語ガイドの出迎えを受ける。夜のヤズドは予想以上に涼しかった。
ガイドの車でホテルへと向かう。去年のシーラーズでもそうだったが、辺りが真っ暗なせいか、車窓から眺める風景は、まるで、初めて訪れる街のように見えた。
ガーデンモシール・ホテルの部屋今日から3連泊するガーデンモシール・ホテルは、ヤズド旧市街のかなり外れに建っている。おそらく、かつては、富豪か権力者の邸宅だった伝統家屋を改装したホテルである。
チェックインを済ませ、案内に従って廊下を抜けると中庭に出た。暗くてよくわからなかったが、相当、広い敷地である。屋外席では、まだ大勢の宿泊客が食事をしていた。僕以外に外国人の客はいないようだった。中庭には、ペルシア式庭園らしく、細長い水路が一直線に走っている。
案内されたのは、中庭の離れだった。宿泊客は夕食バイキングが無料で利用できると聞いていたが、さほど空腹でもなく、部屋から出るのさえ億劫に感じられたので、夕食を抜いてしまった。疲れていても、シャワーを浴びたり、明日の準備をしたりで、すぐには寝られない。
ベッドに入って、ようやく長い一日の終わりである。