旅の空

追憶のイエメン

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西部山岳地帯

この旅行記は2006年当時のものです。
2018年4月末現在、イエメンは内戦状態にあり、全土に退避勧告が発出されています。
朝のイエメン門  Bab al-Yaman

も早起きして、ホテルのほど近くにあるイエメン門まで散策に出かけた。夕方ほどではないが、イエメン門の周りは活気がある。

門の外はまるで即席の市場のように、地べたに敷いた敷物の上に様々な商品が並んでいたが、中でも服の行商人が多く目についた。くるぶしまで丈のある長い上衣を肩に何枚もかけて道行く人に売っている。湾岸のアラブ人が着るあの白い民族服である。

イエメン門(サナア)|Gate of Yemen,Sana'a

買い物をするつもりは全くなかったのに、そのアラブの民族服を一着まんまと買わされてしまった。とはいえ、まんまと買わされたのも心のどこかでそれを欲しいという気持ちがあったからなのだが。

ホテルへの戻りが出発時間ぎりぎりになってしまい、大いに焦った。

ロック・パレス  Dar al-Hajar

この日はサナア近郊の山岳地帯にある個性的な村をいくつか観光する。イエメンに来て2日目から4日目まで世話になったサナアの運転手たちと再会である。

日本の感覚では考えられないことだが、この日は休日だったからか、運転手の一人が自分の息子を連れて来た。小学校に行くか行かないかという年齢だと思うが、一丁前に小さな背広を羽織り、腰には小さなジャンビーヤを差し、大人のような正装で決めている。どこの国の親も子供は可愛いということであろう。

ワディ・ダハール(イエメン)|Wadi Dahar,Yemenワディ・ダハール(イエメン)|Wadi Dahar,Yemen

サナアから15キロほど北西にあるワディ・ダハールへ向かう。

ロック・パレス(イエメン、ワディ・ダハール)|Rock Palace (Dar al-Hajar) in Wadi Dahar,Yemen

アルカビールという村を過ぎると、やがて、20メートルくらいの高さがありそうな奇岩の上にそびえる高層建築が見えてくる。ロック・パレスと呼ばれ、1962年にイエメン・アラブ共和国(北イエメン)が成立するまでこの地方を支配していた王国の夏の宮殿であったという。

ロック・パレス(イエメン、ワディ・ダハール)|Rock Palace (Dar al-Hajar) in Wadi Dahar,Yemen

この王国の指導者はシーア派の一派であるザイード派を信奉し、イマームと呼ばれていたという。石造りの外観といい、漆喰装飾といい、カマリア窓と呼ばれるステンドグラスといい、実に丁寧な細工が施されている。

ロック・パレス(イエメン、ワディ・ダハール)|Rock Palace (Dar al-Hajar) in Wadi Dahar,Yemen

そして、それ以上に素晴らしかったのがロック・パレスから眺める景観である。周囲を断崖に囲まれたこのワジは樹木の緑で埋め尽くされている。よく見ると断崖の上にも集落がある。

ちなみに、この辺りで採れるカートは高級品とされているらしい。

ワディ・ダハール  Wadi Dahar

ロック・パレスをはるか下に望むワディ・ダハールの高台に上った。広くて平らな高台は周辺住民の憩いの場となっており、たくさんの家族連れが遊びに来ていた。

ワディ・ダハール(イエメン)|Wadi Dahar,Yemen

ここで会った、とても印象に残っている人物がいる。腰巻姿でジャンビーヤを腰に差し、サングラスをした男性である。岩に腰かけてヘッドホンで音楽を聴いていた。とてもいい笑顔で写真に納まってくれた。今日は金曜日、めいめいが思い思いの休日を過ごしている。

ワディ・ダハール(イエメン)|Wadi Dahar,Yemen

行楽の人出を当て込んで、食べ物などを売る店も出ている。

ワディ・ダハール(イエメン)|Wadi Dahar,Yemenワディ・ダハール(イエメン)|Wadi Dahar,Yemen

ジャンビーヤ・ダンスが始まった。ここにはお金をもらって踊る職業ダンサーがいた。ほのぼのとした良さはあるものの、どうも動きが揃わない一般人の踊りと違って、彼らの演舞は精悍そのものだった。

シバーム  Shibam

シバームはワディ・ダハールから30キロほど北西の切り立った断崖の下にある。ハドラマウト地方にあるシバームと同名だが全く別の村である。建物も、ハドラマウトの方が日干しレンガ造りだったのに対し、こちらは石造りだ。

シバーム(イエメン)|Shibam,Yemen

このシバームとこの後に訪ねるコーカバンとは元来、同じ部族の村で、崖下に位置するシバームが農業と商業を、崖上に位置するコーカバンが防衛を担当して助け合う双子のような村だった。

シバーム(イエメン)|Shibam,Yemen
コーカバン  Kawkaban

コーカバンは崖下のシバームより400メートル高い、標高2,800メートルの台地上にできた城砦の村だ。ここも眺めが素晴らしいところである。

コーカバン(イエメン)|Kawkaban,Yemen

兄弟都市であるシバームからコーカバンまでは、今でこそ道路が整備されているが、道路ができる前は急斜面を徒歩で上り下りしていたのだ。その昔、有事になるとシバームの住人は崖上のコーカバンへ逃げ込んだという。

コーカバン(イエメン)|Kawkaban,Yemen

イエメン北部を支配していた旧イエメン王国を支持する王党派と建国したばかりのイエメン・アラブ共和国(北イエメン)との間で内戦が勃発した1962年、コーカバンはエジプトの攻撃を受けたことがあるという。イエメンの現代史にエジプトが登場してくるのが意外だが、エジプトは南イエメンに共和国が成立するまでの過程でも介入していたらしい。考えてみれば、イエメンの歴史とは、古今東西の様々な大国が入れ替わり立ち代わりで干渉を続けた歴史ではないか。

コーカバンから見たシバーム(イエメン)|A View of Shibam from Kawkaban,Yemen

少し前に見てきたシバームが絶壁のような急斜面のはるか下に見えた。ここを行き来する道があるとは信じがたい気がする。

スーラ  Thula

コーカバンの10キロほど北にあるスーラは、オスマン帝国の支配にも屈しなかった山岳部族の村だという。

スーラ(イエメン)|Thula,Yemen

建物の石積みに目を見張る。これまでに行ったイエメンの街でこれほど精巧な切石は見なかった。特に石の小片を組み合わせた円形の装飾が見事だ。

スーラ(イエメン)|Thula,Yemen

実はスーラには日本との意外な縁があるのだ。この村には何と2005年の愛知万博に参加した人がおり、日本語を話せる村人も多いというのだ。

スーラ(イエメン)|Thula,Yemen

路地を歩いていると、愛知万博のイエメン館で働いていたという青年がそのときのIDカードを持ってどこからか現れた。本当は街をもっとよく見たかったのに、日本語を話せるイエメン人という意外さもあって、会話をしながら坂道を上ったが、最後は物を売る話に行き着いたのだった。

イエメンの旅の空

サナアへの帰り道、大きく開けた場所で車を停めた。

視界を遮るものが何もない大空に綿雲がたくさん浮かんでいる。街や風景や人の暮らしは違っても、雲の形は日本と変わらない。

イエメンで見た空|Yemenイエメンで見た空|Yemen

もうすぐこの旅も終わる。漂う雲を見てそう思った。このときの空はきっと忘れないと思う。