旅の空

イランの旅 2010

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砂漠の宝石 ヤズド

ヤズド最終日

ヤズドの滞在も今日限りとなった。今晩の飛行機でテヘランへと戻る予定だ。それまでは、ヤズドの旧市街散策を満喫するつもりだ。
できれば出発までホテルの部屋を使いたかったが、それでは追加料金をとられてしまうので、ひとまずチェックアウトして、フロントで荷物を預かってもらうことにした。チェックアウトした後でもホテルの庭へ入って構わないとのことだった。今日も、午後の休憩にここを利用させてもらう。
ガーデン・モシール・ホテルの庭に咲くバラ

沈黙の塔  Dakhme

6年前も訪れた「沈黙の塔」へ向かう。1960年代までゾロアスター教徒が実際に鳥葬を行っていた場所だ。やがて、周囲の山とは明らかに様子が違う小高い禿山が目に入ってくる。禿山の頂上に土壁を円形にめぐらせた建造物がある。
まるで、そこから先にあの世の世界が開けているようだった。何度見ても、この異様な光景には心を打たれてしまう。
ヤズド:沈黙の塔Dakhme
二つある塔のうち、前回も上った塔へ今回も上る。沈黙の塔の周囲が塀で囲われていた。たしか、前回来た時にはなかったはずである。イラン政府の文化遺産保護対策だとしたら歓迎だ。今回は、山を走り回るバイク少年もロバに乗ったアフガン老人も見かけなかった。
塔の内部に入る。日干しレンガと土で作った分厚い塀に沿って、地面に切石が敷き詰められている。ありし日は、鳥葬に付す遺体がこの上に並んでいたことを思うと少々気味悪かった。塔の中央には、鳥葬の後に残った骨を投げ入れた穴が開いている。
The tower of silence in Yazdヤズド:沈黙の塔
ムーバッド(モーベド、ゾロアスター教司祭)から聞いた話として、ゾロアスター教と鳥葬との関わりについて、興味深い話をガイドが披露してくれた。
ゾロアスター教徒が鳥葬を採用した理由は、自然界の5元素を神聖視する彼らが土や火を穢すことを嫌ったためであると一般的には考えられているが、それは誤りだという。
いわく、かつてアーリア人は、様々な部族に分かれ、様々な土地で暮らしていた。居住する地域の自然条件によって、葬法も様々であった。温暖な草原地域では土葬、火葬するための薪が豊富にある森林地帯では火葬といったように。その中で、アーリア人のある一支族が住む寒冷地帯は凍土で土が固いため土葬も、木材が乏しく火葬もできなかった。仕方なく、彼らは山の頂上で鳥に遺体を食べさせる方法を選んだ。この原始アーリア人一氏族の習わしが支配的となってゾロアスター教に受け継がれたというのが真実だという。
沈黙の塔内部:ヤズド沈黙の塔背後にある宿坊跡:ヤズド
僕は研究者ではないので、真偽のほどはわからない。司祭が言ったからといって、それが必ずしも真実であるとは限らないかもしれない。しかし、アケメネス朝の王たちには鳥葬が行われていないこと、ゾロアスター教の教義が統一されたのはササン朝ペルシアになってからであること、そして、そのササン朝において、イラン西北部の神官団が権勢を振るっていたことを考えれば、この説にも一理あるのではないかと思った。

ゾロアスター教徒の村

ヤズド郊外にゾロアスター教徒だけが暮らす村があるという。ガイドの提案で行くことにした。そういえば、彼は、「ムスリムの家に生まれたけれども、僕は心の中ではゾロアスター教徒だ。」と言っていた。
案内されたのは、沈黙の塔から車で10分ほど、幹線道路から少々外れた静かな農村である。日干しレンガと土でできた質素な家が立ち並ぶ通りに人っ子一人見当たらない。
ゾロアスター教神殿の中庭に建つレバノン杉:チャムゾロアスター教神殿の祠:チャム
村の中心に小さな神殿がある。レバノン杉の大木が建ち、その根本に大理石で作った小さな祠がある。祠にはフラワシ(精霊)のシンボルが掲げられ、榊のような木の枝が供えてある。これがバルソムだろうか。奥には火が灯されていた。なんだか神棚を思わせる佇まいだ。
神殿にも人影はない。ひっそりと静まり返った境内に、祠の周りを狂ったように飛び回るハエの羽音だけが響いた。
ゾロアスター教徒の村・チャム羊たち
ガイドの顔なじみの家庭を訪問することになった。細い路地を入ると、餌を食べている最中の羊たちが一斉にこちらを振り向く。少々アンモニア臭のする家の中は、高い天井に土間と舞台のように高い居間があって、小ホールのようだった。家の主である老夫婦と、その息子、孫娘がちょうど居合わせた。息子は50歳くらいだろうか、仕事で中国など海外に行く機会が多いのだという。見たところ30代前半の孫娘は、結婚していて普段はテヘランにいる。どうやら、この家庭に限らず、この村では、若者はほとんど他の町へ出てしまって、残っているのは老人ばかりらしい。
話を聞いたり、家の中を見せてもらったり、お茶や菓子を御馳走になったりしながらしばらく過ごした。ゾロアスター教徒の女性は男性とも握手するのだという。異性への接し方や感覚もムスリムとは違うようだ。
村を離れ、旧市街散策のためヤズドへ戻る。
ヤズド市内の風景

アレクサンダーの牢獄  Zendan-e Eskandar

旧市街で一番見たかった建造物がこの「アレクサンダーの牢獄」だ。名前からして不思議である。この種の歴史的建造物で、名前にモスクとも、神学校とも、廟とも付かないものは珍しい。
アレクサンダーの牢獄:ヤズドAlexander's Prison, Yazd
アケメネス朝ペルシアを征服したアレクサンドロスが造らせた牢獄というのがこの建物のいわれなのだが、実際には、アレクサンドロスの軍勢はヤズドまで来ていないのだ。そもそも、アレクサンドロスの時代にヤズドの街はここになかった。ヤズドの起源はササン朝時代に造られた城塞都市・サルヤズド(Saryazd)だというが、現在のヤズドからは少し距離がある。
では、一体なぜ、アレクサンダーの牢獄などという名で呼ばれるようになったのか。
その名付け親は、どうやらシーラーズの詩人ハーフェズもしくはサアディーらしい。周囲を砂漠に囲まれて厳しい気候のヤズドを「耐え難い場所」の比喩で詩人が詠んだ名が、いつしかこの建物だけを指すようになったものらしい。ヤズドにしてみれば失礼極まりない話である。
「アレクサンダーの牢獄」の中庭にある地下室アレクサンダーの牢獄と12エマームの霊廟:ヤズド
ドームの内部に入ってみると、きれいな外観とは裏腹にかなり黒ずんでいて、外観以上の年代を感じさせる。中世は神学校であったといわれているが、思うに、元の建物はそれよりもかなり前に建てられ、後世に改築や増築を重ねたものではないだろうか。ドームの中で天井を見上げていると、構造がフィールーザーバードのアルダシール宮殿に似ている気がするのだ。

12エマームの霊廟  Boq'e-ye Davazdah Emam

12エマームの霊廟はアレクサンダーの牢獄のすぐ隣に建っている。12エマームなどと、いかにもシーア派イスラム的な名前が付いているが、この霊廟こそまさにゾロアスター教神殿だったという。たしかに、今はレンガで塞がれてしまっているものの、かつては入口が四方の壁にそれぞれ1つずつあったのが見てとれる。十字形の動線である。そして、とって付けたようなメフラーブはいかにも不自然だ。ササン朝滅亡後、多くの拝火神殿がモスクへの改修を装うことで破壊を免れたらしい。
隣に建つアレクサンダーの牢獄と共に、元は一対のチャハール・ターク(拝火神殿)だったのではないか。霊廟を見た後でそういう考えが頭に浮かんだ。
12エマームの霊廟Davazdah Imam Mausoleum

伝統建築ホテル

昔の大富豪宅を改装した伝統建築ホテルで少し遅めの昼食をとった。周囲を砂漠に囲まれていたヤズドは侵略者による破壊を免れてきた。アレクサンドロスの軍勢もアラブの征服軍もヤズドには来ていないのだ。そのおかげで、古い街並みや文化的価値のある大邸宅がイランの他のどの街よりもたくさん残っている。沙漠のオアシス都市であり、かつてシルクロードの交易で栄えたこの町がどれほど裕福だったかをそれらは物語る。近年は、そうした伝統家屋を改装した高級ホテルが数多く営業している。
伝統建築ホテル:ヤズドA old house in Yazd

ヤズド旧市街散策

ヤズド旧市街には、車1台通ることもできないような細い道が、密集する家々の間を縫って、まるで複雑な迷路のように縦横無尽に広がっている。周囲を高い土壁に遮られ、遠くを見通すことができない。雲一つない空の青が頭上に見えるばかりだ。地元民の案内がなかったら、たちまち迷子になってしまうだろう。
人通りは少ない。地元民は炎天下を無暗に出歩いたりしないのだ。道路の所々に、おそらく日除けのためのアーケードがかかっている。アーケードの真っ暗な日陰から日向に出ると余計に目がくらむ気がする。
ヤズド旧市街The old city of Yazd
ヤズド旧市街The old city of Yazd
ヤズド旧市街The old city of Yazd

最後の休憩

休憩のためホテルへ戻る途中で、ヤズドの城壁を見た。かつては旧市街全体を城壁が囲んでいたという。
ガーデン・モシール・ホテルの庭で過ごす休憩時間もこれが最後だ。ガイドが迎えに来たらフロントに預けていた荷物を受け取って、3日間過ごしたこのホテルを引き払う。
ヤズド旧市街に残る城壁ガーデン・モシール・ホテル:ヤズド ホテルの清掃係が横着をするらしく、園内を流れる水路に、時々、空きペットボトルやら落ち葉などのゴミの一群がどんぶらことばかりに流れてくる。その水路で、お客の小さなかわいい女の子がペットボトルを流して元気に一人遊びしていた。

ドウラト・アーバード庭園  Bagh-e Dowlat Abad

ドウラト・アーバード庭園を再び訪れる。周囲に高い建物がないせいか、イラン随一の高さを誇るバードギール(採風塔)が、33メートルという実際の高さよりも、また、写真で見るよりも高く感じる。実際、バードギールの下に立つと、上から絶えず冷気が吹き下りてくる。非常によく考えられた天然の冷房だ。
ドウラト・アーバード庭園Dowlat Abad Garden
建物の窓は一面、色鮮やかなステンドグラスが施されている。傾きかけた太陽が、ステンドグラスを通して赤や黄や青の光の花模様を壁一面に映し出した。それは、まるで万華鏡の中にいるような、あるいは小宇宙とでもいうべきか、思わず息をのむ美しさであった。設計者は、この光の効果までも計算していたというのだろうか。
ドウラト・アーバード庭園Dowlat Abad Garden

ジャーメ・モスク~ヤズド夕景

ジャーメ・モスクは、今回、大がかりな修復中で、イラン一の高さを誇るミナレットがまるごと足場で覆われていた。6年前にも来ているが、このモスク内部のタイルワークがこれほど素晴らしいものだったとは思わなかった。前回は、ヤズドへ行ったのがエスファハーンの後だったせいかもしれない。蜂の巣形のタイルがちょうど人の高さまで一面に張ってあるのは、モスクに集まった人々が蜂に刺されるのを防ぐためだったとか。なんでも、この形を見ると蜂は攻撃してこなくなるというのだが。
ジャーメ・モスク:ヤズドJame' Mosque in Yazd
ジャーメ・モスクのタイル装飾:ヤズドA street view in Yazd
最後に、6年前も訪れたアミール・チャクマーグのタキーエに向かう。タキーエとは、アーシュラーというシーア派の喪服行事を行う施設である。タキーエの前には大きな広場がある。タキーエの3階に上ると、その広場やヤズドの街並みがよく見渡せた。夕暮れ時、すっかり涼しくなった広場には大勢の人が繰り出して、誰かと話をしたり、子供を遊ばせたり、サッカーをしたり、思い思いの時間を過ごしている。
アミール・チャクマーグのタキーエ:ヤズドアミール・チャクマーグのタキーエ:階上からの展望
思えば、ヤズド到着の翌日に体調を崩して午前をふいにしたのは痛かった。チャク・チャクの他にもいくつかあるゾロアスター教聖地やヤズド郊外の観光スポットへも足を伸ばせたかもしれなかった。でも、最低限行きたかったところへは全て行った。そういう満足感があった。
アミール・チャクマーグからまっすぐに伸びる大通りに沿って、旧市街は視界のはるか先まで続いている。ベージュ一色の家並みが、夕映えでほんのりと赤く染まっていた。ヤズドの夕焼けは美しかった。
The sunset in the old city of Yazd夕焼けに赤く染まるヤズド旧市街

おまけ

ヤズド滞在には思わぬおまけがついた。午後9時30分にヤズドを出発する予定だったアーセマーン航空737便が2時間も遅れたのだ。ヤズドからテヘランまでの飛行時間は約1時間半なので、テヘランに着いたときはもう午前1時を回っていた。
深夜のメヘラバード空港で、いつものようにマジドさんが待ってくれていた。