旅の空

日本・謎の石造遺物紀行

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飛鳥編 その二 「酒船石と益田岩船」

酒船石

飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)は、西暦645(大化1)年、時の大臣・蘇我入鹿が皇極天皇の面前で中大兄皇子や中臣鎌足らによって暗殺されるという「乙巳の変」の舞台となったところだ。その後、弟の孝徳天皇に位を譲った皇極天皇は、655(斉明1)年、今度は斉明天皇としてこの場所で再び即位した。斉明天皇の時代に造られたという謎の石造遺物・酒船石は、飛鳥板蓋宮跡と伝わる遺跡から500mほど東の小高い丘の頂上にある。
酒船石Sakafuneishi
長さ約5.3メートル、最大幅約2.3メートル、厚さ約1メートルの平らな花崗岩に楕円形の窪みが7つとそれらを結ぶ溝が彫られているが、後世に石の一部が切り取られ、高取城の石垣に転用された。全体的に緩い傾斜をつけて設置されており、半円形の窪みに液体を注ぐと溝を伝って縦長の楕円形の窪みの方向に流れるという。この摩訶不思議な石は一体何の目的で作られたのか。あの窪みと溝は一体何を意味しているのか。酒を作るため、あるいは油を作るため、あるいは辰砂を作るため、あるいはゾロアスター教の儀式に用いる薬酒(松本清張説)を作るためなどと諸説あるが、どれも無理がありそうだ。楕円形の窪みはいずれも数センチから十数センチの深さしかなく、そうした類のものを大量に製造するには不向きである。それに、液体容器が必要だとしても、わざわざこんな大きな岩を彫って作る必要があるだろうか。
酒船石に刻まれた溝や窪みは、「水」を流したり溜めるたりするためのものではないか。そのことを思ったのは、イランのビーシャープールというササン朝遺跡を訪れたときのことだ。遺跡付近のある畑で、果樹の根本まで水を流すコンクリートの溝を見て思った。酒船石の窪みや溝は、何らかの液体を製造する設備としてはあまりに非合理的すぎる。しかし、儀式的に水を溜めたり流したりするのが目的であれば充分用をなすのではないかと。水と豊穣の女神アナーヒターを祀る神殿でも、ヒントを与えられた気がした。水が、ある一定の作法で流れ、湛えられることが重要だ。
古代イランの信仰が日本に伝わったという根拠は何もないが、何らかの「水信仰」が存在し、酒船石はその祭祀を執り行う祭壇だったとは考えられないだろうか。

酒船石遺跡

平成12(2000)年、酒船石のある丘の麓から不思議な石造物が発掘された。現在は亀形石造物と小判型石造物という名で呼ばれているものだ。どちらも石の水槽であり、小判型石造物から亀型石造物へと水が流れるよう組み合わせて使用された。付近から、砂岩の切石を積んで造った湧水施設も見つかっており、そこが水源とみられる。その他にも、周囲約20m四方から、排水溝、石敷や石垣なども見つかっており、何らかの祭祀を行うための空間であったらしい。斉明天皇の時代に造営が始まり、平安時代まで約250年間使用されたことがわかっている。
酒船石遺跡Sakafuneishi-iseki
また、亀型石造物のある麓から酒船石のある頂上へと向かう丘の斜面で、砂岩の切石を積んだ石垣が発見されたことから、日本書紀の斉明2(656)年の条に「宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす。」と記された「石の山丘」はまさにこの場所だと考えられる。

… 時に興事を好む。すなはち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人謗りて曰はく、「狂心の渠。功夫を損し費やすこと、三萬余。垣造る功夫を費し損すこと、七萬余。宮材燗れ、山椒埋もれたり」といふ。又、謗りて曰はく、「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」といふ。 …

亀型石造物於宮東山累石為垣
筆者が現地で見た遺物の中で最も奇異に感じたものは砂岩の切石積だ。古墳の石室以外に古代日本の土木建造物でここまで整形した切石を使った例は他にないように記憶しているのだが。

益田岩船

近鉄飛鳥駅の一つ隣、岡寺駅から西の方角へ進むと周囲には橿原ニュータウンなど新興住宅地が広がり、自分が今、飛鳥にいるのだとは思えないほどだ。橿原ニュータウンの背後にそびえる標高130メートルの岩船山頂上に目指す巨石建造物がある。益田岩船は飛鳥に点在する謎の石造遺物の中で最たるものといえるだろう。
一目見ただけで、その大きさと重量感に度胆を抜かれるはずだ。長さは東西で11メートル、南北は8メートル、高さは4.7メートルの台形をした巨大な花崗岩である。推定重量は100トン以上ともいわれる。頂上部を経由して東西の両側面を結ぶ形で幅1.6メートルの浅い溝が彫りこまれ、頂上部には四辺の長さ1.6メートル、深さ1.3メートルの穴が二つ穿ってある。ただ大きいだけではない。花崗岩の固い岩をここまで滑らかに彫りあげた加工精度も驚きだ。とはいえ、石の下部は荒削りな格子状の整形跡が残っていて、この建造物が製作途中で放棄されたことを示す。上部平坦面の溝や穴が高麗尺に基づいていること、また加工技術などか ら7世紀代の製作が考えられるという。
益田岩船Masuda no Iwafune この巨石建造物の用途についても、益田池の巨大な石碑の台石、占星術のための天体観測台、火葬墳墓、ゾロアスター教の拝火壇もしくは水の祭壇など諸説あるが、古墳の横口式石槨説が有力らしい。
益田岩船から400mほど南東には真の斉明天皇陵と目される牽牛子塚古墳があり、尾根伝いの道を伝って行き来できる。牽牛子塚古墳は巨石をくり抜いて造った2つの玄室を持つ特異な古墳だが、そのことは、斉明天皇とその娘である間人皇女を合葬したという日本書紀の記述に合致するのである。
横口式石槨説によれば、当初、益田岩船を斉明天皇陵の石槨として造りはじめたが、製作途中で石に亀裂が生じ、そのままでは割れる怖れがあったことから放棄され、代わりに牽牛子塚古墳を造営することになった。益田岩船の頂上に開けられた2つの穴は2人分の玄室で、穴を彫った後、横倒しにする計画であった。最初から本来の横向きで製作しなかった理由は、花崗岩という固い岩の性質上、上から穴を空ける方が作業しやすいからだという。
益田岩船Masuda no Iwafune 筆者も益田岩船を真上から撮影した写真を見たとき、これは横口式石槨で決まりではないかと思った。写真に写った形はまさに牽牛子塚古墳そのものに見えたからだ。しかし、どうしても疑問が残る。第一に、あの巨石を引き倒す手間と固い花崗岩に横から穴を空ける手間は果たして釣り合うものなのか。そして何より、岩船のある山の頂上は急斜面である。そのような場所であの巨石を引き倒すにしても足場が確保できそうもないし、危険極まりない。仮に引き倒すことができたとしても、勢いでそのまま麓まで転げ落ちて行くのではないかと思える。

石の女帝の時代

近鉄飛鳥駅の裏山にある岩屋山古墳を取り上げて締めくくりとしたい。この古墳も、牽牛子塚古墳の隣で越塚御門古墳が発掘されるまでは真の斉明天皇陵の候補に挙がっていた。横穴式古墳の石室であることはわかっているので、これが謎の石造遺物だというのではない。しかし、この加工精度の見事さはどうだろう。石室の全長は16メートル、人の背丈ほどもあろうかという巨石の表面はまるでコンクリートブロックのように滑らかに整形されている。
岩屋山古墳Iwayayama Tumulus 巨大な石室を備えた古墳が、飛鳥だけでなく日本各地でさかんに築造された時代があった。巨大な石積みを見ていると、一体どうやって運んだのか、どうしてあれほど精密な加工ができたのかなど興味は尽きない。
さて、今まで取り上げた遺跡は全て斉明天皇に関係していることをお気づきだろうか。日本書紀の中で斉明記はひときわ異彩を放っている。即位の年は龍に乗った者が空中に現れ、崩御の折には鬼が現れて葬儀の様子を眺めていたとある。重祚する前の皇極天皇であった時代にこうした怪異の気は見られない。
斉明天皇の治世はまた、東アジアの一大転換期にもあたっていた。新羅と唐の連合軍に攻められ存亡の瀬戸際に立たされた百済は同盟関係にある日本に援軍を求める。斉明天皇は、百済の救援要請に応じ、陣頭指揮のため赴いた九州で亡くなった。
一方で、日本書紀は斉明天皇の情愛あふれる女性としての一面も伝えている。孫の建王(たけるのみこと)が8歳という幼さで亡くなったとき、天皇は悲しみに堪えられず、慟哭すること甚だしかったという。斉明天皇が亡き孫を偲んで詠んだ歌が残っている。

飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
(飛鳥川が水をみなぎらせて、絶え間なく流れていくように、絶えることもなく、亡くなった子のことが思い出されることよ。)

飛鳥に謎の石造物を残した斉明天皇その人こそ最大の謎かもしれない。