旅の空

追憶のイエメン

3

タイズからアデンへ

この旅行記は2006年当時のものです。
2018年4月末現在、イエメンは内戦状態にあり、全土に退避勧告が発出されています。
タイズの朝  Taiz

イエメンも朝方4時頃のアザーンで一度目が覚める。

早起きして旧市街の散策でもしようと思っていたが、タージ・シャムサン・ホテルの5階にある食堂テラスまで来て考えが変わった。このホテルは、タイズのパノラマを望む絶好のビュー・ポイントでもあったのだ。

何という特異な地形だろう。サビル山系を背に、山塊に沿って東西方向に伸びた町は見渡す限り、山の斜面にまで建物が密集している。コンクリートの建物に交じって、高い尖塔を備えた白亜の古い立派なモスクがいくつも見える。

朝日を浴びるタイズの街(イエメン)|Taiz,Yemen

テラスでそのまましばらく朝日を浴びるタイズの街を眺めていた。

動き始めた街の喧噪があちこちから立ち上っている。

陽射しはまだ強くない。心地良いそよ風が吹いていた。

陽が高くなるにつれ、街の色合いが白く変わってゆく。

朝日を浴びるタイズの街(イエメン)|Taiz,Yemen

今日はタイズ市内を少し観光した後、イエメン第2の港湾都市、アデンを目指してさらに180キロほど南下する。

タイズ(イエメン)|Taiz,Yemen
サビル山  Jabal Sabir

アシュラフィア・モスクは、13世紀から15世紀にかけてイエメンを支配したラスール朝のアシュラフィア王によって建てられた。2本のミナレットを持つ、旧市街の中でひときわ大きいモスクだという。タージ・シャムサン・ホテルのテラスから見ていたモスクに違いない。モスク内部には王とその息子の墓もあり、この街の中心的なモスクとして市民の尊敬を集めているという。

アシュラフィヤ・モスク(イエメン、タイズ)|Taiz,Yemenアシュラフィヤ・モスク(イエメン、タイズ)|Taiz,Yemen

その後、サビル山へ向かう。朝は麓の側から仰ぎ見たタイズを今度は山から見下ろすのだ。標高3千メートル級というサビル山だが、山の上まで道路が通っており、信じられないような急斜面に家々が張り付いている。山の上からの眺めも素晴らしかったが、麓から見たのと同じ町とは思えないほど景色が違って見えた。

サビル山(イエメン、タイズ)|Taiz,Yemen

14世紀頃には、現在の旧市街を囲む城壁が造られたという。アル・カーヒラ城砦もおそらくその当時のものと思う。山塊から突き出た小山の上は、城塞を置くのに適した場所だ。

サビル山(イエメン、タイズ)|Taiz,Yemen

イエメン有数の大富豪と呼ばれる人々の家がいわば山の手にあたるこのサビル山一帯にあるということだ。

アルハウェイミ  al-Huwaymi

アデンへ向かう途中で、アルハウェイミという温泉が湧き出る場所へ立ち寄る。小さな湯舟に浸かっているのは地元民らしき男たちだが、準備が良いことに、我らの運転手も何人かそこに加わった。源泉自体はさほど大したものではなかったが、周囲の景色が非常に印象的だった。

アルハウェイミ(イエメン)|al-Huwaymi,Yemen

サナアから移動してきて、明らかに植生が変わったのがわかる。標高の高い場所から低い場所へ来たことも。

テレビでしか見たことはないが、アフリカのサバンナを思わせる風景だった。

アルハウェイミ(イエメン)|al-Huwaymi,Yemen

アフリカといえば、イエメンと紅海を挟んだ対岸のジブチとは最も近い地点では40キロ足らずの距離でしかないのだ。それに、サナアからイッブ、ジブラと下ってくるにつれ、アラブ系とは明らかに違うアフリカ系の顔立ち、肌の色を見かけるようになる。アフリカ大陸との交流の歴史をうかがわせる。

アルハウェイミ(イエメン)|al-Huwaymi,Yemen

どこから来たのか、子供たちが我々のところへ集まって来る。その中に、おもちゃ売り場によく置いてあるような奇抜な姿のトカゲを売りつけようとする子供がいた。ここでどうしてこんなものを売るのだろうと奇異に感じてよく見ると、その子が持っていた大きなトカゲはおもちゃではなくて本物だった。

アルハウェイミ(イエメン)|al-Huwaymi,Yemen

アデンの手前にはちょっとした砂漠がある。モンスーンの影響でこの砂丘は場所を移動するのだという。イエメンでもこうした典型的な砂の沙漠がどこにでもあるというわけではないようだ。

アデン近くの砂漠(イエメン)|A Desert near Aden,Yemen
アデン  Aden

アデン湾が見えてきた。海水はやや緑がかった青色をしている。アラビア半島の南の端までやって来たのだ。

アデン湾(イエメン)|Aden,Yemenアデン湾(イエメン)|Aden,Yemen

日本で毎日目にしていても、異国で見る海にはやはり心が躍った。

アデン湾(イエメン)|Aden,Yemenアデン湾(イエメン)|Aden,Yemen

イエメン第2の港湾都市アデンは、古代ギリシアの時代から紅海とインド洋とを結ぶ海上交易路の要衝として栄えた。ただ、1990年の南北統一までは共産主義政権である南イエメン(イエメン人民民主共和国)の首都であったこともあり、伝統的な文化や建築はあまり残っていないのだという。今回、イエメンで訪ねた都市の中で最もイスラム色が薄かったのもこのアデンであった。

アデンの街(イエメン)|Aden,Yemenアデンの街(イエメン)|Aden,Yemen

アデン湾に突き出た半島の先端に、アデン・タンクという先史時代から使用されてきた貯水施設がある。半円状に連なる岩山の麓を穿ったもので、かつては18の貯水槽があったらしい。

アデン・タンク(イエメン、アデン)|Aden Tank,Yemen

アデンには他にさしたる名所旧跡があるわけではない。ツアーなどで必ず案内されるであろう他の定番スポットとしては、フランスの詩人ランボーがかつて滞在していたというランボー・ハウスがあるが、正直なところ、詩人ランボーの生涯に興味があるのでなければ、わざわざ見る価値があるとは思えなかった。

ただ、古い街並みを残すサナアやイッブ、タイズとは対照的な、アデンの無機的ともいえる色彩も被写体として面白いと思った。

アデンの街(イエメン)|Aden,Yemen

坂の上からアデンの港を眺めた。地政学的にも重要な位置にあったため、イギリス、オスマン帝国、ポルトガル等々、古代から大国が代わる代わるこの地を支配してきた。

イランもイエメンとは古い因縁がある。6世紀、ササン朝ペルシアのホスロウ1世は、将軍ヴァフリーズを派遣してイエメンを占領、属州にした。南アラビアに侵入してきたエチオピア系のアクスム王国を追い出し、紅海とインド洋とを結ぶ海上交易の覇権を東ローマ帝国の触手から守るためだった。

(ホスロウ1世がイエメンに派遣したペルシアの)将軍および兵士たちは、同地の婦人たちと結婚し、その子孫はこの国土に定着永住するようになった。彼らは後代、イスラム教徒からは、「征服者の息子たち」を意味する「アブナー」の名で知られている。(足利惇氏著「世界の歴史・ペルシア帝国」講談社、P.295)

アデン港の埠頭にも立ち寄ったが、湾にはイエメン海軍の艦船も停泊しているため、沖合方向は撮影禁止である。アデンはサナアやイッブ、ジブラなどに比べれば、同じ国とは思えないほど様相の異なる現代的な都市であった。

シェラトン・ゴールド・モハル  Sheraton Gold Mohur

この日の宿泊はアデンのシェラトン・ゴールド・モハル。イエメンにシェラトンの名の付くホテルがあるとは意外である。

シェラトン・ゴールド・モハル(イエメン、アデン)|Sheraton Gold Mohur in Aden,Yemen

シェラトンというだけあって部屋もアメニティも申し分なかったが、何より素晴らしいのは、ホテルのすぐ目の前が海という立地である。

シェラトン・ゴールド・モハルで見た夕焼け(イエメン、アデン)|Sheraton Gold Mohur, Aden

ホテルのプールで泳いだ後、浜辺に下りて水平線の向うに沈んでゆく夕日を眺める。砂浜では身なりの良い若者たちがビーチバレーに興じていた。一時にせよ、イエメンでリゾート気分が味わえるとはまさに望外の喜びである。

シェラトン・ゴールド・モハルで見た夕焼け(イエメン、アデン)|Sheraton Gold Mohur, Aden

しかし、せっかくシェラトンに泊まるというのに、翌日は朝早い便の飛行機に乗るため、4時に朝食、5時に出発というむごいスケジュールなのであった。