詩の小径
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ソフラーブ・セペフリー 「夜の瞼(まぶた)に」
緑の嵩 Hajm-e Sabz
次にご紹介するのは、ソフラーブ・セペフリーの「夜の瞼に(よせて)」 (Az rū-ye pelk-e shab)という詩です。詩集『緑の嵩 』(Hajm-e Sabz)」の最初を飾る詩で、最初にご紹介した「明るさ、僕、花、水」は、この次に収められています。
これを訳してみようと思ったのは、たまたま目に留まった最初の3行が、まるで映像を見るかのように視覚的で、濃密な雰囲気が感じられたからです。特に、「(月の光で)山があまりに明るかったので神の姿も見えた」というイメージが面白いと思いました。
しかし、4行目に進んだ途端、頭を抱えました。一転して、何のことを言っているのかさっぱりわからなくなりました。訳を終えた今でも全て理解したとは言い難いですが、題名の「夜の瞼」とは、月が満ち欠けによって、あたかも目を閉じたり開いたりするように形を変えることを指すと解しました。とりわけ、5行目の"Dourhā-gom"をどう解釈したらよいかが難題でしたが、ここでは、「dour…回転」+「gom…失われた」=「繋がれた」としました。月は、地球の重力の影響でその周囲を廻る衛星だからです。
詩ならではの表現法ですが、そこにあるべき言葉が省略されていたりなど、この前のセペフリーの詩2編と比べて格段に難解でした。この詩は『現代イラン詩集』でも取り上げておらず、100%、素人である筆者の訳です。おそらく間違いがあると思いますので、その点をご承知の上でお読みください。もし、解釈の誤り等をご指摘いただけましたら幸いです。
Az rū-ye pelk-e shab
Shab-e sarshārī būd.
Rūd az pā-ye senoubarhā, farātarhā mī-raft.
Darre mahtāb andūd, va chenān roushān kūh, khodā peydā būd.
Dar bolandīhā, mā.
Dourhā-gom, sathā shoste, va negāh az hame shab nāzoktar.
Dasthāyat, sāqe-ye sabz-e payāmī rā mī-dād be man
va sofālīne-ye ons, bā nafshāyat āheste tark mī-khord
va tapeshhāmān mī-rīkht be sang.
Az sharābī dīrīn, shen-e tābestān dar raghā
va la'āb-e mahtāb, rū-ye raftārat.
Tou shegarf, tūrhā, va barāzande-ye khāk.
Forsat-e sabz-e hayāt, be havā-ye khonak-e kūhestnān mī-peyvast.
Sāyehā bar mī-gasht.
Va hanūz, dar sar-e rāh neshīm,
Pūnehā'ī ke takān mī-khord,
Jazbehā'ī ke be ham mī-rīkht.
【私訳】
夜の瞼に
豊饒な夜だった
川は樅の木の根元から、さらに上の方へ流れていった
谷は月光を蓄え、山があまりに明るかったので、神の姿も露わになった
僕等は高地にいた
繋がれ、表面を洗われ、眼差しは夜毎に薄くなってゆく
君の両手、神託の緑の茎が僕に与えられた
慣れ親しんだ陶器は、その魂もろとも徐々に割れ目が広がっていった
そして僕等の鼓動は石へと注がれていた
君の佇まいには、古い葡萄酒よりも縞模様の夏砂と月光のエナメルを
君は優美な、レースの布、そして土に相応しい
中庭の緑が芽吹く頃、山地の冷たい空気に包まれた
影が戻りつつあった
そして未だ、僕等は道の途中に留まっている
揺れる目草薄荷
そこに歓喜も流れていた