旅の空

ペルシアと奈良

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ペルシアン・グラスの物語 ~結び~
夫婦茶碗

2つの白瑠璃碗

ササン朝ペルシア王の下賜品であったガラス碗がいかなる経緯で古代の日本へ到達し、そして、正倉院へと収蔵されるに至ったか。「ペルシアン・グラスの物語」「ペルシアングラスの物語 その2」「奈良のペルシア人」で書いてきた内容をもとに、正倉院の白瑠璃碗と伝安閑天皇陵出土円形切子碗、2つのペルシアン・グラスが辿った数奇な運命に思いを馳せてみた。以下に記すことは、学説でも何でもなく、あくまで、一素人の勝手な空想に過ぎないことを御承知願いたい。

「奈良のペルシア人」で書いたとおり、「吐火羅」・「都貨羅」が文字通りトカーレスターンを指し、乾豆波斯達阿がペルシア人であったことは日本書紀から読み取ることができる。そして、達阿は、ササン朝ペルシア最後の王ヤズダギルド3世の王子ペーローズと共にトカーレスターンへ逃れたササン朝の王族または貴族であったと思われる。
正倉院御物と伝安閑天皇陵出土、二つの白瑠璃碗を古代日本へもたらしたのは、まさにこの乾豆波斯達阿と妻の舎衛婦人ではなかったか。
かつて、ペルシア王との会食を許された王侯たちに下賜されたというあの円形切子碗。同型の碗は朝鮮半島では出土せず、唐代にペルシアの文物が大流行した中国でさえ2つしか出土していない。しかも、2つの白瑠璃碗は、その瓜二つの出来映えから、同時期に、同じ工房で制作され、同時に渡ってきたと考えられている。そのような特別なガラス碗が日本にあるのは、交易の結果というよりは、原所有者が直接それを携えて来た可能性を考えるべきではないか。
『日本書紀』には、天武四(657)年の正月、達阿の妻、舎衛婦人と(その娘とみられる)堕羅の女が「珍異等物」を時の天武天皇に奉ったとある。乾豆波斯達阿が故国への帰還を願い出てから15年後のことである。彼らが来日したのは、孝徳天皇または斉明天皇の時代だから、代替わりしてもなお、一定の庇護を受けていたであろうことがうかがえる。彼らが高貴の出でないとしたら、これほどの厚遇は考えにくいのだ。そして、舎衛婦人と堕羅の女が天武天皇に献上したという「珍しきものども」。その中に、あの2つの白瑠璃碗が入っていたのではないか。一つは舎衛婦人の持ち物であり、もう一つは、乾豆波斯達阿の形見である。
時が経ち、2つの碗は、天武天皇から聖武天皇へと受け継がれていった。現に、正倉院には、「赤漆文灌木厨子」(せきしつぶんかんぼくのずし)のように、天武帝から6代の天皇に渡って継承された宝物があるのだ。
2つの白瑠璃碗は、西暦752年の東大寺大仏の開眼会にあたり、聖武天皇より寄進されたものではなかろうか。聖武天皇の没後、光明皇太后が東大寺に施入した宝物の中に白瑠璃碗は含まれていない。 2つの碗は、長らく東大寺管理の仏具として、正倉院に保管された。
ところで、正倉院では、公式の記録に残るだけでも3回の盗難事件が起きている。最初は西暦1039(長暦3)年、2回目は1230(寛喜2)年、中でも、3回目の1610(慶長15)年に発覚した盗難事件は最も大がかりなもので、正倉院に3つある倉の中で最重要の宝物を納める北倉が1年8ヶ月にわたって盗難に遭ったという。その3回とも、東大寺の僧侶が犯行に関わっていたというから驚きである。白瑠璃碗も伝安閑天皇陵出土円形切子碗も、元々、正倉院にあったが、伝安閑天皇陵から出土したという碗のみが盗難によって流出したものではないだろうか。流出した方の白瑠璃碗は、その後、伝安閑天皇陵出土という誤った、あるいは、故意に偽った由来が伝えられた。宝物の真の出所を隠すためである。
一方の白瑠璃碗は正倉院にありながら、偶然が重なったか、あるいは意図的に、江戸時代まで開封検査を免れてきた。以来、正倉院を代表する名宝として今日に至っている。

【付録】 ササン朝カットグラス

ササン朝ペルシアで製作されたガラス器の数々。

【円形切子碗】
円形切子碗

[製作]5世紀
[出土地] イラン

【切子碗】
切子碗

[製作] 5~6世紀
[出土地] イラン

【円形切子碗】
円形切子碗

[製作] 6世紀
[出土地] イラン

【二重円圏(形)切子碗】
二重円圏(形)切子碗

[製作] 6世紀
[出土地] イラン

【浮出円形切子碗】
浮出円形切子碗

[製作] 6世紀
[出土地] イラン

【浮出棗(なつめ)型切子碗】
浮出棗型切子碗

[製作] 6世紀
[出土地] イラン