ペルシアと奈良
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奈良のペルシア人
李密翳と乾豆波斯達阿
天平のペルシア人
咲く花の匂うがごとく…と謳われた寧楽(なら)。天平文化の花開く平城京を訪れたペルシア人がいるのをご存じだろうか。
時は、東大寺の大仏開眼会の16年前、天平8(西暦736)年のことである。
そのペルシア人は、帰国する遣唐使に連れられて、はるばる日本へとやって来た。日本書紀に続く正史、『続日本紀』(しょくにほんぎ)は次のように記している。
【続日本紀 巻第十二 聖武天皇 天平八年】【訳】
- 八月庚午、入唐副使従五位上中臣朝臣名代ら、唐の人三人、波斯一人を率ゐて拝朝す。
- 十一月戊寅、天皇、朝に臨みたまふ。(中略)唐の人皇甫東朝・波斯人李密翳らに位を授くること差有り。
- (西暦736年)8月23日、遣唐副使・従五位上の中臣朝臣名代らが、唐人三人・ペルシャ人一人を率いて、帰国の挨拶のため天皇に拝謁した。
- 11月3日、天皇は朝殿に臨御し、(中略)唐人の皇甫東朝・ペルシャ人の李密翳らにはそれぞれ身分に応じて位階を授けた。
『続日本紀』は、そのペルシア人を、李密翳(り・みつえい)という中国名で記している。
中国では、シルクロードを通じた交易が盛んになるに従い、漢の時代からイラン文化の流入が始まり、隋・唐に至っては、宗教、芸術に始まり衣食住の分野に至るまで、イラン文化全盛ともいうべき大流行を見せたという。
胡服、胡帽、胡粧、胡楽、胡舞、胡酒、胡食など、イランの風物にすっかり心を奪われた都、長安の華やかな空気を伝える漢詩として引き合いに出されるのが李白の「少年行」である。
- 五陵年少金市東
- 銀鞍白馬度春風
- 花踏盡遊何處
- 笑入胡姫酒肆中
- 五陵の年少 金市の東、
- 銀鞍白馬 春風を度る。
- 落花踏み尽くして何れの処にか遊ぶ。
- 笑って入る 胡姫酒肆の中。
酒場の美しい胡姫たちにとどまらず、当時、交易などの目的で長安に居住していた胡人(ペルシア人、ソグド人など)は、数千とも一万ともいわれる。
彼らは、出身国の略称を姓に冠し、母国語の名を音の近い漢字で表した中国名を名乗った。「安史の乱」で玄宗皇帝に反乱を起こしたことで知られる節度使・安禄山は、安国(ブハラ)出身のソグド人であった。禄山は、彼の名「ロクシャン」を写したものだ。
李密翳の「李」姓は、出身国を表すものではない。李姓は本来、唐の皇帝の姓であるが、功績のあった外国人が李姓を与えられる例が多々見られるという。李密翳もその一例と考えられる。一方、名の「密翳」は、ペルシア語の本名(井本英一氏によれば「ミフライ」または「ミフレイ」)を音の近い漢字で表したものだ。
李密翳に関する記述は上に挙げた2行のみで、彼の生業やその後の消息などは、一切、触れられていない。それでも、李密翳は、ペルシア人が古代の日本にも到達しえたことの例証である。
実に、シルクロードを通ってペルシアからはるばる日本へやって来たのは、ガラスの碗だけではなかったのだ。
トカラの国からやって来た客人(マレビト)
さらに、古代日本へやって来たペルシア人は、李密翳だけにとどまらない。
李密翳の80年ほど前にも、ペルシア人らしき人物の来朝を日本書紀は記録している。しかも、ササン朝の王族だった可能性さえ取沙汰される人物である。
【訳】
- (孝徳白雉五年)夏四月に、吐火羅国(とくわらのくに)の男二人・女二人、舎衛(しやゑ)の女一人、風に被ひて日向(ひむか)に流れ来たれり。
- (斉明)三年の秋七月の丁亥の朔己丑に、覩貨邏国(とくわらのくに)の男二人、女四人、筑紫に漂ひ泊れり。言さく、「臣等、初め海見嶋に漂ひ泊れり」とまうす。乃ち駅を以て召す。
- 辛丑に、須弥山の像を飛鳥寺の西に作る。且、盂蘭盆会設く。暮に覩貨邏人に饗たまふ。或本に云はく堕羅人(たらのひと)といふ。
- (斉明五年三月)丁亥に、吐火羅人、妻舎衛婦人(めしやゑのめのこ)と共に来けり。
- (斉明六年)秋七月の庚子の朔乙卯に、高麗の使人乙相賀取文等、罷り帰りぬ。又、覩貨邏人乾豆波斯達阿(とくわらのひとげんずはしだちあ)、本土に帰らむと欲ひて、送使を求ぎ請して曰さく、「願はくは後に大国(やまと)に朝らむ。所以に、妻を留めて表とす」とまうす。乃ち数十人と、西海之路に入りぬ。
- (天武)四年の春正月の丙午の朔に、大学寮の諸の学生・陰陽寮・外薬寮及び舎衛の女・堕羅の女・百済王善光・新羅の仕丁等、薬及び珍異しき等物を捧げて進る。
- (西暦654年)夏四月、吐火羅国(とからのくに)の男二人、女二人、舎衛(しゃえ)の女一人、風に会って日向(ひゅうが)に漂着した。
- (657年)秋七月三日、都貨羅国(とからのくに)の男二人、女四人が筑紫に漂着した。「私どもははじめ奄美の島に漂着しました」といった。駅馬を使って都(後飛鳥岡本宮)へ召された。
- (657年7月)十五日に須弥山を像どったものを、飛鳥寺の西に作った。また盂蘭盆会を行われた。夕に都貨羅人に饗を賜った。
- (659年3月)十日、吐火羅の人が、妻の舎衛の婦人と共にやってきた。
- (660年)秋七月十六日、高麗の使人乙相賀取文らは帰途についた。また、都貨羅人乾豆波斯達阿は、本国に帰ろうと思い、送使をお願いしたいと請い、「のち再び日本に来てお仕えしたいと思います。そのしるしに妻を残して参ります」といった。そして十人余りの者と、西海の帰途についた。
- (675年)春一月一日、大学寮の諸学生・陰陽寮・外薬寮および舎衛の女・堕羅の女・百済王善光・新羅の仕丁らが、薬や珍しい物どもを捧げ、天皇にたてまつった。
トカラ国考
日本書紀にいう「トカラ国」の解釈は諸説あるものの、「吐火羅」、「覩貨邏」、「土豁羅」、「吐呼羅」は、いずれも『隋書』・『唐書』など中国の史書において、トカーレスターン(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン及びウズベキスタンに跨る地域)を指す言葉である。
唐僧玄奘が太宗帝の命により編纂した西域諸国の見聞録、『大唐西域記』にも都貨羅国に関して次のような記述がある。
【大唐西域記 巻第一 20・2 覩貨邏国総記】
- 鉄門を出て覩貨邏国(原注 旧に吐火羅という。訛なり)に至る。その地は南北千余里、東西三千余里ある。東はパミールに迫り、西は波剌斯(ペルシア)に接し、南は大雪山あり、北は鉄門に拠っている。アム・ダリヤの大河が国の中ほどを西へ流れている。ここ数百年来、王族は嗣をたち、豪族力をきそいあい、おのおの君主をほしいままに立てている。川に拠り、険に拠り、二十七国に分かれ…(中略)
- 言語進退はやや諸国に異なっている。字のなりたちは二十五言あり、[それが組み合わさって]次第に[語彙・文章が]でき、これを用いて必要に備えている。書は横読みをし、左から右に向かう。記録も漸く多く、ソグドよりもはるかに広まっている。…
トカーレスターンとは「トカラ人の土地」を意味する。原住民のトカラ人はイラン系だったが、古くはバクトリアと呼ばれたこの地は、アレクサンドロスの東征以降、ギリシア文化の影響を色濃く残していた。上記bにもあるとおり、トカラ人は、ギリシア文字を使って自らの言語を記していた。
ところで、7世紀後半のトカーレスターンには、ササン朝ペルシアの亡命政権があった。この時代、この地には、ササン朝の王族をはじめとして、ペルシア人が大挙して押し寄せていた。
西暦642年、ササン朝ペルシアは、イラン高原に侵入してきたアラブ軍をネハーヴァンドで迎え撃ったが、国家の命運を賭けたこの戦いに敗れ、およそ400年間の歴史に幕を閉じた。ササン朝の最後の王、ヤズダギルド3世は、イラン東部を経由して中央アジアに逃れたものの、651年、現トルクメニスタンのメルヴで暗殺された。
ヤズダギルド3世には二人の王子と三人の王女がいたが、このうち、王子ペーローズは、群臣とともにトカレースターン山中に逃れ、帝位の回復と王朝の再興とを図った。
以後の顛末は、中国の史書、『旧唐書』及び『新唐書』に記録がある。
654年、ペーローズ(卑路斯)は、唐の高宗に援助を求めたが、遠方という理由から、軍事援助は得られなかった。その後、彼は、単独で故国に戻ろうとしたものの果たせず、トカーレスターンに留まったが、アラブ軍の侵攻を受け、677年、ついに唐に亡命することとなった。
ペーローズの子、ナルセース(泥涅師)もまたトカーレスターンに20年間留まって、再起を図ったものの果たせず、708年、唐に亡命したが、間もなく病没した。
岩波書店の日本古典文学大系をはじめ、現在の日本書紀には、「トカラ国」を現在のタイ国・メナム河下流域にかつて栄えたドヴァーラヴァティー王国とする注釈が付いており、「トカラ=ドヴァーラヴァティー説」が通説となっている。
日本書紀にいう「或本に云はく堕羅人といふ」の「堕羅」とは、中国史書の「堕和羅、独和羅、堕羅鉢底」(ドヴァーラヴァティー)を指し、同行者の中に、地理的に近い「舎衛」の出身者がいることを考え合わせれば、「吐火羅、都貨羅」もまた「堕和羅」と解すべきというのがその趣旨である。
しかし、そもそも、ドヴァーラヴァティーを表記するために、「堕和羅、独和羅、堕羅鉢底」ではなくて、わざわざ、トカーレスターンを指す「吐火羅、都貨羅」の語で表記したというところからして不可解であり、大きな飛躍があるように思われる。
漂着したトカラ人一行への処遇を考えれば、大和朝廷は、彼らの素性を充分承知していたと考えるべきだろう。それに、日本書紀の書紀たちがドヴァーラヴァティーの国名だけあえて中国の史書と違う表記を用いたり、誤用したとは考えにくい。
『大唐西域記』には、「吐火羅」は「都貨羅」の旧名であるという注が付されている。日本書紀の「トカラ」には、その2種類の表記が両方とも使用されている。「トカラ」がドヴァーラヴァティーなどではなく、トカーレスターン以外の何物でもないことを明言しているように見える。
都貨羅人乾豆波斯達阿
トカラ人たちの首領の名は、「乾豆波斯達阿」である。また、彼は「波斯」(ペルシア、ペルシア人)であったと日本書紀は記している。そして何より、朝廷が、彼らを、ただの異国の漂着民にしては異例とも思える手厚い処遇で迎えたことが目を引くのである。
すなわち、漂着の際は、駅馬で九州から都へと迎えられ、天皇にも一度ならず謁見を許されている。本国への帰還を願い出た折には、送使まで付けて送り出している。外交使節級の待遇といってよいだろう。しかし、トカラ人らは、外交使節らしいところは全く見られず、漂着したという以外に、日本へやって来た理由も不明なのである。となれば、これほどの厚遇を与えられた理由は、トカラ人たちの首領たる乾豆波斯達阿が高貴な家柄の出であったこと以外に考えられない。乾豆波斯達阿が日本を後にして15年後の天武四年正月に、彼の妻である舎衛の女が再び記録に現れる。このとき、共に参内した百済王善光よりも彼女が上位に列せられていることにも注目したい。
トカラ人一行が日本に漂着した7世紀後半、ササン朝ペルシアはすでにアラブによって滅ぼされ、王族、遺臣らは、トカーレスターンに逃れて亡命政権を作った。その頃、トカーレスターンからやってきた異邦人がペルシア人だったならば、それがササン朝関係者である可能性は高い。そして、そうだとしたら、トカーレスターンから彼らがはるばる日本へやって来た理由も理解できる。ササン朝の残党を追って、トカーレスターンにもアラブの軍勢が迫っていた。トカーレスターンが完全にアラブに征服されるのは8世紀前半であるが、もはや、トカーレスターンも彼らにとって安全ではなかったのである。
古代イラン研究者の故 伊藤義教氏によれば、乾豆波斯達阿の「乾豆」はトカーレスターンの地名クンドゥズを指す。そして、「達阿」の達は、本来、「たち、だち」ではなく、「達磨」(だるま)などのように「ダル」音を写したもの。達阿(ダルア)は、中世ペルシアの人名ダーラーイ。つまり、都貨羅人乾豆波斯達阿とは、「トカーレスターンの住人で、クンドゥズにいるペルシア人、ダーラーイ」のことだという。また、書紀の「堕羅」とは、ダーラーイの別表記であり、「堕羅人」は、「ダーラーイ配下の人」を意味する。
伊藤教授によれば、ダーラーイという名は、その由来をアケメネス朝の王ダーラヤワウ(ダレイオス)に遡り、しかも、7世紀頃には、王族以外の者が名乗ることはなかった名だという。
「舎衛」婦人
漂着したトカラ人の中に一人、舎衛の女あるいは舎衛婦人がいた。彼女は、達阿の妻であったと日本書紀は記している。
「舎衛」とは、室羅伐悉底(シュラーヴァスティ)の旧名で、現インドのマヘート、仏典に登場することで有名な「舎衛城」を指すと考えられている。そして、トカラ人一行に舎衛人が同行している点もまた、トカラ=ドヴァーラヴァティー説の補強材料となっているのである。
しかし、井本英一教授が指摘するように、7世紀の舎衛城はすでに荒廃し、宮殿の建物跡が周囲20余里にわたって残るのみであった。
【大唐西域記 巻第六 1・1 室羅伐悉底国】
室羅伐悉底(シラーヴァスティ)国は周囲六千四里ある。都城は荒廃し、境界もはっきりしない。宮殿の建物の跡は周囲20余里ある。荒廃は甚だしいけれども、なお住民がいる。…(中略)伽藍は数百あるが、倒壊したものが非常に多い。僧徒は少なく…(中略)外道の人は甚だ多い…
日本書紀のトカラがトカーレスターンを指すのなら、トカラ人一行の中になぜ、シュラーヴァスティーの女が一人いたのだろうか。仮に、トカラがトカーレスターンではなくてドヴァーラヴァティーであったとしても同じである。当時のシュラーヴァスティーは、驃国の属国であったとされている。トカラ人のグループの中に異国の舎衛人が一人いることの蓋然性は乏しいように思われる。
「舎衛」に関して、驚くべき説を発表したのが、前述の伊藤義教教授である。伊藤教授は、「舎衛」を中世ペルシア語で「王、小王」を意味する「シャーフ」の音写とみる。つまり、「舎衛女」、「舎衛婦人」とは、中世ペルシア語でそれぞれ「王女」、「王妃」を意味する「シャーフ・ドゥクト」、「シャーフ・バーヌーグ」の前半部分を音で表し、後半部分を意訳したものだというのである。そして、達阿(ダーラーイ)こそがシャーフであり、彼の娘である舎衛女が妻舎衛婦人とも書かれているのはゾロアスター教で善行として奨励されていた近親婚を暗示する。さらに、達阿が日本を離れて15年後、天武四年の正月に舎衛婦人と並んで参内する「堕羅女」は、達阿と舎衛婦人との間に生まれた娘であり、彼女を「ダーラーイの娘」を意味する「ダーラーイ・ドゥクト」と名づけた。これは、ササン朝王家では一般的にみられる命名法だという。
もう一つ注目すべきは、井本英一教授の説である。井本教授によれば、トカーレスターンには、「Shawe」(シャーウェ)や「Sawe」(サーウェ)という地名が実在した。11世紀にフェルドウスィーが著した古代イランの民族叙事詩、『シャー・ナーメ(王書)』には、トカラ地方のサーウェの王がササン朝ペルシアのホルミズド王に戦いを挑む場面が描かれているという。
灯明皿
2010年4月9日付けのある新聞記事に、筆者は大いに興味をそそられた。平城京にあった西大寺境内で、奈良時代に遣唐使船で来日した中国人、「皇甫東朝」(こうほとうちょう)の名前が記された須恵器の破片が出土したというものだ。須恵器の破片は、円形で焦げ跡や油の染みが確認されたため、油をためて芯に火を灯した灯明皿とみられるという。
皇甫東朝といえば、天平八年、ペルシア人李密翳と共に遣唐使が連れて来た唐人である。李密翳についてのその後の記述は続日本紀から途絶えるが、皇甫東朝には続きがある。彼は、音楽の素養があったらしく、「雅楽寮員外助兼花苑司正」という官職に任ぜられている。
皇甫東朝の灯明皿のように、いつの日か、李密翳や乾豆波斯達阿らの生きた証が発見されることを願いつつ。