旅の空

レバノン 2019

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エシュムンの神殿

ベイルート  Beirut

前の日にジュベイルからベイルートに戻って来ていた。宿泊したホテルが海の近くだったので、朝、海岸線を散策しようと決めていた。それで、少し早起きして朝食を摂り、荷支度をそそくさと済ませると、ホテルのフロントに部屋の鍵を預けて外に出た。今日は寄り道をしながら南部のティールまで移動するのだが、国土の面積が岐阜県と同程度というありがたみを早速、享受する。移動時間が短くて済むので、団体旅行でありがちな極端な早朝出発がなく、朝、ゆっくりできるのはうれしい。ベイルートを起点にすれば北部にも南部にも比較的、短時間で行けるのはレバノンの大きな魅力であり、強みだといえる。

ベイルート|Beirut

ベイルートの海岸沿いには4キロメートル以上にわたって広い遊歩道が整備されており、市民の憩いの場となっている。朝の早い時間帯だったが、散歩をしていたり、海を眺めていたり、ベンチに腰掛けて談笑していたりと意外に人出がある。治安が悪そうなイメージとは裏腹な、のどかで平和な光景が広がっていた。こういう場所が身近にあるベイルート市民がうらやましく思える。

ベイルート|Beirut

岩場で釣りをしている人がいた。今、自分の目の前に広がる海はあの地中海なのだという感慨が湧いてくる。昨日、ジュベイルの昼食で食べた魚の塩焼きはとても美味しかったが、この辺りはどんな魚が獲れるのだろう。新鮮な海の幸を賞味できる国というのは、それだけで高評価をつけたいくらいだ。

中近東の国では珍しい光景だと思うが、ベイルートの海岸通りではジョギングに精を出す人が多い。レバノンには鉄道が通っておらず、どこへ行くにも車を使うので運動不足になりがちなのだという。その上、レストランに行けば美味しい料理がどっさり出てくるのだから、お腹回りに肉が付くのもやむなしだろう。

ベイルート|Beirut

不思議に思うことがある。天然の良港に恵まれた岬状の土地を「フェニキア人の風景」というなら、ベイルートも然り。ベイルートは、ビブロス、シドン、ティルスなどと共に紀元前14世紀のアマルナ文書に登場するほどの由緒を持ちながら、それらの都市のような華々しい歴史があったとは聞かない。ベイルートはなぜ、フェニキア都市国家の中で、いわば、うだつの上がらない状態に置かれていたのだろうか。

鳩の岩  Pigeon Rocks (al-Rawsheh)

ベイルートからサイダへ移動する途中で、「鳩の岩」という観光名所に立ち寄る。ベイルートの代表的景観とされているが、今まで見てきた写真では、そこまでの印象は受けなかったので、行く前は全く期待していなかった。

しかし、実際に行ってみると、そこは切り立った崖の上で、海の眺望が開けており、とても気持ちの良い場所だった。

鳩の岩|Pigeon Rocks (al-Rawsheh)

海にそそり立つ2つの巨岩は60メートルもの高さがあるという。大きい方の岩の頂上にレバノン国旗がはためいているのは、誰か命知らずがこの断崖をよじ登って掲げたものらしい。レバノン政府観光省のサイトによれば、ここで先史時代の道具も見つかっているという。古代人も自然のこの特別な造形には何らかの意味を感じ取っていただろうか。

レバノン南部へ  To the South of Lebanon

ベイルートから南へ向かうと、レバノン北部の海岸線とは景観が明らかに違うことが感じられる。山々は遠ざかり、地形はなだらかに、より平坦になってゆく。

ベイルートからサイダへ向かう車窓風景

快晴に恵まれたこともあるが、南へ移動するにつれ、陽光も海の色も明るさを増していくように感じられる。海水浴客で賑わう区間以外は無人の浜辺が延々と続くが、波の穏やかな白い砂浜はビーチリゾートとして有望ではないだろうか。

ベイルートからサイダへ向かう車窓風景

外国を旅する時は特に、車窓に映る景色を飽きもせずにずっと眺めている。

そこが、観光客を呼び寄せる名所旧跡とは無縁の、人が生活するだけの街だったとしても、家々や行き交う人々や店先に並んだ商品を眺めたりするのは楽しい。そこでの暮らしはどういうものか、もし自分がこの街に生まれていたら、日々の生活をどのように感じ、何を楽しみにして過ごすのか、わからないけれども想像しようとしてみる。

たまたま通りかかった何の変哲もない街や風景を撮った写真が、それを撮ったときの気分を思いのほか鮮烈に呼び起こすことがあって、自分でも驚かされる。

エシュムンの神殿  The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

遠目にはアケメネス朝ペルシアの建築そのものに見えた。そして、2004年に初めてイランを訪れ、アケメネス朝ペルシアの王宮だったペルセポリス遺跡を目の当たりにし、信じられない高さに巨石を積んだ基壇に圧倒されたときのことを思い出していた。

エシュムン神殿は、シドンの守護神であったエシュムンを祀った神殿で、アケメネス朝ペルシア(550 - 330 B.C.)がこの地域を支配していた時代に建造された。(参考:レバノン政府観光省パンフレット「Echmoun」)

エシュムン神殿(ブスタン・エッ=シェイフ)|The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

サイダ旧市街から約3キロ北東の丘陵地にあるこの遺跡を地元では「ブスタン・エッ=シェイフ」(Bustan esh-Sheikh)と呼んでいるようだ。ここで見つかってベイルート国立博物館に展示されている遺物の出土地にもこの名前が記してある。「長老(もしくは教主)の庭園」といった意味であろうか。「ブスタン」には果樹園の意味もあるが、現に遺跡の周囲には果樹園が広がっていて、日当たりも良く、風光明媚という言葉がぴったりな所だ。

エシュムン神殿(ブスタン・エッ=シェイフ)|The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

エシュムン神殿を建立したのは、紀元前6世紀のシドンの王、エシュムン・アザル2世とその母アモアシュタルトである。現在はルーブル美術館にある彼の石棺にそのことが碑文で刻まれている。エシュムン・アザル2世の石棺碑文ではペルシアのことを「王たちの主」と記している。エシュムン神殿の切石巨石積工法はペルセポリスやパサルガダエの建造物を彷彿とさせるものだ。建築様式も主の国に倣ったのだろうか。

エシュムン神殿(ブスタン・エッ=シェイフ)|The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

ただ、フェニキア独自の建築技法もここで見られる。切石積みの柱と自然石を詰め込んだ壁とを交互に置く「ピア・アンド・ラブル」法はフェニキア人の標準的な壁の造り方で、ペルシア時代と次のヘレニズム時代にはフェニキア建築のトレードマークになったという。(グレン・E ・マーコウ著 『フェニキア人』 片山陽子訳 創元社 P.105)

エシュムン神殿(ブスタン・エッ=シェイフ)|The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

エシュムン神殿のすぐ脇に小聖堂(Shrine)とされる石積の建造物が2つある。僕にとってはこれらもどこかで見たような気がしてならない建造物だったが、この小聖堂の上にかつて驚くべきものが載っていた。現在はベイルート国立博物館で展示されているが、背中合わせになった2対の牡牛像である。牡牛の柱頭飾りはアケメネス朝ペルシアの王宮や王墓で見られるもので、その影響は明らかだが、これが柱頭飾りだったとすれば、1基から4体の牡牛が突き出ているタイプはイランにはなかったはずだ。

エシュムン神殿(ブスタン・エッ=シェイフ)|The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

エシュムン神殿の中でも最も神聖な場所と思われるのは、アシュタルテ女神の玉座のある一画だ。玉座の脇に、おそらくライオンをかたどった石造りの吐水口がある。近くのイドラル(Ydlal)の泉を水源として、途中でいくつもの貯水槽を経由して水路で水を引き、ここで池のように水を張っていたらしい。水への憧憬というか、水を巡らすことにかけての強い執心がうかがえる。

エシュムン神殿(ブスタン・エッ=シェイフ)|The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

アケメネス朝ペルシア建国の祖とされるキュロス2世が最初に都を置いたパサルガダエは、水路を張り巡らせたイラン最古の四分庭園でもあった。第3代のダレイオス1世が建設に着手した王宮ペルセポリスには複雑な給排水システムがあった。エシュムン神殿に備えられた配水システムもペルシアの影響を受けているのではないだろうか。

エシュムン神殿(ブスタン・エッ=シェイフ)|The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

そもそも、エシュムンの神殿になぜアシュタルテ女神の玉座があるのか。それにはエシュムンとアシュタルテ女神にまつわる恐ろしい神話が関係している。エシュムンは、元はベイルートにいた狩り好きの人間の若者であったが、女神アシュタルテの求愛を受け、自死してこれを拒絶する。それを受け入れられない女神は、死んだ彼を神として蘇らせたのだという。アシュタルテはシドンではエシュムンと並んで崇拝された女神だった。アシュタルテ女神の玉座の向かって左上には、エシュムンを表したものか、馬に乗って動物を狩る人物の浮彫がある。

エシュムン神殿(ブスタン・エッ=シェイフ)|The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

また、エシュムン神殿からは大理石製の幼い子供の小像がいくつか見つかっている。エシュムンは死してなお蘇る治癒の神としてフェニキア人の崇拝を集めていた。像の一つには、王族である両親がエシュムン神に寄進したことを伝えるフェニキア語の碑文が台座に彫られている。像を神殿に寄進した趣旨は、子供の治癒を感謝してのこととされる。("These offering were dedicated to the god by the parents, to thank him for the healing of their child.", 『A visit to the Museum... The short guide of the National Museum of Beirut, Lebanon』)

【碑文英訳】
This statuette was given by Baalshillem, son of king Banaa, king of the Sidonians, son of king Baalshillem, king of the Sidonians, to his lord Eshmun of the spring Yd[l]al. May he bless him.

【英文和訳】

この像は、シドン人の王バアルシレム王(1世)の子であるシドン人の王バナア王の子、バアルシレム(2世)によって、イドラルの泉の主エシュムンに捧げられた。エシュムンが彼を祝福しますように。

(注)碑文英訳はベイルート国立博物館発行の小図録『A visit to the Museum... The short guide of the National Museum of Beirut, Lebanon』からの引用。日本語訳は筆者による。

筆者は碑文英訳を読んで、像を寄進したバアルシレムが2世であることをすぐには気づかず、関係詞が無限のループに陥っているように感じられた。フェニキア人には子に祖父の名前を付ける習わしがあったらしい。

エシュムン神殿に寄進されたこれらの小像からは、子供の健康を願い、快復を喜ぶ、親としてごく自然な感情がうかがえる。ベイルート国立博物館でこれらの像を見て頭に思い浮かべたのは、テュロス(ティルス)が植民した北アフリカの都市、カルタゴで行われていたといわれる幼児供犠のことだ。それが実際にあったのか否かは今も議論が続いているというが、子供の快癒を喜んで子の像を造って神に寄進した同じ民族が、都市が違い、住む地域が違い、崇める神が違えば、幼児供犠のようなことをするようになるのか、と博物館でこの像を見たときには思った。

エシュムン神殿(ブスタン・エッ=シェイフ)|The Temple of Eshmun(Bustan esh-Sheikh)

エシュムン神殿には、戯れる子供たちを描いたと思しき浮彫もある。現地でこれを見たときは、単に子供たちが遊んでいる姿にしか思わなかったのだが、今、この旅行記を書いていて思うのは、エシュムンの神殿にこうして刻まれた彼らは、夭折して神の世界にいる子供たちではないかということだ。「聖別された子供たち」という考えがもし正しければ、そこから幼児供犠という発想へはそう遠くないように感じられ、空恐ろしくなった。

そのように考え始めたら、エシュムン神殿に寄進された子供たちの像も見え方が違ってきた。子供の治癒を感謝する名目だとしても、その子供に似た像を寄進するというのはやはり尋常ではないように思えるのだ。それは、生身の本人の代わりにその似姿を捧げるという意味ではないだろうか。

フェニキア人もきっと子供を大事にする民族だったと思う。しかし、エシュムン神殿に寄進された子供の小像と神殿に刻まれた子供の浮彫のことを改めて考えると、そこにはもしかすると幼児供儀にも通ずる、子供を極端に特別視する思想があったように思われてならない。