旅の空

イランの旅 2007

ザンジャーンからタブリーズへ

ザンジャーン、3日目の朝

朝7時頃、朝食をとるためホテル1階のレストランへ下りて行ったら、男性従業員が一人、ホテルの玄関で毛布を敷いて寝ていた。挨拶をしたら、きまりが悪そうに体を起こした。わざわざそんな妙な場所で寝なくてもよさそうなものだが、彼は門番だったのかもしれない。扉の近くで寝ていれば、真夜中に不意の来客があってもすぐに気付くだろうから。
レストランに入ると、チャドルを被った若いウェイトレスが済まなそうな顔をしてこちらにやってくる。ナーンがないのでしばらく待ってほしい、と。一旦、部屋に戻って出直そうとしたら、それには及ばないと身振りで教えてくれた。15分くらいして彼女が持ってきてくれたのは、焼き立てで香ばしくてとびきり美味しいバルバリー(厚めのナーン)だった。

ザンジャーンのナイフ

タブリーズへ移動する前に、昨日、小さなナイフを買った店へもう一度行くことにした。ザンジャーンは刃物で有名な町なので、通りには刃物の店がいくつも並んでいる。昨日、ナイフを買った店は、店主自ら職人で、一つ一つ手作りで仕上げるのだという。
昨日、店頭で見せられたナイフの中で、どうしても気になるものがあった。昨日は買いたいとまでは思わなかったのに、時間が経つにつれ、だんだん欲しくなっていったのだ。特に、ナイフを集めたりする趣味はなかったのだけれども。
値段は65万リアル、日本円で8千円くらい。折り畳み式で、刃には店主の銘入り、柄は山羊の角の削り出しである(小さい方の柄はプラスチック)。出来の割に安いと思った。イラン人の造形センスはこういうところにも表れると思う。
いよいよ、ザンジャーンともお別れだ。地味ではあるけれど、小奇麗で好感が持てる町だった。
ザンジャーン:職人の手作りナイフザンジャーン

タブリーズへ

再び、移動の日々が始まった。
ザンジャーンからタブリーズへは、レザーさんの提案で、高速道路ではなく、一般道を使った。
周囲の眺めは、緑の多い農作地帯から荒々しい岩山の間を縫うように、また、なだらかな山肌が連なる丘陵地帯へと目まぐるしく変わった。

ポレ・ドフタル  Pol-e Dokhtar

ポレ・ドフタルという昔の橋の跡で車を停める。橋は中央で分断されている。昔、イランに侵入してきたソビエト軍が破壊したのだという。レンガ造りのこの橋が、どの時代に造られたものかはわからなかったが、相当、堅固な造りである。周囲の風景ともども素晴らしい眺めだった。
ポレ・ドフタルPol-e Dokhtarポレ・ドフタル
橋のたもとにある、同じ名前のドライブインで昼食をとった。羊肉とジャガイモ、ヒヨコ豆をトマトベースのソースで煮込んだホレイシュ(シチューの類)が絶品だった。イランのレストランで出される食事の量は、大抵、日本人にとって多いのだが、ここではお代わりをしたほどである。イランに来て以来、食傷気味となっているスーペ・ジョウ(大麦のスープ)からして、他のレストランと味が全然違った。
レザーさんの話では、トラックの運転手が集まる店は食事が美味しいのだという。理由は、毎日、外食をするトラック運転手は、食事のまずい店になど行かないから。道理である。
その言葉どおり、このドライブインの駐車場にはトラックがたくさん止まっていた。はるばるトルコから自動車を積んでやってきた大型トラックもある。実際、トルコからやってくるトラックは多いという。
実は、同じイランでも、ザンジャーンから西の地域では、人種的にはアーザリーと呼ばれるアゼルバイジャン系トルコ人が多数派であり、日常会話もトルコ語であるという。聞いてみれば、ガイドのレザーさんもトルコ系の出だった。ただし、国境を接しているとはいえ、トルコのトルコ語とは語彙がかなり異なるようである。
トルコ旅行の時に覚えた片言のトルコ語がどれだけ通じるのか、レザーさん相手に試してみたが、挨拶からして全く違っていた。ただ、少なくとも、代名詞や数字は同じらしい。トルコ系同士なら少々言葉が違っても、意思疎通を図る上で支障はないのかもしれない。

タブリーズ  Tabriz

イール・ゴリー公園タブリーズの個人的な印象を言えば、「赤い街」である。コンクリート造りの高層建築が赤い色の山肌を背に建っている。タブリーズは、イランの中でも特に裕福な街で、人々は勤勉、家族を大事にし、離婚率も低いのだとか。街の通りは、イラン風というより、ヨーロッパ風である。通りの店構えも、きれいで羽振りが良い印象を受ける。
今日は移動日のつもりでいたから、特にこれといった予定を組んでいない。とりあえず、市の外れにあるイール・ゴリー公園へ行ってみた。中央に広い池のある大きな公園だ。たくさんの家族連れが涼みに来ていた。公園の中で外国人は僕一人のようだ。すれ違いざま、珍しげに振り向かれたりする。しばらく、チャイハネでお茶を飲みながら時間をつぶした。

マスジェデ・キャブード  Masjed-e Kabud

市の中心部に戻って、ブルー・モスクの異名を持つマスジェデ・キャブードへ。名前の由来となった青いタイルは、ほとんど落ちてしまっているが、土色の建物やドームは堂々として立派である。
マスジェデ・キャブードMasjed-e Kabud

アルゲ・タブリーズ  Arg-e Tabriz

アルゲ・タブリーズは、イル・ハーン朝時代の城塞跡だという。地震などで倒壊し、今や建物のごく一部がわずかに残るのみだが、それでも充分、巨大である。近づいて見上げればその高さと重量感に圧倒される。
その横で、アルゲ・タブリーズをも圧倒するような、とてつもない大きさのモスクを建造中であった。周囲は、アルゲ・タブリーズの足元まで建築資材置場へとなり変わり、この巨大モスクが完成した暁には、アルゲ・タブリーズの存在感はすっかり脇へと押しやられてしまうに違いない。哀れである。
タブリーズArg-e Tabriz

皿ケバブ  Kabab-e Tave'i

Kabab-e Tave'i夕食は、タブリーズの名物料理、「皿ケバブ」である。挽肉のケバブとトマトを窯で焼き、それを、同じく店の奥の窯で焼きあがったばかりのナーンにくるんで食べる。これまた絶品だった。普段は敬遠しがちな塩味のヨーグルト飲料、ドゥーグまで、このときほど美味しいと思ったことはなかった。

タブリーズの夜

店を出る頃、辺りはすっかり暗くなっていた。先ほど行ったばかりのマスジェデ・キャブードは、きれいにライトアップされている。
マスジェデ・キャブードMasjed-e Kabud
帰り道、通りの様相は一変していた。明るい間は一体どこにこれだけの人がいたのかと思うくらい、人でごった返していた。見覚えのある光景である。夜になった途端、人がどっと外に繰り出すのは、ここタブリーズでも同じだ。
ホテルの庭では、正装した大勢の老若男女がテーブルについて、何かのパーティーを開いていた。音楽が聞こえてくる。結婚披露宴だろうか。11時を過ぎても飲み食いは続いていた。つくづく、夜更かしな国民である。
タブリーズTabriz