旅の空

レバノン 2019

5

ビブロス その2

L型神殿  The foundations of the “L” Temple

アケメネス朝ペルシアの城塞の前に「L型神殿」という神殿の基礎部分だけが残った遺跡がある。何とも素っ気ない名前の由来は、上から見た神殿がちょうどラテン文字のLのような形をしているためだ。

しかし、レバノン政府観光省のウェブサイト観光パンフレットによれば、この神殿の建立は紀元前2700年頃とされており、バアラト・ゲバル神殿と同じくらい古い。神殿入口に石が炭化している区画があり、この神殿が火災で損傷を受けたことを示している。おそらく紀元前2150年から2000年の間にあったアモリ人の襲撃によるものだという。ここにもアモリ人の痕跡があった。

L型神殿(ビブロス)| The foundations of the “L” Temple, Byblos

その後、L型神殿の上にオベリスク神殿と現在は呼ばれている神殿が建てられたのだが、発掘作業の結果、神殿の下部構造も明らかにして見せる目的で、オベリスク神殿は40メートルほど南東にあたる現在の場所に移して復元された。たしかに、平面図で見ると、もし両方の神殿を重ねたら形が一致しそうな台形がどちらにもある。

フランスの考古学者モーリス・デュナンがピエール・モンテの後を継いで着手したビブロスの発掘は、1925年から1975年まで半世紀もの長きにわたるものであった。

発掘作業後に元あった場所から移して復元された遺跡はオベリスク神殿の他にもある。現在、海沿いの高台にある古代ローマの劇場跡がそうだ。ローマ劇場跡も元はこのL型神殿の近くにあったそうで、100メートル以上も離れた場所に移設されたことになる。

オベリスク神殿  Temple of the Obelisks

ともすると石積ばかりのビブロスで、オベリスクのある神殿というのは華が感じられる。ビブロスの顔ともいえる遺跡だが、行ってみると拍子抜けするほど小さな神殿だった。神殿というよりは祭祀場の趣だ。

オベリスク神殿(ビブロス)|Temple of the Obelisks, Byblos

四方が約20メートルほど、石積の基壇の上に、見たところ20基足らずのオベリスクが林立している。ただし、オベリスクといってもエジプトのカルナック神殿で見られるような巨大なものではなく、最も高いもので2メートルほど。正確には、オベリスク風石塔といったところだ。

しかし、この神殿は、ことさら壮麗に、厳かに見せようとするところがなく、その素朴な佇まいに親しみや安らぎを感じた。

オベリスク神殿(ビブロス)|Temple of the Obelisks, Byblos

大きさも形も多様なオベリスク群は、ちょうど鳥居や石灯籠を神社へ奉納するように、ビブロスの有力者たちが寄進したものではないだろうか。中には、上部に丸い穴が開いた小さな石碑もあるが、おそらく古代の碇である。航海の無事を神に祈り、あるいは感謝して奉納したのだろう。その神というのが、当時のレバント地方で崇拝されていたレシェフ神で、この神殿の別名はレシェフ神殿である。

レシェフは、元はレバント地方の神であったが、ヒクソスによってエジプトに招来され、エジプトでも崇拝されたという。(参考:田澤恵子『古代エジプトで愛された異郷の神々-比較と翻訳』)

一方、素朴な外観とは裏腹に、神殿からは1306点にも及ぶ膨大な数の奉献品が出土しており、現在はベイルート国立博物館に収蔵、展示されている。

アビ・シェム王のオベリスク、オベリスク神殿(ビブロス)| Obelisk of Abi Shemou,King of Byblos from Temple of the Obelisks, Byblos

オベリスク神殿で見つかったオベリスクの中で、最も本来のオベリスクらしく見えるのがアビ・シェム王のものだ。ただ、彼の名は「ヘリシェフ・レーに愛されし者」という称号と並記されている。オベリスク神殿の祭神とされるレシェフではなく、エジプトのヘリシェフ神だ。

アビ・シェム王は、ビブロスの北側で見つかったネクロポリスの1号墓の被葬者だった。その墓室には、エジプト中王国第12王朝のファラオ、アメンエムハト3世(在位1842 - 1797 B.C.)の銘が刻まれた下賜品の器が副葬されており、アビ・シェム王が第12王朝と同時代の人であることが判明した。この王の奉献したオベリスクがあるということは、オベリスク神殿は、前身であるL型神殿がアモリ人の襲撃によって破壊されてからさほど時間を置かずに再建されたことになる。

紀元前2千年紀のビブロスが政治的、経済的、文化的にエジプトの強い影響を受けていたことは、本で読んでいたし、ベイルート国立博物館でそうした展示品を数多く見たが、それでも違和感を覚えた遺物がある。それが、カバ、ヒヒ、ベス神の小像で、いずれもオベリスク神殿で出土したものだ。

オベリスク神殿(ビブロス)|Temple of the Obelisks, Byblos

古代エジプトにおいて、カバは耕作地を荒らす上に大食いで忌み嫌われたそうだが、雌のカバは豊穣の象徴とされ尊ばれた。ヒヒは、知恵の神で書記の守護神でもあるトトの化身とされた。ベス神は、悪霊や災いを退け、妊婦や幼児を守る力があると考えられ、家族の守護神として大いに人気があった異形の神である。これらがエジプトで出土したなら何も不思議に思わないが、出土したのはビブロスである。

この時代はフェニキア人と書くよりカナーン人と書く方が適切かと思うが、これらも本当にカナーン人が奉納したものなのか疑問に思った。文化的にエジプトの強い影響を受けていたとはいえ、死生観までエジプトに染まってしまうものなのだろうか。しかも、カバやヒヒはアフリカにしか生息しておらず、レバント地方の住人には見慣れぬ動物だったはず。これらは、ビブロスに滞在したエジプト人が奉納したものではないのだろうか。

オベリスク神殿(ビブロス)|Temple of the Obelisks, Byblos

オベリスク神殿には有名な青銅製の小さな人形も多数奉納されていた。人形はどれも上半身は裸で腰布を巻き、エジプトの王冠に似た長い頭飾りを被っている。エジプトとビブロスの密接な関係を示す物証ということだが、エジプト風の身なりをしているのは、エジプト人の似姿だったからではないか?

Livius.org; Byblos, Temple with the obelisks, Axe
【出典】Livius.org: Byblos, Temple with the obelisks, Axe

オベリスク神殿からは儀式用とみられる銅製の戦斧も見つかっている。目を引くのは、刃の部分に大きく打ち出しされた雄羊の姿だ。雄羊はヘリシェフ神の象徴で、雄羊の頭を持つ男神又は雄羊そのものとして表現される。これはヘリシェフ神への捧げものではないのだろうか。

王家のネクロポリス  Royal Necropolis

1922年2月、ビブロス北側の海沿いの崖が豪雨によって崩れ、地下の墓室空間と白い石棺が露出したことがきっかけとなり、アヒラムの石棺で有名な一連の王墓の発見へとつながる。

Sarcophagus of Abi Chemou
Karim Sokhn, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

崖崩れで露出した墓室からはヒエログリフで「アビ・シェム」の銘のある器の破片が見つかり、オベリスク神殿にオベリスクを奉納した、あのアビ・シェム王の墓であることが判明した。

ネクロポリスでは、1号墓から9号墓まで合わせて9つの王墓が発見され、全部で7基の石棺が見つかった。墓の大きさや形はそれぞれ差異があるものの、地面に立坑を掘り、立坑の底で横穴を掘り広げて墓室とした点は共通している。(参考:Wikipedia, Royal necropolis of Byblos

王家のネクロポリス(ビブロス)|Royal Necropolis, Byblos

9つの王墓のうち、被葬者が特定されたのは、1号墓のアビ・シェム王、2号墓はアビ・シェム王の息子、イプ・シェム・アビ王、そして5号墓のアヒラムの3基のみだった。

立坑のある地表周囲には出土した石棺がそのまま展示してある。派手な装飾はないが、表面を滑らかに成形してあり、加工精度はアヒラムの石棺よりも高いと感じた。蓋を持ち上げるためのものと思われる縄掛突起のような突起が、日本の古墳時代で見られた長持形石棺を彷彿とさせる。

王家のネクロポリス(ビブロス)|Royal Necropolis, Byblos

ここで出土した7基の石棺のうち、アヒラムの石棺を除いては、どれも上の写真にあるような、目立った装飾のない簡素な様式だった。表面に華麗な浮彫を施した上、碑文を刻んだものはアヒラムの石棺だけだ。石棺に使われた石材もアヒラムのものだけが違っていた。アヒラムの石棺は、まるで、ビブロス王家のネクロポリスに突如として紛れ込んだ異物のようだった。

【参照】BAH 11 Montet, Pierre - Byblos et l'Egypte Quatre Campagnes de Fouilles à Gebeil 1921-1922-1923-1924 Atlas (1929)

アヒラムの石棺  The Ahiram Sarcophagus

フランスの考古学者、ピエール・モンテが1923年にビブロスで発掘したアヒラムの石棺は現在、ベイルート国立博物館で展示されている。

ビブロス旧市街の建物と同じベージュ色の石灰岩で造られた棺の長さは約3メートル、幅は約1.2メートル、蓋を含めた高さは約1.5メートルあり、前後左右の面に加え、蓋にも浮彫が施されている。博物館が「傑作」と誇らしく書いているように、堂々たるその姿は、一級の所蔵品が居並ぶ博物館の中でも一際、存在感を放っていた。

アヒラムの石棺(ビブロス出土、ベイルート国立博物館所蔵)|The Ahiram Sarcophagus

この石棺を有名にした、紀元前1000年頃のものとされる最古のフェニキア語碑文は、石棺本体と蓋とに分けて刻まれている。(参考:Wikipedia, Ahiram sarcophagus

書き出しの「ゲバル(ビブロス)の王、アヒラムの子イットバアルが、彼の父アヒラムのために、彼をとこしえに横たえた時に造った棺」という部分が、スフィンクスの玉座に座る王の浮彫と反対側の短辺の縁に、それ以降の「この棺を暴くならば」という警告を含む部分が長辺側の蓋の側面に刻まれている。従って、碑文が「石棺の蓋の縁の部分に記されている」、あるいは「石棺の蓋側面に、二行で刻まれている」という記述は誤りである。

アヒラムの石棺(ビブロス出土、ベイルート国立博物館所蔵)|The Ahiram Sarcophagus

碑文を棺本体と蓋とに分けて刻んだところに明確な意図を感じる。おそらく、碑文が一連のものであって不可分であるように、それを刻んだ棺と蓋も一体のもので引き離せない(開けてはならない)と暗示しているのだ。製作者あるいは喪主は、碑文で石棺に封印をしたのだと思う。残念ながら、墓泥棒に脅しは効かなかったようだが。

アヒラムの石棺(ビブロス出土、ベイルート国立博物館所蔵)|The Ahiram Sarcophagus

蓋に碑文がある方の長辺側の面には、スフィンクスの玉座に座った王に謁見する7人の臣下の浮彫がある。王の面前にいるのは王子だろうか。アケメネス朝ペルシアの浮彫でも見られる図式だが、アッシリアとエジプトが混然一体となったような何とも言えない香りが魅力だ。

石棺には、ビブロス音節文字または原ビブロス文字という、フェニキア文字が誕生する前からビブロスで使われていたとみられる未解読文字が刻まれていたが、それを削り取った痕跡があるという。イットバアル王は、元は他人のものだった石棺を父アヒラムを葬るために再利用したといわれている。

アヒラムの石棺(ビブロス出土、ベイルート国立博物館所蔵)|The Ahiram Sarcophagus

石棺の両短辺側は王の死を嘆き悲しむ4人の泣き女の姿が両方に浮彫りされている。2頭のライオンが石棺を下から支え、もう1頭も蓋から頭を突き出して死者を守ろうとしているかのようだが、全く怖さが感じられないのはご愛嬌だ。

王の浮彫のある面と反対側の浮彫には踊る人物が7人と、一角獣のように見える動物を引き連れた人物が1人。死者を供養する宴会を描いたものだろうか。

アヒラムの石棺(ビブロス出土、ベイルート国立博物館所蔵)|The Ahiram Sarcophagus

ベイルート国立博物館に行く機会があれば、アヒラムの石棺を吹き抜けとなっている2階からも眺めることをお勧めしたい。石棺の高さが人の身長ほどもあるため、同じ高さにいても、蓋に何か彫ってあることはわかるのだが、それが何なのか見えないのだ。蓋の突起になっているライオンの頭の続きで胴体も浮き彫りされていたのには意表を突かれた。健気にも蓋に覆いかぶさって主を守ろうとしているかのようだ。そして、帰国後に写真を見て気づいたのだが、顎髭を生やし、丈の長い服を着た2人の男性が、ライオンを挟んで向かい合う姿が描かれていた。

謎の5号墓  The Mysterious Tomb Ⅴ

アヒラムの石棺が見つかったネクロポリスの5号墓は、四方の辺長が約4.5メートル、深さは約10メートルにも達する立坑と、立坑の底から半円形の横穴を掘った、他の王墓のものより広い墓室を備えていた。

まず、立坑の様子が他の王墓と違っていた。

5号墓の立坑には、深さ4.35メートル地点の壁面に、方形の穴が水平方向に4つ並んで開いていた。墓泥棒がそこから先に掘り進めないようにするためか、木の梁を東西両側の壁に渡していたとみられる。その穴のある位置から約1.5メートル上の南側壁面にフェニキア語で侵入者への警告が刻んであった。(参考:Edith Porada, Notes on the Sarcophagus of Ahiram P.356)

Graffite phenicien
Abdnr, Public domain, via Wikimedia Commons

壁面の警告文はごく短いものだが、フェニキア語の解釈の問題があるため研究者によって見解が分かれており、以下のような2通りの解釈がなされている。(出典:酒井龍一著「アヒラム碑文とアジタワッダ碑文」P.12-13)

筆跡は異なるものの、この「落書き」とアヒラム石棺碑文とは字体が共通しており、同時代のものという。

 告知する!(見よ!)
 汝にとっては災いがここに(見よ!)
 この底

 告知する!(見よ!)
 汝の王、私はいる
 この底

また、5号墓は合葬墓で、アヒラムの石棺以外にも石棺が2つ納められていた。その2つの石棺のうち、大きい方は墓室の奥に、小さい方は墓室の入口近くに安置されていた。アヒラムの石棺は、それら2つの石棺の中間に、というよりは奥の石棺に近接して置かれていた。2つの石棺は、いずれも1、4、7、8号墓で見つかった石棺と同様の、装飾のない簡素な形式だった。

5号墓からはラメセス2世(在位 c.1279 - c.1213 B.C.)の銘が入ったアラバスター製の容器の破片が立坑の底部と墓室内で見つかっており、これは、最初に墓室に入った石棺の副葬品として元々、墓室内にあったものが盗掘などによって破損し、アヒラムの石棺を納める際に一部が墓室外に出たものとみられる。(参考:Edith Porada, Notes on the Sarcophagus of Ahiram P.358)

イットバアル王は、父アヒラムの石棺を納める墓室も別人のものを再利用したらしい。

謎めいているのは、入口近くに置かれていた石棺とアヒラムの石棺との位置関係だ。入口近くに置かれていた石棺は、奥に置かれていた石棺と形式が同じであり、墓室に入った時期も奥の石棺と大きく隔たっておらず、アヒラムの石棺よりは早かったのではないか。その石棺が紀元前1000年頃の人物とされるアヒラムの石棺より手前に、しかも墓室の広さを考えると不自然なほど入口の近くに置かれていた。

BAH 11 Montet, Pierre - Byblos et l'Egypte Quatre campagnes de fouilles à Gebeil 1921-1922-1923-1924 Atlas (1929) LR 0168 (cropped)
Pierre Montet, Public domain, via Wikimedia Commons

イットバアル王は、父アヒラムの石棺を納める墓になぜ5号墓を選んだのか、モンテが発掘した時の3つの石棺の並びは果たして墓室へ入った年代順だったのか、大小2つの石棺の被葬者は互いにどういう間柄なのか、その2人とアヒラムはどういう関係なのか、血のつながりはあるのか、など興味は尽きない。

アヒラムの石棺碑文をめぐる道迷いについて

以下の英文は、アヒラム石棺碑文の訳である。旅行時、ビブロスの遺跡博物館の説明パネルやベイルート国立博物館発行の小図録に掲載されていた英訳に筆者が赤字・斜体部分を補足したものだ。

Sarcophagus which made Ittobaal, son of Ahiram, King of Gubla, for his father Ahiram, when he placed him for eternity.
And if a king among kings or a governor among governors or an army commander goes up against Gubla and uncovers this sarcophagus, may the scepter of his rule fade away, may his royal throne be thrown down and may peace flee from Gubla. And as for him, may his inscription be erased "in the face of Gubla".

帰国後にその説明パネルの写真を見て、また購入した小図録を読んで、それらの英訳には何かが足りないことに気づいた。『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』24ぺージ(栗田伸子・佐藤 育子 著、講談社学術文庫)にある碑文の日本語訳と照らし合わせたところ、博物館の英訳には筆者が補足した部分が抜けていることがわかった。『通商国家カルタゴ』を読んでいなかったら、そもそもこの欠落に気付かなかったはずだし、それに気づかなければ、こうしてアヒラムの石棺や碑文のことを調べようとも思わなかっただろう。

全くもって信じられないことだが、ビブロスの博物館に掲示されていた説明パネルの英訳からもベイルート国立博物館の売店で買った小図録の英訳からも、上で補足した赤字・斜体部分が抜け落ちていたのだ。

公的な博物館の説明パネルと図録が、揃いも揃ってまさかこんな致命的な脱句をするとは思わなかったので、筆者は、実はこちらが正しい訳で、「この棺を暴けば」という部分は本当は原文になく、訳者が解釈で補っているのだろうと思い違いをした。

この思い違いのせいで筆者は、アヒラムの石棺碑文をめぐる思わぬ道迷いをすることになった。登山に例えるなら、何かの理由であらぬ方向を向いていた標識を信じて登山道を外れ、そのまま山中をさまよってあやうく遭難しかけたようなものだ。

まず、上の赤字・斜体部分「and uncovers this sarcophagus」がない状態を想像して上の英訳を読んでみてほしい。墓荒らしを呪うにしてはひどく迫力を欠いた文に感じられないだろうか。この独り言とも予言ともつかない文章は到底、呪いの文ではありえず、何か別の目的があるに違いない。筆者はここでも思い違いを重ね、それが、碑文の原文対訳と5号墓の墓の構造を知りたいという思いにつながった。

そんなときにネット検索で見つけたのが、前述の酒井龍一氏の論文「アヒラム碑文とアジタワッダ碑文」だった。読んでみると、フェニキア語の原文には、「and uncovers this sarcophagus」に対応する句「wygl 𐤟 'rn 𐤟 zn 𐤟」が、解釈で補うどころか厳然としてそこにあるではないか。

それに加えて、博物館による碑文のあの英訳が正しいかどうか、もっと手っ取り早く調べられる方法があったことを今更ながら気付いた。フランス語訳がどうなっているか調べてみればいいのだ。

ビブロスの遺跡博物館に掲示されていたアヒラムの石棺の説明パネルには、碑文の英訳とフランス語訳、アラビア語訳があった。英語の「sarcophagus」(装飾石棺)という語はたしかイタリア語からの借用語で、フランス語もほぼ同じ綴りだろうと予想した。フランス語への翻訳が正しくされていれば2回目に出てくるはずの「sarcophagus」を探し、その前後を含めてGoogle翻訳すればいいのだ。

碑文のフランス語訳を恐る恐る目で追ってゆくと、「ouvre ce sarcophage-ci」とある。そこに「sarcophage」の単語がある時点でもう勝負はついたようなものだが、一応、「ouvre」の意味を調べると、「開ける」だ。

衝撃の瞬間だった。碑文のフランス語訳の方は特に問題はなさそうだった。英語訳だけがあの肝心な句を欠落させていたことはもう疑いようがなかった。アヒラムの碑文について筆者があれこれ考えた時間は無駄になった。

ともあれ、博物館の英訳から脱け落ちた部分を復元してあの訳を完成させたいと思った。酒井氏の論文を読み返したところ、フェニキア語「𐤂𐤋𐤉」(gly)の訳語の候補として「uncover」の他に「remove」があることに気付き、はっとさせられた。「remove」といえば、父アヒラムを葬るため、元は別人のものだった石棺を転用して、元は別人のものだった墓に押し込んだイットバアル王の行ったことだ。「動かす勿れ」が彼の真意だったのではないか。

ここからは筆者の妄想になるが、5号墓の墓室入口近くに置かれていた小ぶりな方の石棺は、イットバアル王があの場所へ動かしたのではないかと思う。イットバアル王は、父アヒラムを葬った石棺が将来、再び別人のものにされることを危惧した。警告文の相手が諸王の中の王、諸長官の中の長官あるいは軍司令官になっていたのはおそらくそのためだ。やがてビブロスの支配者となった彼らが、死んだ後に納まる石棺は、その地位に見合った特別なものでなければならない。石棺に呪い文を刻み、立坑の壁面には侵入を思いとどまらせる木製の柵を渡し、そこにも警告文を刻むほど用心深く、念入りなイットバアル王のことだ。父アヒラムの石棺を墓室へ納めた際、すでに墓室にあった2つの石棺のうちの一つを入口近くへ動かして塞ぎ石代わりにしたとしても不思議はない。

そういう訳で、補完部分の訳は当初、「and removes this sarcophagus」を入れるつもりでいた。英語版のウィキペディアも該当部分の訳を「remove (or: disclose)」としている。しかし、碑文が棺本体と蓋とに分けて刻まれていたことを写真で見て思い出したら、その部分の訳語はもう「uncover」以外に考えられなくなってしまった。アヒラム王の石棺碑文が妙なところで効果を発揮した気がする。

ジュベイルからベイルートへ  From Jbeil to Beyrut

ビブロス遺跡での観光を終え、この日の宿泊先となっているベイルートへバスで向かう。

団体旅行に参加して必ずといっていいほど思うことは、たとえ自由時間があっても、遺跡を満足に見て回るには全然足りないということだ。旧市街の散策も含めてジュベイルには最低でもまる1日は充てたかった。ジュベイルは化石の産地でもあるそうで、旧市街の通りには、太古の魚などの化石を売る店がいくつもあったが、ゆっくりと品定めをする時間もなかった。

車窓に映る景色を眺めながら、レバノン北部の地形が山がちなことに改めて驚く。山は海のすぐ近くまで迫っていて、人家は海岸との間にあるわずかな平地と麓近くの緩やかな斜面にへばりつくようにして建っている。これは、この後で訪れるレバノン南部の沿岸地域とは全く違う風景である。

ジュベイルからベイルート方面へ移動するには、現代は、フランスの委任統治時代に海沿いの岩山を貫いた長いトンネルを車で抜ければよいのだが、トンネルができる前は山道を行くしかなかったようだ。ベイルートからジュベイルまでに関していえば、途中に難所となる断崖が2カ所あることを考えると、陸上交通の便はそれほど良くなかったのかもしれない。