旅の空

レバノン 2019

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ビブロス その1

ジュベイル  Jbeil

標高約千五百メートルのブシャーレから、海辺の街、ジュベイルへと一気に下りてきた。

ブシャーレは雲一つない澄んだ青空が広がっていたのに、ジュベイルの空は一面、灰色の雲に覆われている。ブシャーレにいたときは冷たく、乾いていた空気が、ここでは熱と湿気を含んでいる。レバノン杉の森を散策した時から着たままだった薄手のジャケットを、蒸し暑さにたまらず脱いだ。

ジュベイル| Jbeil

駐車場のある現代の街並みから少し歩くと中世の石造りの建物が並ぶ旧市街に入る。ベージュ色をした石灰岩の古びた石積は曇り空の下で余計に黒ずんで見える。緩やかな下り坂の先に港と海が見えた。

ついさっきまでレバノン杉の香気に浸っていたせいだろうか、二日と海を離れてはいないのに、潮の匂いが妙に懐かしいのは。昼食の魚を焼く匂いまでも。

港の外の岩礁に白波が立っている。打ち寄せる波音が聞こえてこないか耳を立てる。

ビブロス考古遺跡  Byblos Archeological Sites

ビブロス考古遺跡の北側に建つ十字軍の城塞は、遺跡の入退場口でもあり、博物館でもあり、何より遺跡全体を見渡せる格好の展望台でもある。その城塞へ入る前から早くもこの都市の重層的な歴史が垣間見える。

十字軍の城塞とローマ遺跡(ビブロス)| Byblos

12世紀に築かれた十字軍の城塞のすぐ横に古代ローマの泉の神ニンフを祀った神殿、ニンファエウムが見える。だが、十字軍の城塞がちょうど分断するような形で建っているのは、このビブロス考古遺跡で最古の城塞跡とされる、紀元前2500年以前に築造された城壁の切れ間だ。前期青銅器時代の遺跡が相手では、さすがにローマ遺跡も分が悪いようだ。

ビブロス| Byblos

ビブロスは、シドンやティルスなどと並んでフェニキア人の有力な都市国家の一つであった。紀元前千年頃のものとされる最古のフェニキア語碑文がここで見つかっていることから、フェニキア文字発祥の地とされる。さらに、ギリシア文字がフェニキア文字を土台として誕生していることから、アルファベット発祥の地ともいわれる所以である。

フェニキア文字| Phoenician Alphabet

十字軍の城塞を利用した博物館に、フェニキア文字とアラビア文字、ラテン文字の対応表が展示してあった。アラビア文字は、全22文字のフェニキア文字に対応する文字が全てあるのに対し、ラテン文字では置き換えできないフェニキア文字が4つある。フェニキア語とアラビア語がどちらも同じ系統の言語であることが直感的に理解できて興味深い。

ヒクソスの城壁と斜堤(ビブロス)| Byblos

城塞から海に向かって伸びる控え壁付きの城壁と斜堤は、レバノン政府観光省のウェブサイト観光パンフレットによれば、ヒクソスが築いたものだ。

ヒクソスといえば、古代エジプトで第2中間期にあたる紀元前1650年頃に第15王朝を打ち立て、およそ1世紀に渡ってエジプトを支配した民族で、元はシリアやパレスチナからエジプトへ流入したセム系の集団だったとされる。

古代エジプト史の概説書などを見る限りでは、ヒクソスがパレスチナ南部より北を支配していたようには見えなかったが、ビブロスは押さえていたということなのか。

バアラト・ゲバルの神殿  The Temple of Baalat Gebal

ヒクソスの城壁から内側に広がる青銅器時代(3200 B.C.- 1200 B.C.)の遺構の中で、核心ともいえるのがバアラト・ゲバルの神殿である。下の写真でいうと、19世紀に建てられた家屋の右下方向にある、ちょうど人の高さほどまで石を積んだ正方形の基壇だ。

青銅器時代の遺跡(ビブロス)| Byblos

バアラト・ゲバル神殿の造営は前期青銅器時代の紀元前2700年頃にまで遡る。ローマ時代にローマ様式の神殿に造り替えられるまで、2千年以上に渡って尊崇を集めてきた。バアラト・ゲバルのバアラトとはバアルの女性形、バアラト・ゲバルは「ゲバルの女主人」たる守護女神を意味している。ゲバルとは、ビブロスの呼び名で知られるこの街の本来の名前である。ゲバルの前はグブラと呼ばれていたらしい。現在のアラビア語名、ジュベイルはフェニキア時代のゲバルを引き写しているのだ。

ビブロスというのはギリシア人がつけた呼び名で、古代エジプトで紙のように使われた「パピルス」に由来する。ゲバルはかつてエジプト産のパピルスをギリシア方面へ出荷する際の積出港だったため、ギリシア語でパピルスを意味するビュブロスと呼ばれるようになったのだ。

バアラト・ゲバル神殿からは、ビブロスとエジプトの関係をうかがわせる遺物が出土している。第三中間期、リビア人元傭兵が興したリビア系第22王朝の第5代ファラオ、オソルコン2世(紀元前9世紀)の座像である。現在、ベイルート国立博物館に収蔵、展示されているこの像は玄武岩でできており、エジプトで製作されたとみられる。

古代エジプト第22王朝のファラオ、オソルコン2世の座像(ビブロス、バアラト・ゲバル神殿で出土)| Statue of the Pharaoh Osorkon Ⅱ

第22王朝の初代、シェションク1世(紀元前10世紀)は、南北で分断状態に陥っていたエジプトを再統合した後、イスラエル王国に侵攻し、シリア、パレスチナ地方を征服した。オソルコン2世の時代のビブロスは、新アッシリア帝国の脅威が迫りつつもなお、エジプトの強い影響下にあったことがこの像でわかる。(参考:『第3中間期のエジプトとフェニキアとの木材交易について』)

ちなみに、タニス(現サーン・イル=ハガル)でオソルコン2世の墓を発見したのは、1923年にビブロスでアヒラム王墓を発掘したフランスの考古学者、ピエール・モンテであった。

アモリ人の痕跡  The Amorites' Traces

遺跡の北側から東側にかけての外周を囲むように、ビブロスで最古の城塞とされる紀元前3千年紀の城壁跡が今も残っており、その中央部に、同じく紀元前3千年紀の城門跡がある。レバノン政府観光省が発行した観光パンフレットによれば、ここでは火災の痕跡が確認されており、紀元前2150年から2000年の間にあったアモリ人の侵攻を想起させる。

紀元前3千年紀の城門跡(ビブロス)| Byblos

旧約聖書を通して読んだのは一度きりだが、アモリ人は、イスラエル人が殲滅すべき先住民として、カナン人と並んで度々登場するので、名前だけは憶えていた。

【民数記】
…「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行って来ました。そこはまことに乳と蜜の流れる地でした。(13章27節)
…しかしながら、その地に住む民は強く、町は城壁に囲まれ、とても大きいのです。(同28節)
…ネゲブの地にはアマレク人が住み、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人が住み、海辺とヨルダンの岸辺にはカナン人が住んでいます。」(同29節)

アモリ(アムル)人は、元はメソポタミアの西方に広がる砂漠地帯に暮らす遊牧民であったが、紀元前3千年紀後半に南メソポタミアへ侵入し始め、紀元前2千年紀にはメソポタミア各地で王朝を建てるようになった。紀元前18世紀にメソポタミアを統一し、『ハンムラビ法典』を制定したことでも知られるバビロン第1王朝のハンムラビ王もアモリ人であった。

ビブロスには、「アモリ人の石切場」や「アモリ人の住居跡」とされる遺構が残っており、アモリ人はビブロスを襲撃した後は、ここに住んだことがわかる。

ちなみに、シリア砂漠からメソポタミア各地へ大移動を行ったアモリ人は、紀元前2300年頃にはペルシア湾に浮かぶバーレーン島にも到達してディルムン王国を建てたという。バーレーンの古墳から見つかった石製容器に刻まれたディルムン王の名がアモリ系であることが判明したのだ。(参考:「『謎の海洋王国ディルムン』を掘る」、「バハレーンに栄えた古代文明ディルムンの考古学」、「ディルムンを掘る」)

『歴史』の冒頭でヘロドトスは、フェニキア人がかつて、現在のペルシア湾岸を含む紅海方面から移動してきたと書いているが、それが事実だとしたら、アモリ人とはちょうど逆の経路を移動したことになろうか。

アケメネス朝ペルシアの城塞跡(ビブロス)| Persian Castle

紀元前三千年紀の城壁の東端側にはアケメネス朝ペルシア(550 B.C.-330 B.C.)が築いた城塞がある。どこかで見覚えがあるような大きな切石のブロックは、神殿の基壇の一部だったようだ。アケメネス朝ペルシアの時代でいえば、フェニキア都市の盟主的な地位にあり、ペルシアに最も重用されたのはシドンと認識していたので、ビブロスにこれほど大きなアケメネス朝の城塞があるとは意外だった。

アケメネス朝もまたビブロス最古の城壁を取り込むようにして自らの城塞を築いており、どこまでが前期青銅器時代の城壁で、どこからがアケメネス朝の城塞なのか、正直なところわからなかった。

都市の起源  A Origin of City

ビブロス考古遺跡のちょうど中央部に、「王の泉( 'Ayn el-Malik)」の名で呼ばれる井戸の遺構がある。螺旋状に地面を掘り下げた穴の深さは20メートルほどにも達し、周到な石積によって壁を補強している。ヘレニズム期まで使われていたたようが、ビブロスの主要な水源はこの井戸以外になく、最初に掘られた年代はビブロス最古の建造物と同じか、それより古かったかもしれない。

王の泉(ビブロス)|‘Ayn el-Malik,Byblos

南端に近い「大邸宅(Great Residence)」は、いわゆる「都市化以前」の時代、紀元前3200年から3000年頃の遺跡である。ビブロスに点在する遺跡の年代は、概ね南側にあるほど、また、海に近いほど古くなるようだ。

だが、ビブロスの起源は新石器時代(9000 B.C.- 4000 B.C.)にまで遡る。ここへ最初に住み着いた人々は、漁で生計を立てていたらしく、海側の区画からは石器や銅石器時代(4000 B.C.- 3200 B.C.)の銅製釣り針が出土している。

大邸宅跡| Great Residence

ビブロスの地形は海に突き出た岬状で、かつては南側にもう1か所、港があった。ここも「フェニキア人の風景」の例に漏れない。