旅の空

イランの旅 2010

3

ゾロアスター教聖地チャク・チャク

朝の庭園

朝のモシール庭園は、昼とはまた違った表情を見せてくれる。
昇り始めたばかりの太陽が、木々の長い影を地面に投げかける。身が引き締まるような冷たい空気の中で、庭にたくさん植えられたバラの色合いはまだ控え目だ。
今日は、ヤズドから北へ数十キロ、車で約2時間の距離にあるゾロアスター教の聖地、チャク・チャクを訪れる。今回の旅のハイライトである。
モシール庭園のバラ

ハラーナグ  Kharanaq

チャク・チャクへ行く前にハラーナグという廃村へ立ち寄った。すぐ近くに造られた新しい村へ住民が丸ごと移転したために放棄されたのだという。現在残っている建物は比較的最近のものだが、村の歴史は古く、少なくとも、ササン朝時代まで遡るようだ。
村の入口にキャラバンサライがあった。近年、修復されたばかりのようで、レンガ積みがきれいだ。
ハラーナグのキャラバンサライThe caravansarai of Kharanaq
村へと通ずる細い路地に入った途端、別世界に迷い込んだような気分になった。
建ち並ぶ家々に人の気配が全く感じられない。
ハラーナグKharanaq
路地を抜けた先は、村を見下ろす高台になっている。その先に絶景が広がっていた。
水が豊富にあるらしく、村の周囲は青々とした畑である。
ハラーナグKharanaq
土と日干しレンガでできた村は、今や崩れるにまかされ、まるで、古代遺跡の中を歩いているような気分にさせる。
しかし、廃屋の一つに入ってみると、そこには、観光客が捨てた空缶や菓子の包みのほかに、かつて、そこの住人が使っていたであろう鍋などの日用品がいくつか置き去りにされていた。朽ち果てつつも、それらはまだ、生活の息吹をかすかに伝える。一気に現実へと引き戻された気がした。遺跡と呼ぶにはあまりに新しすぎるのだ。
ハラーナグ:モスクのミナレットKharanaq

荒野のドライブ

ハラーナグからチャク・チャクまでの車窓風景は、険しい岩山と荒涼たる大地が続き、だんだん、あの世の風景でも見ているような気がしてくる。しかし、それらは単調そうに見えて刻々とその表情を変え、決して見飽きることはなかった。
この荒涼とした眺めに惹かれて僕はイランへやって来る。
車窓風景:ハラーナグ~チャク・チャクFrom Kharanagh to Chak Chak; the scenery from the car window
車のエアコンはしばらく前から切ったままだった。窓を開けていれば充分涼しかったから。夏のイランに慣れたとはいえ、前回のヤズドはこんなに過ごしやすかっただろうか。
少し考えて気づいた。秋がもうすぐ近くまで来ているのだ。
車窓風景:ハラーナグ~チャク・チャクFrom Kharanagh to Chak Chak; the scenery from the car window

チャク・チャク  Chak Chak(Pir-e Sabz)

荒野に続く一本道の前方に、やがて、とてつもなく大きな岩山が立ち塞がった。なんと、その岩山の中腹よりやや下に建物が小さく見えるではないか。それこそが、ゾロアスター教の聖地チャク・チャクであった。
近づくにつれ、それが、とんでもない場所に造られていることがわかってくる。チャク・チャクは、わざわざ断崖絶壁の真下の急斜面を選んで、そこにへばりつくようにして建っているのだ。もし上で岩盤の崩落があったら、ひとたまりもない。
最上部にある至聖所を目指して、坂と階段を上る。周囲の建物は、ほとんどが巡礼に来た信者たちを泊める宿坊だという。ごく実用的な造りである。
チャク・チャク(ピーレ・サブズ)Chak Chak (Pir-e Sabz); the Zoroastrian pilgrimage
囲いの中で大きな犬が動き回っていた。イランで犬を見かけるのは本当に珍しい気がする。イスラム教では、犬は不浄な動物とされ、忌み嫌われている。番犬として飼う家もあると聞くが、少なくとも僕は、イランの街中で見かけたことがない。
一方、ゾロアスター教で犬は、かつては葬送の際に死者を先導する役目を任されるほど重要な動物で、今も大事にされている。
至聖所の扉には、ペルセポリスでお馴染みの「不死隊(ペルシア人親衛隊)」の浮彫が施されていた。至聖所の内部は、薄暗い洞窟のようだった。中央に拝火壇が置かれ、奥には、岩肌を穿って聖なる3つのものを象徴する金属板がしつらえてある。
チャク・チャク(ピーレ・サブズ)The lodgings for pilgrims: Chak Chak (Pir-e Sabz)
天井に目を向ければ、岩肌から水が染み出している場所がある。「チャク・チャク」とは、そもそも、水滴が落ちる音を表している。日本語で言えば「ポタ・ポタ」である。
ササン朝ペルシア最後の王、ヤズダギルド3世には、2人の王子と3人の王女がいた。この地で、アラブの軍勢に追い詰められた長女ハヤート・バーヌーは岩山の洞窟へと逃げ込む。しかし、追手が駆け上がってみると、そこに王女の姿はなく、水が滴る一本の木があるばかり。これが、チャク・チャクにまつわる伝説である。
チャク・チャクにはまた、「ピーレ・サブズ」という別名がある。「緑の長老」といった意味だが、これは、どうやら至聖所の脇に立つ鈴懸の木の老大木を指しているらしい。いずれにせよ、不毛の荒野の真っ只中にあって、この岩山にだけ水が出るというのは驚異である。
チャク・チャク(ピーレ・サブズ)The landscape around Chak Chak (Pir-e Sabz)
至聖所へ入る者はみな、白い帽子を被らなければならない。拝火壇の傍らには、聖地の管理人らしきゾロアスター教徒が3人ほど控えていた。彼らは、座って教典を読みながら、時折、薪をくべたり、油を注いだりして聖火の番をしていた。
聖火を囲む花びら形の皿には、何種類もの香が入っており、時々、それらの香も一掴み火にくべるので、堂内に何ともよい香りが立ちこめる。聖典『アヴェスター』の一節が頭に浮かんだ。

…義者なる人の魂には、
 第三夜が経過しおえて夜の明けるのが見え、
 木々の中にいて、匂いを
 かぎとっているような気がする。
 最南の方処から
 最南のもろもろの方処から
 芳香ある〔風〕が、もっと芳香ある ―――
 他のもろもろの風よりも ―――
 風が、それ〔魂〕に吹き寄せてくるように思われるのである。
 すると、義者なる〔その〕人の魂は
 その風を鼻で呼吸(いき)しているような気がする。
 「どこから、この風は吹いてくるのか ―――
 かつてわたしが鼻で嗅いだことのある
 もっとも芳香ある〔この〕風は ―――。」〔と言いながら。〕…

  〔伊藤 義教 訳、筑摩書房 『世界古典文学全集3』 ~ 『アヴェスター』 ~ 「魂の運命」
   (ハーゾークト・ナスク第二章)〕

ふと、覚えのある香りが堂内に広がった。仏前で焚くあの焼香の香りだ。信じられなかった。聖火にくべられる様々な香料の中に、日本の焼香と同じものがあったのだ。
短絡的すぎるかもしれないが、このとき、ある考えが脳裏にひらめいた。それは、仏教の焼香という作法自体がゾロアスター教から伝わったのではないのかということだ。個人的に、焼香という作法にずっと違和感を感じてきた。
仏教は、インドから中国に伝わる間に中央アジアを経由し、そこで、ゾロアスター教の影響を受けたという。中央アジアの遺跡からは、仏陀とみられる人物が拝火壇に手を添えた像を作る型さえも見つかっているという。
チャク・チャク(ピーレ・サブズ):至聖所の扉 Chak Chak (Pir-e Sabz)
ところで、チャク・チャクに来た以上、是非とも見たい風景があった。それは、日本で唯一の古代ペルシア概説書である『世界の歴史 9 ペルシア帝国』(足利 惇氏著、講談社)322ページに白黒写真が掲載されている峡谷だ。そこには、両側を断崖に挟まれた谷間に建つの2つの拝火神殿(チャハールタークとアーテシュキャデ)が写っている。写真の説明には「タング・イ・チャック・チャック」と書いてあったので、それはチャク・チャクの近辺に違いないと予想していた。
しかし、この場所に連れて行ってほしいとガイドに該当ページのコピーを見せると、彼は怪訝そうな顔をして、チャク・チャク周辺にこのような場所はないと言う。一方で、写真の地形はまさしくこのチャク・チャクのように見えるとも。
そこで、ガイドを通じて、チャク・チャクの管理人たちにも尋ねてみたが、誰一人としてその神殿の在処を知らなかった。彼らの中では70歳代の男性が最年長であったが、彼が初めて来たときも、チャク・チャクの様子は現在のようだったという。「あなたは私よりもチャク・チャクに詳しい」と冗談を言われてしまった。
件のチャハール・タークは6~7世紀のものと解説にある。だとすれば、そのような古い貴重な神殿をそう易々と壊してしまうとは思えないのだ。写真に写っていた拝火神殿が以前はチャク・チャクにあったのか、あるいは、現在も実は全然違う場所にあるのか、結局わからずじまいだった。
チャク・チャク(ピーレ・サブズ)Chak Chak (Pir-e Sabz)
チャク・チャクには、特別に目を引くモニュメントや歴史的建造物があるわけではない。しかし、一度行ったら忘れられないあの風景だけでも充分過ぎるくらいだ。そして、聖地と呼ばれるにふさわしい雰囲気を発していると思う。
6年前、初めてイランを訪れた時のガイド、アミールが、チャク・チャクについて、「素晴らしい場所ですよ!」と熱っぽく語っていたのを思い出す。

真実のチャク・チャク

チャク・チャクにいる間は話せなかった「真実のチャク・チャク」について、ガイドが車の中で教えてくれた。
伝説では、アラブ勢に追い詰められたササン朝ペルシアの王女がここに逃げ込んだことになっているが、実は、ササン朝滅亡時にアラブの征服軍はヤズドまで来ていないのである。ヤズダギルド3世の王子や王女たちの消息についても、トカーレスターンへと逃れ、最終的には唐へ亡命したペーローズを除いて確かなことはわかっていないのだ。
ササン朝の滅亡後、ヤズドが徐々にイスラム化していく中で、ゾロアスター教徒たちは迫害を恐れ、遠方の弧絶した、それでいて生活に欠かせない水が得られる場所を選んで移り住んだ。そして、教団の団結のため、信徒らが集まる場と機会を保つ必要に迫られて数々の伝説が生まれた、というのが真相のようである。
今でも、一年に一度開催される祭典には、世界中から大勢のゾロアスター教徒が集まるという。

メイボド  Meybod

チャク・チャクの次に向かったのは、メイボドという古い町。最大の見どころは、旧市街を見下ろす高台にあるナーリーン城塞だ。現存する城はおそらくササン朝の様式だが、建物の最も古い層では、アケメネス朝時代の日干しレンガが確認されたという。
メイボドNarin(Narenj) Castle: Meybod
ちょうど旧市街の方からアザーンが聞こえてきた。こういう古い街で聞くアザーンは格別だ。

ナーリーン城塞: メイボドNarin(Narenj) Castle: Meybod
建物の内部に入ることはできなかったが、旧市街の眺めは素晴らしかった。ヤズドと同様、土と日干しレンガの街である。くずれかかっている建物ときれいに補修した建物が入り混じっている。土の街だけあって、陶器はここの特産品だという。
メイボド:旧市街の眺めYakhchar(the ice house): Meybod
城塞から少し離れたところに、イランの氷室、ヤフチャールがあった。モスクのドーム屋根のような形をしている。壁はかなり厚い。中に入ると、地面にすり鉢状の大きな穴が掘ってあった。冬にこの中で氷を作っておけば、この地方の暑い夏でさえも氷が保たれるという。
メイボドのヤフチャール(氷室)The scenery of the old city of Meybod
ヤズドへ帰る途中、「鳩の家」に寄った。太い円筒形の建物の中に鳩が入ってきて巣を作る。現代では使っていないが、鳩の出す糞を集めて肥料にしていたようだ。中に入ってみると、ちょうど鳩が収まるくらいの窪みが壁じゅうに彫りこまれていて、まるで現代美術の作品でも見ているようだった。ところどころに置いてある鳩の剥製が少々不気味だ。
鳩の家The inside of the pigeon house

ドウラト・アーバード庭園 その1  Bagh-e Dowlat Abad

ホテルに一旦戻って休憩した後、日が落ちてから、ヤズド旧市街にあるドウラト・アーバード庭園に行った。明日、明るい時間帯にもう一度訪れることにしている。
庭のベンチに座って寛いでいたら、通りがかりの色々な人たちに声をかけられた。どこから来たの?イランはどう?ヤズドはどう?等々。
経済制裁のせいで、日本に対する国民感情が取り返しのつかないくらいに悪化してしまったのではないかと危惧していた僕はようやく胸を撫で下ろした。
これ以上の歓迎の挨拶があるだろうか。
ドウラト・アーバード庭園

追記 2013/4/27

筆者がチャク・チャクで探索した拝火神殿群が、実はファールス州にあるらしいことが判明しました。
新潮社刊『人類の美術 古代イランの美術1・2』によれば、その場所とは「ラリスタン地方」、ダーラーブゲルドのおそらく50km ほど南東にあるその名もタンゲ・チャク・チャク(Tang-e Chak Chak)という峡谷です。チャク・チャクという地名はイランに一つだけではなかったようです。
情報を寄せてくださったzae06141様には改めてお礼申し上げます。