旅の空

イランの旅 2007

ハメダーン、ケルマーンシャー

ブー・アリー・スィーナー廟  Aramgah-e Bu 'Ali Sina

一晩ぐっすり眠って爽やかな目覚めだった。体調も回復して、今日が旅の始まりだという気がする。ようやく旅への期待感がわいてきた。

最初に向かったのが、ブー・アリー・スィーナー廟。廟の建物はコンクリート製だが、中に、アヴィケンナという名前で中世ヨーロッパにも知られた医学者の棺がある。
ハメダーンブー・アリー・スィーナー廟Aramgah-e Bu 'Ali Sina

エマーム・ホメイニー広場  Meydan-e Emam Khomeyni

ハメダーンは、エマーム・ホメイニー広場を中心に道路や街が同心円状に広がっている。開放感あふれる広場で、人も車もひっきりなしに行きかっていた。
エステルとモルデハーイの廟へ行く途中、道を歩いていると、突然、日本語が飛んできた。声の主は、電気製品の修理をしている店の男性だった。聞くと、静岡県の磐田郡にいたことがあるという。ハメダーンの街へ繰り出して早々に日本語使いに出くわすとは。
ハメダーン:エマーム・ホメイニー広場Hamedan:Meydan-e Emam Khomeyniハメダーン:エマーム・ホメイニー広場

エステルとモルデハーイの廟  Aramgah-e Ester-o Mordekhay

エステルとモルデハーイは、旧約聖書に登場するユダヤ人の名である。エステルは、アケメネス朝ペルシアの王クセルクセスの妃、モルデハーイは彼女の伯父である。二人に関しては、帝国内のユダヤ人を虐殺の陰謀から救ったという逸話が伝わっていて、この廟はイランで最も重要なユダヤ人の聖地になっているという。

… シュシャン城にユダヤ人のある人がおり、その名をモルデカイといって、ベニヤミン人キシュの子シムイの子ヤイルの子であった。
このキシュは、バビロンの王ネブカドネザルが捕らえて流刑に処したユダの王 … と共にエルサレムから捕らわれて流刑にされた者であった。
そして、モルデカイは、ハダサ、すなわち彼の父の兄弟の娘エステルの養育者となった。彼女には父も母もいなかったからである。 …
 ~ 旧約聖書『エステル記』2:5‐7

イランは、実は、ユダヤ人にとって非常に縁ある国だ。バビロン捕囚のユダヤ人を解放したのはアケメネス朝のキュロス大王、旧約聖書『ダニエル記』にはダレイオス1世が登場する。
そんな由緒正しき霊廟だが、思ったより小さな建物だった。特に内部は、棺を納める最小限の空間があるだけだ。内部の写真撮影は禁止だった。
廟を案内してくれた年配の男性はユダヤ人であった。ムスリムを警戒しているかと思ったが、見学に訪れた大勢のイラン人たちとも和やかに接しているし、とげとげしい雰囲気は全く感じられなかった。国際政治でのイランとイスラエルの対立を考えると意外だった。イランは、国家と人種の話をきちんと切り分けられる国らしい。その冷静さ、柔軟性は大したものだと思う。
しかし、その案内人が言うには、ハメダーンにいるユダヤ人は、彼が知る限りでは15人にまで減ってしまったという。
エステルとモルデハーイの廟Aramgah-e Ester-o Mordekhay

ゴンバデ・アラヴィヤーン  Gonbad-e 'Alaviyan

次に向かったのが、11世紀の当地の名門、アラヴィー家の霊廟である。実は、一応行ってみただけで、全く期待していなかったのだが、思っていたより立派な建物で感銘を受けた。かなり傷んではいるが、外壁、内壁とも技巧を凝らした装飾だ。
訪れた時、廟の敷地内は工事中で、廟の真正面に工事で使う土が盛ってあった。土を盛る位置にもう少し配慮があるともっとよかった。
ゴンバデ・アラヴィヤーンGonbad-e 'Alaviyanゴンバデ・アラヴィヤーン

エクバタナの丘  Tappe-ye Hekmatane

エクバタナは、かつて、アケメネス朝からパルティアにかけて夏の都として栄えた、非常に古い町だ。
ここには、石像だとか円柱といった華やかな遺物はない。レンガ積みの壁や基礎が残るだけだ。
しかし、分厚い土に埋もれた古代の街の跡からは、かつてそこに暮らした人の息吹が今でも感じられるような気がして、妙に生々しかった。
エクバタナの丘Tappe-ye Hekmataneエクバタナの丘

ギャンジ・ナーメ  Ganj-name

ギャンジ・ナーメは、ハメダーン郊外、アルヴァンド山中にある風光明媚な渓谷である。"ganj-name"の意味は、「財宝の隠し場所を記した文書」であるが、ここには、アケメネス朝ペルシアの王、ダレイオス1世とその息子、クセルクセスが残した碑文がある。楔形文字を解読する手がかりともなった有名な碑文だ。
参道に沿って、屋台がずらりと軒を連ね、大勢の観光客を相手に、土産物などを売っていた。また、周囲は、キャンプ場のようになっていて、大勢の家族連れがテントを張ったり、バーベキューをしていた。イランの色々な場所を訪ねてつくづく思うことだが、イラン人のキャンプ好きは相当なものである。一世帯あたりのテント普及率という指標がもしあったとしたら、間違いなくイランは世界のトップ10に入るだろう。
ギャンジ・ナーメGanj-nameギャンジ・ナーメ
Ganj-nameギャンジ・ナーメ
碑文は、巨大な一枚岩に彫ってある。というより、このあたり一帯、山肌から谷間まで巨大な岩があちこちに転がっている。碑文は、写真で見るよりはるかに迫力があった。楔型文字も非常にくっきりと残っている。ちなみに、イランでは「釘文字」というらしい。

ギャンジ・ナーメ楔形文字碑文
碑文を通り過ぎて、さらに奥へ進むと美しい滝が見えてくる。滝壺近くには、大勢の人が涼みに来ている。こんなに平和で心安らぐ風景が日本にもあっただろうかと思った。清々しい空気、山の緑、清らかな流れとせせらぎ…、アケメネス朝の王は、この特別な場所を選んで、あの碑文を刻ませたに違いない。
ギャンジ・ナーメGanj-nameギャンジ・ナーメ
Ganj-nameギャンジ・ナーメGanj-name

レストランにて

ギャンジ・ナーメのすぐ近くにあるレストランで昼食をとった。屋外だが、場所全体が木陰になっていて涼しい。ベッドのような大きな台の上に座る。ここも非常に気持ちの良い場所で、離れがたかった。隣にいた家族連れの小学校高学年ぐらいの女の子が外国人の僕に興味をもったらしく、しきりにこちらを見ている。しまいには、ガイドのレザーさんに僕のことを質問していた。
ギャンジ・ナーメのレストランギャンジ・ナーメのレストランギャンジ・ナーメのレストラン

カルバラーへの道  Rah-e Karbala

今日はケルマーンシャーまで行く行程だ。早くも、予定を詰め込みすぎた気がしてきた。途中、パルティアの神殿跡が残るキャンガーヴァルを見学する予定だったが、道路から外観を少し眺めただけで、写真も撮らずに立ち去ってしまった。後から思えば、痛恨の取りこぼしである。先へ進まなければ…という気持ちが強すぎた。
広大な畑と荒野とが入れ替わり立ち替わり広がる。道路沿いには、ところどころ、「Karbala ○○km」という道路標識が立っている。シーア派の聖地キャルバラー(カルバラー)のことだ。この道は、イラクへと続いている。
レザーさんの礼拝のため、どこかの峠の名もないようなモスクへ立ち寄った。

ビーソトゥーン  Bisotun

ビーソトゥーンもまた、楔形文字の解読に重要な役割を果たした「ベヒスタン碑文」がある場所だ。しかし、行ってみると、肝心の碑文ははるか高い所に彫ってあるので、望遠レンズが欲しいくらいの大きさにしか見えない。しかし、なんといっても、その碑文が彫られた、とてつもなく巨大な垂直の岩壁が圧巻である。
あまりの高さに、岩壁から500mくらい先まですっぽりと日陰に入ってしまっている。
ビーソトゥーンビーソトゥーンBisotun

ケルマーンシャーへ

ケルマーンシャーへ近づくにつれ、だんだん、道路の両脇に大きな岩山が迫って来た。まるで、ビーソトゥーンの岩壁が続いているかのようだ。目を見張るような光景がしばらく続く。

ターゲ・ボスターン  Taq-e Bostan

最後に向かったのはターゲ・ボスターン(楽園のアーチ)、7世紀、ササン朝ペルシアの儀式的建造物である。
今日のハイライトと呼ぶにふさわしい、素晴らしい遺跡だった。
ターゲ・ボスターンターク・イ・ブスタンTaq-e Bostan
天使、王と神々、王の騎馬像、狩猟図、唐草文など、壁面は、見事なレリーフで埋め尽くされていた。特に素晴らしいのは、帝王狩猟図だ。獲物を狙って弓を構える王、逃げまどう動物たち、居並ぶ群臣、楽団などが壁一面に、躍動感一杯に描かれている。ササン朝ペルシアには象の部隊があったことがレリーフからわかる。
ちなみに、レリーフに描かれたような王専用の囲い付き狩猟場は、古代ペルシア語で「パリダイザ」と呼ばれ、それがさらに「パラディス」へと変化して、「パラダイス」の語源になったという。狩る側にとっては天国でも、狩られる側にとっては地獄だった。

クルド人一家が遺跡見学に来ていた。クルド人男性の中には、黒いダボダボのズボンをはいている人が多い。ケルマーンシャーはコルデスターン(クルディスタン)に近いだけあって、クルド人が多いという。
ターゲ・ボスターンTaq-e Bostanパルメット(忍冬唐草文)

ケルマーンシャー市内のホテルにチェックインしたのは暗くなってからだった。