旅の空

レバノン 2019

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カディーシャ渓谷と神の杉の森

朝のブシャーレ  Bsharre

ブシャーレの村はカディーシャ渓谷の中に位置している。渓谷の景色を見たくて少し早起きし、朝食前の空き時間にホテルのバルコニーへ出てみる。

すると、昨夜、同じ場所に立った時は闇に沈んで全く見えなかった圧倒的な大景観が眼前に広がっていた。

ブシャーレ| Bsharre

鋭く、荒々しく切れ込んだ深い谷を手前に挟んで、その向こうは緑豊かな緩斜面が広がっている。しかし、上り傾斜の先、巨大な城壁のように広がる山脈の山肌は乾燥しきっており、禿山になっている。

呆然としてこの景色を眺めていると、一帯に点在しているらしいキリスト教会から鐘が次々と打ち鳴らされ、渓谷に響き渡る。イスラム教徒が全くいないとは考えにくいが、昨日立ち寄ったハリッサと同様に、景観という点では、このブシャーレも完全にキリスト教世界に見える。

ベイルートは猛暑の日本と同じくらい蒸し暑かったというのに、ここブシャーレは何という空気の冷たさだろう。長袖を何か一枚羽織っていないと寒くて外にいられない。渓谷の景色をもっと眺めていたかったが、寒さに音を上げてバルコニーから室内に戻った。

神の杉の森  Horsh Arz el-Rab

緩やかな上り坂となった道の両側に土産物店が連なり、その並びの中にまるで巨大なブロッコリーのような妙な形の木が立っている。これがまさにレバノンの国旗に描かれる木だとすぐにわかった。神の杉と称されるレバノン杉の森を保護する自然公園へは、土産物店が立ち並ぶ道の脇を少し下る。特別な木の特別な森にこれから足を踏み入れると思うと胸が高鳴る。

レバノン杉の森| The Forest of the Cedars of God

レバノン杉は学名を「Cedrus libani」という。「liban」とはアラビア語でレバノンのことなので、通称も学名もレバノンスギだ。しかし、樹種としてはスギというよりはマツの仲間で、その証拠に松ぼっくりが梢に見える。

レバノン杉の森| The Forest of the Cedars of God

レバノン杉は良質の木材として古代からオリエント世界で建材として広く用いられた。古代イスラエル王国のソロモン王がエルサレムに造営した神殿や、アケメネス朝ペルシアの王宮ペルセポリスの梁にもレバノン杉が使われた。

現在、レバノン杉の伐採は禁止されているが、倒れた木や折れた枝の処分は許可されているようで、土産物店で売っているレバノン杉材の雑貨はそれらを加工したものらしい。

…ソロモンは神殿の建築を完了するにあたり、レバノン杉の梁と板で神殿の天井を造った。(列王記上 6章9節)
…彼は神殿の内壁を床から天井の壁面までレバノン杉の板で仕上げ、内部を木材で覆った。神殿の床にも糸杉の板を張り詰めた。(同6章15節)
…ティルスの王ヒラムがソロモンの望みどおりにレバノン杉と糸杉の材木や金を提供してくれたので、ソロモンはヒラムにガリラヤ地方の二十の町を贈った。(同9章11節)

また、エジプト古王国、クフ王のいわゆる「太陽の船」は材料のほとんどがレバノン杉であることは有名だ。船材としても重宝され、フェニキア人のガレー船もレバノン杉で造られた。

クフ王の船| The First Boat of Ancient Egyptian King Khufu

さらに、「香柏」とも称されるレバノン杉は強い芳香を放つことが特徴で、採取した香油は古代エジプトではミイラ作りに用いられるなど、珍重されたという。

レバノン杉(神の杉)| Lebanon Cedar

入園して我々は、1本の巨木の前で立ち止まる。レバノン杉は成長すると樹高が35~45メートル、胸高直径が1.5メートルほどにも達するらしいが、この木はおそらくその最大級のものだ。枝が折れた箇所や、切り落とした跡がいくつもあって痛々しいが、この保護区のシンボルツリー的な存在になっているものと思われた。ガイドの話では、この辺りは冬になると雪が降るので、雪の重みで木が倒れたり、枝が折れたりすることがあるらしい。

間近で見て、その高さや太さはさることながら、その割に樹皮の模様や葉の細かさに目を見張った。

レバノン杉(神の杉の森)| The Forest of the Cedars of God

それにしても、ここに来るときの服装選びはつくづく失敗したと思った。ホテルを出た時からずっと薄手のジャケットを羽織り、公園内をしばらく歩き続けているが、体がちっとも温まらず肌寒いままなのだ。

旅行会社がくれた案内書には、ブシャーレは夏でも朝晩が冷えるのでフリースなどの上着があった方がよいと書いてあったのだが、いくら標高が高い場所とはいえ、8月にフリースは大げさだろうと思っていた。今まで夏の中近東地域を旅してきた経験から、薄手のジャケットさえあれば事足りると高を括っていたのだが、ここに来て旅行会社の助言が大げさでも何でもなかったことを思い知った。

森の切れ間からスキー場のリフトが見える。南寄りの地中海に面したこの国で冬にスキーができるくらい標高が高いということなのだ。

レバノン杉(神の杉の森)| The Forest of the Cedars of God

今まで、海外旅行といえば遺跡巡りばかり、行く方面も砂漠地帯のようなところばかりだったので、レバノン杉の森歩きはとても新鮮な体験だった。肌寒さを我慢していることは措くとして、森の空気は清々しく、信州あたりの高原の針葉樹林を歩いている時のような良い匂いがする。

神の杉の森では上の方ばかりに目が行きがちだが、注意して地面を見ると、そこかしこに杉の若芽が出ている。巨大な成木に比べると心許ない限りだが、レバノン杉は成長が極めて遅い樹種で、10年経っても膝ぐらいの高さにしかならないのだという。

レバノン杉(神の杉の森)| The Forest of the Cedars of God

かつてはレバノンの至るところに生えていたレバノン杉だが、今やこの保護区を中心に1200本程度が残るのみだという。しかし、4千年以上前のエジプト古王国時代から現在のレバノン共和国が成立して保護が決まるまで、歴代王朝の下で延々と切り倒され続けたことを考えれば、むしろ、よくぞこれだけ残ったと言うべきではないか。樹齢千年を超えるという大木も意外に多かった。

レバノン杉(神の杉の森)| The Forest of the Cedars of God

古代メソポタミア神話の『ギルガメシュ叙事詩』で英雄ギルガメシュと親友エンキドゥは、レバノン杉の森の番人にして怪物とも巨人とも形容されるフンババを殺す。

旧約聖書の『列王記下』19章23節にあるのは、アッシリア王センナケリブの神に対する発言とされるが、ギルガメシュと重なって見える。レバノン杉の森を象徴する存在としてフンババがあり、その守るべき森を破壊したことへの罪の意識が、ギルガメシュがフンババを殺したことを聞いたエンリル神の怒りとして描かれているように思える。

…お前は使者を送って/主をののしって言った。『わたしは多くの戦車を率いて/山々の高みに駆け登り/レバノンの奥深く進み/最も高く伸びたレバノン杉も/最も見事な糸杉も切り倒した。その果てに達した宿営地は/木の生い茂る森林であった。(列王記下 19章23節)

神の杉の森には、驚くことに樹齢4千年を超えるという古木さえも残っている。おそらく、形が歪で用材としては使いにくかったため、伐採を免れて今日まで残ったのだろう。妖樹とでもいうべきその異様な立ち姿は森の番人フンババを思わせる迫力があった。

レバノン杉(神の杉の森)| The Forest of the Cedars of God

今回は行かなかったが、ブシャーレにはフェニキア人墓地とされる遺跡がある。場所は、この村出身の詩人ハリール・ジブラーンを記念する博物館の近くだ。ブシャーレには古代からフェニキア人が居住していたらしい。海洋民族というイメージの強いフェニキア人の墓がこのような山地にあるのは意外な気がするが、杉の伐採など山仕事が専門の「山のフェニキア人」も当然いたことだろう。

カディーシャ渓谷  Wadi Qadisha

レバノン杉の森の散策を終え、次の目的地に向かう途中でバスを停める。カディーシャ渓谷の絶景に再び息を呑んだ。

カディーシャ渓谷| Qadisha Valley

高原の中央部で深く落ち込んだ谷を挟み、両岸の台地に家々が立ち並んでいる。これが岐阜県と同じくらいの面積の国とは思えないほどスケールの大きな眺めだった。

聖アントニオス修道院  Deir Mar Antonios - Qozhaya

カディーシャ渓谷から海沿いの街、ジュベイルへ向けて山を下る途中に立ち寄った聖アントニオス修道院は、周囲を高い断崖に挟まれた谷底に建っているように見えた。

聖アントニオス修道院| The Monastery of St.Anthony - Qozhaya

修道院を囲む岩山の峻険さと急斜面の上まで続く段々畑に圧倒され、言葉を失う。ここではかつて自給自足の生活をしていたのだろうか。これほどまでに孤絶した場所を選んだのは、単に信仰のためだけだろうか。

レバノンの地図を見ていても、これほど険しい地形があることを想像できなかった。景色を眺めながら、修道院とは全く関係のないことが、ふと頭に浮かぶ。アッシリアやバビロニアやペルシアはフェニキア地方へ兵を進める際、メソポタミア方面からどのような経路を辿ったのだろうか。少なくとも、大軍でこの山岳地帯を突っ切ることはなさそうに思えた。

聖アントニオス修道院| The Monastery of St.Anthony - Qozhaya

反復する幾何学模様の浮彫、白と黒の切石を交互に積んだアーチと壁面。建物の構えはまるでイスラム教のモスクのようだ。軒下の壁にはめ込んだ銘板はアラビア語で書かれている。アラビア文字がこうしてキリスト教会で使われているのが不思議な感じがした。今まで中近東の国々で多くのモスクを見てきたこともあって、アラビア文字はイスラム教の文字という先入観が頭の中にこびりついてしまっていた。

聖アントニオス修道院| The Monastery of St.Anthony - Qozhaya

聖アントニオス修道院は、レバノンの宗教界で最大勢力を占めるマロン派の修道院である。大国の興亡目まぐるしいこのオリエントで、時に厳しい圧迫を受けながらも、7世紀以来、自らの信仰と共同体を守り抜いてきた。

マロン派は、異端とされた単意説を奉じる東方教会の一つとして成立したが、十字軍の時代にローマ・カトリック教会に帰順する。ローマ教皇への服属と引き換えに独自の典礼を続けることが認められた。

聖アントニオス修道院| The Monastery of St.Anthony - Qozhaya

修道院内にシリア文字で書かれた典礼書が展示してあった。シリア文字が記すシリア語は、イエスが話したアラム語の一種で、旧約聖書の翻訳を始めとする膨大な数のキリスト教関連文書を残しているという。唐代の中国でネストリウス派キリスト教が流布した状況を記した「大秦景教流行中国碑 」にもこのシリア語が刻まれている。

聖アントニオス修道院| The Monastery of St.Anthony - Qozhaya

もはや話し言葉としては使われていないが、シリア、レバノン、イラクのキリスト教徒は今でも典礼用語としてシリア語を使い続けているという。僕はシリア語を読めるわけではないが、この古代文字が、博物館に展示された遺物だけで見られるのではなく、現代の書物にもなお綴られている様を目にして感銘を受けた。