旅の空

イラン 2016

5

マーハーン

シャー・ネエマトッラー・ヴァリーの霊廟  Aramgah-e Shah Ne'matollah Vali

マーハーンはケルマーンの約35キロ南にある田舎町である。人口2万にも満たないその小さな町に、ケルマーン州のみならずイランでも指折りの観光名所が2つもある。その一つがシャー・ネエマトッラー・ヴァリーの霊廟だ。ちなみに、マーハーンという名は、ホスロウ1世の時代にメソポタミア地方で東ローマ帝国と戦ったササン朝ペルシアの将軍、アーダル・マーハーン(Adar Mahan)が町を創設したことに由来するという。(Encyclopædia Iranica, KERMAN ii. Historical Geography, THE ISLAMIC PERIOD, para.5)

シャー・ネエマトッラー・ヴァリーは、スーフィー(イスラム神秘主義者)にして詩人、知者、そしてスーフィー教団一派の創始者とされる人物である。西暦1331年にシリアのアレッポで生まれ、生涯の大半をイラクやメッカで過ごした後、1406年にマーハーンへ行き着くまでにサマルカンド、ヘラート、ヤズドを転々としたらしい。1431年に100歳で亡くなるまでの25年間をマーハーンで過ごしたという。シリア出身のスーフィーを引き寄せる何がこの町にはあったのだろう。

シャー・ネエマトッラー・ヴァリーの霊廟(マーハーン)| Aramgah-e Shah Ne'matollah Vali, Mahan

実は、シャー・ネエマトッラー・ヴァリーなる人物に僕は殊更、興味はなかった。彼の生い立ちは帰国してから知ったに過ぎない。僕の目当てはあくまで廟の外観だった。

しかし廟の内部に足を踏み入れた途端、そんな僕の認識は180度変わってしまった。

白い壁が目につく。イランでよく見る霊廟とは違って、装飾や色調を抑えているのが好ましく思われる。

中でお祈りをしていた人と目が合って会釈をされた。ここでの祈りとは、大昔に亡くなったスーフィーと心を通わせようと願うことではないだろうか。何か理知的な空気がこの中に流れている気がする。

シャー・ネエマトッラー・ヴァリーの霊廟(マーハーン)| Aramgah-e Shah Ne'matollah Vali, Mahan

シャー・ネエマトッラー・ヴァリーの棺が安置されたドーム下には彼の大きな肖像画が掲げてある。不思議なことだが、この部屋のどこにいても肖像画の彼に見つめられているように感じるのだそうだ。彼が普段過ごしたという部屋は廟の主のものとは思えないほど小さく狭かった。また、廟内には彼の詩を記した大きな額が掲げてあるのだが、文字が渦を巻くように配置されていたのが強く印象に残っている。

シャー・ネエマトッラー・ヴァリーの霊廟(マーハーン)| Aramgah-e Shah Ne'matollah Vali, Mahan

この廟にいるうち、シャー・ネエマトッラー・ヴァリーが一体どんな思想を持っていたのか、俄然、興味が湧いてきた。絨毯敷きの床に腰を下ろして、彼に関する話を聞きながら過ごすのも悪くない気がした。それに、この心の安らぎは何だろう。前にトルコはコンヤのメヴラーナ霊廟を訪ねた時もこれと似た印象を受けたことを思い出した。スーフィーの霊廟というものは、まるで何かの光を放つように感じられるものだろうか。あるいは、訪れる者にそんな錯覚を与える仕掛けがあるのだろうか。

シャー・ネエマトッラー・ヴァリーの霊廟(マーハーン)| Aramgah-e Shah Ne'matollah Vali, Mahan

霊廟の前庭にある池が、十文字のようなとても変わった形をしている。鉢植えの植物の配置まで意味深に感じてしまう。

シャー・ネエマトッラー・ヴァリーの霊廟(マーハーン)| Aramgah-e Shah Ne'matollah Vali, Mahan

北隣の広場から廟の全景を望むことができる。星型の幾何学模様をあしらったドームはサファヴィー朝のアッバース1世の時代に、ミナレット(尖塔)はガージャール朝時代にそれぞれ建てられたという。

雲一つない空を背景に、空の青とはまた違うトルコ石のような色のタイルがよく映える。ずっと眺めていたくなる美しいドームである。

シャーザーデ庭園  Bagh-e Shahzade

マーハーンの町の南外れにあるシャーザーデ庭園は、シャー・ネエマトッラー・ヴァリーの霊廟と並ぶこの町の名所であり、ペルシア式庭園の最高傑作としても知られる。2011年にユネスコの世界遺産に登録された。

シャーザーデ庭園(マーハーン)| Bagh-e Shahzade, Mahan

シャーザーデ庭園の建設が始まったのは1850年、ガージャール朝時代だという。奥行きが約407メートル、幅は122メートルの長方形をしている。ティーギャラーン山北麓の傾斜を生かして造られ、南北の両端で20メートルもの高低差が生じている。庭園を流れる豊富な水は、10キロ以上にも達する水路によって山から引いており、庭園からさらに下流の町へと注いでいる。

シャーザーデ庭園(マーハーン)| Bagh-e Shahzade, Mahan

東屋風の門をくぐると、上り斜面に配置された階段状の庭園がまるで一幅の絵のように見える。何という巧みな設計だろう。言葉を失い立ち尽くしていると、俺たちを写真に撮ってくれという二人組に声を掛けられた。その二人組はパキスタン人やアフガン人が着るような裾の長いシャツを身に着け、浅黒い色の肌をしている。彼らがパキスタン又はアフガニスタンからやって来た旅行者なのか、あるいは、隣のスィースターン・バルーチェスターン州から観光に来たイラン国民なのか、僕には見分けがつかない。東部の州には、イランで多数派のファールスィー(ペルシア人)とは人種の異なるバルーチと呼ばれる人たちが多くいるらしい。ケルマーンの町中でもそれと思しき人たちを割と見かけるのである。

シャーザーデ庭園(マーハーン)| Bagh-e Shahzade, Mahan

最上部にある白い離宮を目指して、段を一つずつ上がってゆく。水路の至るところで水が勢いよく吹き上がっているが、庭園内の噴水に動力は一切使われていないという。落差を流れ落ちる水の力をうまく利用しているのだ。

シャーザーデ庭園(マーハーン)| Bagh-e Shahzade, Mahan

白い離宮が建つ最上部は、楽園を絵に描いたような場所だった。噴水の上がる池の周りに低木や色とりどりの花が植えられている。その池に湛えられた水が溢れて階段状の水路へと落ちてゆく仕組みだ。途中で一旦、浅くなる流れが安堵感と涼感を誘う。

シャーザーデ庭園(マーハーン)| Bagh-e Shahzade, Mahan

庭園を囲む高い木立が庭園全体に濃い影を落としていた。陽の当たっている場所が一層くっきりと鮮やかに見える。

シャーザーデ庭園(マーハーン)| Bagh-e Shahzade, Mahan

最上部からの眺めは、下からとはまるで違っていた。同じ庭園の景色とは思えないほどだ。下から見たとき以上の奥行きと高さを感じるのである。これはおそらく、斜面を上から眺めていることに加え、遠くの山が借景になっているからだと思う。やはりこの庭園の設計者は天才であろう。シャーザーデ庭園の信じられないくらいの空間美を伝えていた写真は、少なくとも僕が今まで見た中では一つもなかった。

シャーザーデ庭園(マーハーン)| Bagh-e Shahzade, Mahan

庭園の中の水源を辿ってみた。白い離宮の背後には幹が一抱えもあるようなスズカケなどの大木が茂っている。流れを遡ってゆくと、水路はやがて土を掘っただけの溝に変わった。敷地奥に建つ塀の下から水が流れ込んでいる。

取水部にはそれらしき設備もなく、ただ地面を水が流れるだけだった。どうやら、水の流れ込む位置が変わるためにあえて固定した施設を造っていないらしい。少し先であの豊富な水量に変わるとは思いもよらないせせらぎだった。

ケルマーン・バム街道  Jadde-ye Bam-Kerman

ラーイェン、マーハーンからケルマーンへ戻る道中で検問所を2、3通過する。距離の割には多い気もするが、ケルマーン・バム街道は今でもアフガニスタンなどから流入する麻薬の密輸ルートになっているらしい。ただ、検問所で止められるのはトラックなどの大型車だけだ。警察官たちはみな談笑している。こうした検問所は他の州にもあるが、この街道に関しても特に変わった様子は見受けられない。

僕が初めてイランを旅した12年前、200万人とか300万人にも上るといわれたアフガニスタン人の不法滞在者がイランでは大きな社会問題となっていた。さすがに、タリバーン政権崩壊直後の当時と現在とでは状況が変わっていると思うが、経済的に豊かなイランが安価な労働力を必要とする構造は基本的に変わらないようだ。建設工事の現場などは今やアフガン人労働者なしには成り立たないのだという。