旅の空

レバノン 2019

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シドンとアケメネス朝ペルシア

19世紀のサイダ地図|Sidon_region_in_Renan's_Mission_de_Phénicie
Ernest Renan, Public domain, via Wikimedia Commons
キュロスとカンビュセスの時代

紀元前6世紀から紀元前4世紀にかけて、アケメネス朝ペルシアの下でシドンがどれほど繁栄を享受したかは、王家のネクロポリスから出土した、芸術品ともいうべき装飾石棺の数々を見れば想像に難くないだろう。(参照:シドンの失われたネクロポリス

フェニキア諸都市はシリア、パレスチナ、キプロス島とともにアケメネス朝下で第5行政(徴税)区に組み入れられ、銀350タラントンの年貢を課された(ヘロドトス『歴史』巻三の91)ものの、この「納税額は他の行政区と比較しても格段に安く」(『興亡の世界史 通商国家カルタゴ』 栗田伸子・佐藤 育子 著、講談社学術文庫 P.78)、また、「ごく初期から属国ではなくほぼ同盟国として寛大な扱いを受けていた」(グレン・E・マーコウ著 『フェニキア人』 片山陽子訳 創元社 P.61)という。

ペルシアがこのようにフェニキア諸都市を優遇した背景には、元来、海軍を持たなかったペルシアが、海軍力ではフェニキア人を頼みにせざるを得なかった事情があるようだ。ヘロドトスは、カンビュセス2世の時代には、「ペルシアの全海軍はフェニキア人に依存していた」(『歴史』巻三の19)と書いている。

では、フェニキア地方はいつアケメネス朝の支配下に入ったのか。ペルシアの歴史を見ていたときには気にも留めなかった疑問であるが、意外にも明確な記録がないことを知った。

ヘロドトスによれば、キュロス2世(550 - 530 B.C.)が小アジアのリュディア王国を攻め、クロイソス王を生け捕りにした時(c. 546 B.C.)、「フェニキア人はまだペルシアに従属していなかった」(『歴史』巻一の143)。それが、キュロス2世の子、カンビュセス2世(530 - 522 B. C.)の治績を扱った巻になると、「フェニキア人は自発的にペルシアに臣従してきた民族」(『歴史』巻三の19)というように、すでに過去の出来事として記している。フェニキア地方がアケメネス朝の版図に併合された正式な時期がキュロス2世の時代だったのか、それともカンビュセス2世の治世に入ってからなのかに関して研究者の見解は割れているらしい。

ちなみに、紀元前6世紀のシドン王、タブニト1世とその子、エシュムン・アザル2世は、どちらも元は第26王朝のエジプトで製作された人型石棺に葬られていたが、これは紀元前525年にカンビュセス2世がエジプトへ遠征した際の戦利品と目され、その遠征にシドンが関与していた物証とみられる。(参照:シドンの失われたネクロポリス

アケメネス朝ペルシアとシドン

紀元前481年、アケメネス朝ペルシアのクセルクセス1世は、父ダレイオス1世の遺志を継いで再度のギリシア遠征に着手したが、先代とは違って自ら現地へ赴き全軍の指揮を執った。ヘロドトスによれば、このとき従軍した各民族が提供した三段橈船の総数は1207隻に上ったが、その中で最多の300隻を提供したのはフェニキア人であった(『歴史』巻七の89)。クセルクセス1世が乗船するのは決まってシドンの船であり、シドンの船に乗り込むと彼は、「金色燦然たる天蓋の下に座を占めた」(『歴史』巻七の96、100、128)という。

さらに、ギリシア遠征の全軍がアテナイ地区に達したとき、クセルクセス1世は帝国海軍を構成していた各国の独裁者と部隊長を招集し、御前会議を開いたが、その際の席次は、王が定めた序列に則って筆頭がシドン王、次席がテュロス王(同『歴史』巻八の67)であった。

また、シドンにはペルシアの総督(サトラップ)や将軍が駐在し、ペルシア王が娯楽に使っていたという御用庭園(パラデイソス)もあったという。

ディオドロス『歴史叢書』16巻
ペルシア王アルタクセルクセスによるフェニキア・キュプロス鎮圧戦

41 彼はフォイニキア人とも以下のような理由で戦争を始めた。フォイニキアにはトリポリスと呼ばれる重要都市があり、その名はアラドス人の都市、シドン人の都市、テュロス人の都市という名の三つの都市からそれぞれ一スタディオンの距離があったというその性質に相応しいものであった。この都市はフォイニキアの都市のうちで最高の声望を享受しており、そのためにフォイニキア人は総会をそこで開いて最も重要な問題を論じていた。王の太守と将軍たちはシドン人の都市に住んでいて、すべきことを命令するにあたってシドン人に対しては傲慢且つ高圧的な仕方で振る舞っており、この扱いの犠牲者たちは彼らの横柄さに憤慨してペルシア人に反乱を起こそうと決意した。独立を得ようとするにあたって残りのフォイニキア人を説得した彼らはペルシア人の敵であったエジプト王ネクタネボスへと使節団を送って同盟を受諾するよう説得した後に戦争の準備を始めた。シドンは富裕で秀でていて個々の市民らは海運業で莫大な富を溜め込んでいたため、多くの三段櫂船が迅速に揃えられて多くの傭兵が集まり、さらに武器、投擲兵器、食料、そして戦争に有用な他の全ての物が至急提供された。最初の敵対行動はペルシア王が娯楽に使っていた御用庭園を切り倒して破壊することであり、二つ目は太守によって戦時のために蓄えられていた馬の飼い葉を焼き払うことであり、仕上げに彼らは横柄な行いをしていたペルシア人を逮捕して復讐を果たした。このようにしてフォイニキア人との戦争が始まり、アルタクセルクセスは謀反人たちの無分別な行いを知ると、全フォイニキア人、とりわけシドンの人々に警告を発した。
(引用元 ウェブサイト「今居歴史資料館」。強調部分は引用者による。)
牡牛の柱頭飾り

ベイルート国立博物館には、シドンとアケメネス朝ペルシアとの特別な関係を象徴する遺物が展示されている。牡牛の柱頭飾りと柱の台座である。アヒラムの石棺がベイルート国立博物館の至宝といわれることに異存はないが、個人的に最も強い印象を受けた展示品はこの柱頭飾りで、これがレバノンにあることが大きな驚きだった。

牡牛の柱頭飾り(ベイルート国立博物館)| Capital with Bull Protomes, Beirut National Museum

アイン・エル=ヘルウェのネクロポリスで出土した人型石棺と同様に「フォード・コレクション」と銘打たれているが、この柱頭飾りと台座に関してはネクロポリスで出土したものではない。これらはサイダ旧市街の「College Site」と呼ばれる遺跡発掘現場に隣接する大学の基礎工事中に発見されたものだ(参照 EXCAVATION’S HISTORY, Sidon Excavation)。そして、その「College Site」を遺跡埋蔵地としてレバノンの考古当局が収用するに至った契機というのが、まさにこの柱頭飾りや台座が出土したことだったという。

柱の台座(ベイルート国立博物館)| Column Base, Beirut National Museum

牡牛の柱頭飾りは、アケメネス朝ペルシアのペルセポリスやスーサといった王宮、ナグシェ・ロスタムなどの王墓で見られるものだが、サイダで出土したものは、ペルセポリスのものと比較すると、全体の形状は忠実に再現されているものの、細部の表現様式が異なっている。おそらく、シドン王家の装飾石棺を手掛けた職人もしくは工房が製作したものであろう。彼らが一体、どのようにしてこの柱頭飾りを製作したのか考えると興味は尽きない。はるばるペルセポリスへ赴き、現物を目にしたのか、あるいは仕様図面のようなものがあったのか。

牡牛の柱頭飾り(イラン、ペルセポリス)| Capital with Bull Protomes of Persepolis, Iran
牡牛の柱頭飾り(イラン、ペルセポリス)
柱の台座(イラン、ペルセポリス)| Column Base of Persepolis, Iran
柱の台座(イラン、ペルセポリス)
アルタクセルクセス3世王墓(イラン、ペルセポリス)| Tomb of Artaxerxes Ⅲ, Persepolis, Iran
アルタクセルクセス3世王墓(イラン、ペルセポリス)

サイダで出土した牡牛の柱頭飾りと台座は、一体、どのような目的で製作されたのだろうか。アケメネス朝ペルシアの文化的な影響を示すとの解説は見受けられるが、筆者の考えでは、それだけに留まるものではなく、ペルシア王に直接関わる用途で造られたのだ。この牡牛の柱頭飾りはアケメネス朝ペルシアの王宮や王墓で使用された王家の印だからだ。ディオドロス・シクロスが記しているように、シドンにはペルシア王が娯楽に使っていた御用庭園までもがあった。おそらく、ギリシアへ親征するクセルクセス1世を迎えるために建造された建物に使われたのだろう。それが、ペルシア王の離宮であったのか、またはシドン王がペルシア王を遇するための迎賓館的な施設だったのか、あるいはそれ以外のものだったのかは、もはや一介の歴史好きに過ぎない筆者の手には負えない問題であるが…

『歴史』の中のフェニキア

レバノンを旅して感じたのは、フェニキア時代の遺跡は、すでに見つかっているものに関していえば、そう多く残っているわけではないということだった。在りし日のフェニキア人や都市の様子を生の情報で伝えてくれるものはないか。僕が考えついたのは、ヘロドトスの『歴史』を読むことぐらいだった。

『歴史』は、ペルシア戦争が主題なので、アケメネス朝ペルシアに関する記述が相当な割合を占めるのは当然として、改めて読むと、フェニキア人に関する記述も意外に多いことがわかった。

いずれ何かの役に立つかと思い、『歴史』に登場するフェニキア関連の記述のある節を書き留めておいたのだが、このページを書いたついでに、備忘録として載せておくことにした。フェニキアに関してある程度まとまった内容のある記述はほぼ網羅していると思う。


ヘロドトス著 『歴史』(松平千秋訳 岩波文庫)中のフェニキア関連の記述
内容
1 1 争いの原因、フェニキア人の出自、エウロペ
2
143 ペルシアの脅威
166 カルケドン人
170 タレスの先祖はフェニキア人
2 44 テュロスのメルカルト神殿にあった黄金とエメラルド製の二本の角柱。タソス、エウロペの捜索
54 フェニキア人によるエジプト人巫女2人の誘拐。リビアとギリシアへ
56
112 メンピスのテュロス人陣地
181 アプリエス王。シドンを攻めテュロス王と海戦
3 17 カンビュセスはカルタゴ遠征を計画
19 フェニキア人はカルタゴ遠征を拒否
91 ダレイオス。フェニキアは第5行政(徴税)区
107 ステュラクス香、有翼の蛇
111 シナモン
136 シドンで貨物船を手配
4 42 ネコス王の命による航海
43 ハンノの航海
45 テュロスの女エウロペ
147 テラ島とアゲノルの子カドモス
196 カルタゴ人とヘラクレス以遠の地に住むリビア人との交易方法
5 57 ゲピュライオイ族
58 ギリシアへフェニキア文字を伝える
108 フェニキア海軍
109
6 6 フェニキア海軍
14 フェニキア艦隊
17 ポカイア人ディオニュシオス
28 フェニキア海軍侵攻
33
40
41
47 フェニキア人植民者タソス
7 23 運河開鑿工事
25 白麻製の綱具
34
44 漕ぎ競べ、シドン人の船
89 三段橈船300隻、フェニキア人の出自
91 キリキア、アゲノルの子キリクス
96 フェニキア人、とりわけシドン人の船
98 シドン人テトラムネストスとテュロス人マッテン
100 クセルクセス、シドンの船に
128 シドンの船
165 カルタゴの王なるアンノンの子アミルカス
166 アミルカス
167
8 67 シドンの王、テュロスの王
85 フェニキア部隊
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