レバノン 2019
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ティール その1
ティールへ To Tyre
サイダからさらに約40キロメートル南に位置するティールを目指してバスで高速道路を移動中、道路の両脇に林立する道路照明灯の支柱という支柱に縦長の旗が括り付けられているのを目にした。
道路照明灯にロープで括り付けられた2種類の旗のうち、一つはレバノン杉の図柄でお馴染みのレバノン国旗なのだが、それよりもはるかに多い、緑地の中央に赤丸で囲んだ白いロゴは、シーア派政党アマルの旗である。
公共の道路設備に特定政党の旗を括り付けるなど、日本では考えられないことだが、このアマルの旗は、レバノンで歴代の国会議長を輩出してきたシーア派イスラム教徒の勢力圏内に入ったことをわかりやすく教えてくれる。
途中、歩道橋だったか跨道橋だったか記憶が定かでないが、イラン国旗の絵とともに「イランの援助により建設された」と英語で書かれた鉄橋を見た。シーア派の宗家たるイランが、レバノンのみならず各国のシーア派に肩入れしていることは報道などで見聞きしていたが、その一端を目の当たりにして、やはりそれは本当だったのだと納得した。
バスがティール市内へ近づくにつれ、まるで、どこかイランの地方都市を走っているような気がしてくる。そう感じたのは、街角に掲げられた指導者らしき写真や肖像画がイランのイスラム法学者のような身なりをしているせいもあるだろうが、シーア派特有の色彩感覚や美意識というものがあるように思われるのだ。
町の沿革 History
ギリシア語でテュロス、ラテン語でティルス、旧約聖書ではツロというように、この町にはいくつもの呼び名があった。現地での現在の呼び名はスール、フェニキア語ではツールと呼んでいたらしい。
ティールでは、内陸側のマアシューク地区において前期青銅器時代(3200 B.C.- 2000 B.C.)に遡る集落の痕跡が確認されているという。紀元前5世紀にティールを訪れたヘロドトスは、主神メルカルトを祀る神殿の祭司から聞いた話として、町と神殿が創設されてから二千三百年になると『歴史』(巻2-44)に記している。ヘロドトスの伝える話と考古学的知見との辻褄が合うところが興味深い。
ティールの記録が確認される最古の文献は紀元前14世紀のアマルナ文書とされるが、当時のティールはエジプトの属国だった。新王国時代を迎えたエジプトは、レバント地方が起源とされる異民族、ヒクソスによる第15王朝を倒した後、逆にレバント地方へ進出してゆく。エジプトはその後、レバント地方の支配をめぐって小アジアに本拠を置くヒッタイト王国と対立する。ベイルート近郊のナハル・エル=カルブには、ヒッタイトとの戦いでシリアへ遠征したラメセス2世(在位 紀元前1279年頃-1213年頃)が刻ませた碑文が残っている。ティールでも「戦神レー・ホルアクティの面前でエジプトの敵を殺戮する」ラメセス2世の石碑が出土している。
現在は海に突き出た半島状を呈するティールであるが、かつては沖合に浮かぶ島であり、対岸の陸地とで市域が分かれていた。フェニキア語でツールは「岩」を意味するという。
紀元前10世紀、テュロスのヒラム1世は、沖合に浮かぶ2つの岩礁を埋め立てて連結し、島の防御を固めた。ヒラム1世は、古代イスラエル王国のソロモン王と友好、協力関係にあったとして旧約聖書に登場する王だ。
紀元前9世紀以降、フェニキア地方は、地中海方面に支配領域を拡大しつつあったアッシリア帝国の軍事遠征に度々見舞われる。ナハル・エル=カルブには、エサルハドン王(在位 紀元前681~669年)の他に4人のアッシリア王のレリーフが刻まれている。テュロスもまたアッシリアの度重なる攻囲を受け、貢納あるいは服属を強いられた。
アッシリアを滅ぼした新バビロニア王国のネブカドネザル2世(在位 紀元前604~562年)に至っては、13年にわたってテュロスを攻囲した。
アッシリアも新バビロニアもテュロスの島部分を占領することはできなかったが、それを断行したのはマケドニア王国のアレクサンドロス3世である。アケメネス朝ペルシアの滅亡を目前にした紀元前333年、アレクサンドロスは、彼がヘラクレスと同一視していたテュロスの主神メルカルトの神殿で犠牲を捧げたいとの申し出をテュロス側に拒絶される。これに怒ったアレクサンドロスは、本土から島へ伸びる突堤を築き、紀元前332年1月から7か月をかけてテュロスを攻略した。
マケドニア王国とセレウコス朝を滅亡へと追いやったローマは、フェニキア地方をシリアとともに属州にした。シリア属州下のティルスには戦車競技場や水道橋、大浴場などが建設され、ローマ都市として新たな発展を遂げる。
アレクサンドロスがテュロス攻略のために築いた突堤の両岸にはやがて砂洲が形成され、その後、半島状の地形に変わったという。突堤が築かれた区間には今、コンクリートのビルが建ち並んでおり、一帯がかつて海であったとは信じがたいほどだ。
ネクロポリス Necropolis
世界遺産に登録されているティールの遺跡区域は、半島の付け根部分と先端部分とに大きく分かれている。最初に向かったのは付け根部分にあるローマ時代のネクロポリスだ。
このネクロポリスにある墓の年代は紀元後2~6世紀、ちょうど五賢帝の時代から西ローマ帝国が滅亡して、東ローマ帝国としての歩みが始まる頃までのものだ。火葬墓から十字架が彫られた石棺までが混在しており、時代によって葬送の仕方や墓の形が様々に変わったことがわかる。
中でも、アーチを備えた豪壮な家族墓やコルンバリウムが目を引く。コルンバリウムは、壁面に骨壺を収納する多数の小部屋が設けられた納骨所のことで、形が鳩舎(columbarium)に似ていたことからその名で呼ばれていたという。
また、ここではパルミラで見られる塔墓という形式の墓も確認されており、シリア属州という地域性をも感じさせる。
ティールのネクロポリスも二千年近く前のものだが、ビブロスで見たフェニキア時代の王家のネクロポリスと比べると新しく、遺跡というより墓地の感が強い。死の気配が未だに辺りを色濃く包んでいる気がしてならなかった。
ふと、道の脇を見ると、意外にも南国の花、ブーゲンビレアが咲いていた。ネクロポリスを見て陰鬱になった気分が赤と橙の鮮やかな色合いに慰められた。
凱旋門 Triumphal Arch
ネクロポリスの入口から半島の先端方向へ続く石敷きの舗装道を進むと、20メートルもの高さを誇る古代ローマの凱旋門が見える。その堂々たる姿ゆえになおのこと僕は心の中で叫ぶ、「違うのだ。僕がここティールで見たいのはローマ遺跡ではないのだ」と。
ヨルダンのジェラシュで見たものと比べれば質素な印象だが、細身ながら優美な凱旋門だ。建造されたのは紀元後2世紀だが、5世紀か6世紀に起きた地震によって倒壊した後に再建されたものだという。
凱旋門をくぐると、石の厚板で舗装されたローマ時代の道路が半島の先へ向かってしばらく続くが、コンクリートのビル群の手前で消失している。水道橋もこの道に沿って伸びていた形跡がある。水道橋がなくてはこの先にある大浴場に水を供給することなど不可能だろう。この舗装道は、おそらく、アレクサンドロスが築いた突堤の上に敷設された。突堤はこの石敷きの下に埋もれているのだろう。
戦車競技場(ヒッポドローム) Hippodrome
凱旋門脇の列柱回廊を少し進んで、水道橋の遺構をくぐれば、2世紀に建造された古代ローマの戦車競技場、ヒッポドロームに出る。その長さは480m、幅は160mに達し、3万人を収容可能だった。現存する大競技場としては、ローマのキルクス・マクシムスに次いで2番目の大きさだという。このことからも、ティールがローマ帝国下でも繫栄したこと、また、ローマにとってもこの町が重要であったことがうかがえる。
いかにも古代ローマの建造物らしく、精密に加工された大小の切石を階段状に積み上げた観客席の最上部から競技場全体が見渡せた。その先には海がわずかに見える。
水道橋 Aqueduct
半島先端部にある遺跡区域へは少し距離があるので、バスで移動する。駐車場へ戻るため、ヒッポドロームから、水道橋が並走する大通りへ引き返す。水道橋のアーチの下にはかつて商店などが入っていたらしい。
ティールの水道橋は、約7キロメートル南東のラス・エル=アインにある泉から水を引いていたが、この泉はフェニキア時代から水源として利用されていたという。
水道橋のアーチの向こうにコンクリート造りの民家らしき建物が並んでいるのが見える。遺跡にこれほど近接して住宅を建てられるものだろうかと少し前から気になっていたのだが、説明を聞いて初めて知ったのは、それら民家が建っている場所こそ、エル=バス(アル=バス)の名称で呼ばれるパレスチナ難民キャンプだったのだ。
そのとき、凱旋門や、水道橋、ヒッポドロームなどから構成されるこの古代ローマの空間に、イスラム教の礼拝の時を告げる詠唱、アザーンが響き渡った。それはまるで、初代皇帝アウグストゥス以来、ローマ帝国の領土であり続けたシリア・パレスチナ地方が7世紀にアラブ・ムスリムの侵攻によって失われた歴史の縮図を見るかのような鮮烈な光景だった。
636年、ヤルムークの戦いでアラブ正統カリフ軍に敗れた東ローマ帝国のヘラクレイオス帝は、「シリアよさらば」という悲痛な言葉を発したと伝えられている。彼は、ササン朝ペルシアに一時、奪われたシリア・パレスチナを含む東方領土を、622年から6年にわたって続いた死闘の結果、奪い返したばかりであった。
そして、僕の思い違いだったかもしれないが、アザーンの放送は、エル=バス難民キャンプから我々のいる世界遺産区域に向かって流れているように聞こえたのだ。アザーンの哀切な節回しも相まって、責め立てられているような気分になった。「我々は故郷を追われて70年以上もここで仮住まいを強いられているというのに、お前たちは呑気に物見遊山か」と。
レバノンでは、観光旅行をするにしても政治や国際情勢を頭の中から完全に追いやることはできそうもない。