旅の空

イランの旅 2007

オルーミーエ、キャンドヴァーン

オルーミーエ  Orumie

Orumie:Sahel Hotel朝、ホテルの周りを少し歩く。昨日、到着したときにはもう真っ暗だったので、どういう場所なのか皆目見当がつかなかったが、明るい雰囲気の町だったので安心した。
ガラ・ケリーサーの高原風情とは打って変って、南の、しかも標高の低い場所に来たことを感じる。日射が強く、外を歩けば熱気に包まれる。
今日は、オルーミーエ旧市内の見どころをいくつか回った後、オルーミーエ湖を渡ってキャンドヴァーンに立ち寄り、またタブリーズに戻る計画だ。

セ・ゴンバド  Se Gonbad

いつ、誰のために造られたのかは知らないが、墓塔である。「セ(3つの)」という名の理由は、この塔が上下3層構造になっていることによるらしい。
実は、来るまでは全く期待していなかった場所だ。省略してもよいとさえ思っていた。しかし、行って見ると、小さいが思いのほか素晴らしい建造物だった。丸い塔全体に、レンガで美しい模様を施している。正面の彫刻も繊細で見事だ。表現が変かもしれないが、食欲を刺激する色と形である。つい最近、修復を完了したようで、新品のようにきれいだった。
セ・ゴンバドSe Gonbadセ・ゴンバド

バザール  Bazar-e Orumie

かなり歴史のあるバザールらしい。規模も活気もタブリーズと比べることはできないけれど、独特の雰囲気がある。入口のところで、若い男数人が僕を見つけて、英語で話かけてきた。やはり、この町に来る外国人は珍しいのだろう。
オルーミーエのバザールBazar-e Orumieオルーミーエのバザール

マスジェデ・ジャーメ (ジャーメ・モスク)  Masjed-e Jame

バザールの通りを抜けた少し先の区画にマスジェデ・ジャーメがある。
オルーミーエのマスジェデ・ジャーメは、イランに数あるモスクの中でも、最古の部類に属するものではないかと思う。このドームにはササン朝建築の影響があるだろうか。
このモスクには、外壁にもドームにも装飾が一切ない。モスクには欠かせないはずのミナレット(尖塔)も見た覚えがない。ただ、もしかしたら、門の上にお立ち台状のものが付いていたかもしれない。
このモスクは今でも学校として使用されており、政府の管理下ではないということで、内部の見学はできなかった。
オルーミーエ:マスジェデ・ジャーメOrumie:Masjed-e Jameオルミエ:ジャーメ・モスク

聖マリア教会  Kelisa-ye Nane Maryam-e Moqaddas

オルーミーエ市内見物の最後に、聖マリア教会というアッシリア教会を訪れた。アッシリア教会とは、西暦431年のエフェソス公会議において異端宣告を受けたネストリウス派の流れをくむ宗派である。ガイドブックなどでこの教会の存在は知っていたものの、実際に目の当たりにすると、この古代キリスト教の一宗派が、イランの地で今なお生き延びていることに感銘を受ける。
聖マリア教会:オルーミーエKelisa-ye Nane Maryam-e Moqaddasアラム語の銘板
ネストリウス派は、ローマ帝国では追放の憂き目に遭ったが、ササン朝ペルシアではかえって保護を受け、ササン朝領内で独自の教会組織を確立するまでに至った。さらに、東方への勢力拡大を図った結果、『大秦景教流行中国碑』で知られるように、7世紀の中国にも「景教」として伝わっている。しかも、中国に景教を伝えたのは「阿羅本」というペルシア人であったという。
教会の建物自体は比較的近年に造られたものだ。コンクリート造りとレンガ造りの建物が2棟並んでいたが、我々が入ることができたのはレンガ造りの方である。壁におそらくアラム語の銘板があった。
聖マリア教会:オルーミーエのアッシリア教会Kelisa-ye Nane Maryam-e Moqaddas聖マリア教会の祭壇:オルーミーエ
イスラム共和国を標榜しながらも、この国は、ゾロアスター教、ユダヤ教、アルメニア教会、アッシリア教会といった、ローマ・カトリック世界からいわば異端の烙印を押された古い宗派を曲がりなりにも保護してきた。この事実はもっと注目されてよいのではないだろうか。

ガソリン配給の件

オルーミーエ湖へ行く前に市内で給油を済ませた。懸念された(?)ガソリン問題についてここで触れておきたい。
前述したとおり、旅行に来る少し前、イランではガソリンの配給制が決まった。配給量は1人月100リットルだったと思う。
仮に、車の燃費をリッター10kmとしても、2週間で少なくとも2千km以上を走破する今回の行程では到底、足りるはずがない。配給量を超えたガソリンが果たして手に入るのか心配したが、それは全くの杞憂であった。
実は、配給制とはいっても、公認のタクシー運転手に対しては別枠があり、それが抜け穴となっていたのだ。ドライバー兼ガイドのレザー氏が行く先々の町で行っていたガソリン調達法は次のとおり。
1.通りやロータリーで客待ちのタクシー運転手を探す。
2.そのタクシー運転手から、現在、車を使っていない(修理中あるいは休業中)同僚の情報を仕入れる。不思議と、どの町にもそうした運転手が必ずいるのである。
3.紹介されたタクシー運転手と連絡を取り、彼を乗せてガソリンスタンドへ。
4.タクシー運転手の給油カードで給油。
5.タクシー運転手に金を渡し、指示された場所まで彼を送り届ける。
タクシー運転手に支払う金には当然、マージンが上乗せされているはずである。「休業中」のタクシー運転手には良い稼ぎだろう。イランでは、人脈と交渉がモノをいうのだ。

オルーミーエ湖横断  Daryache-ye Orumie

非常に大きな湖が見えてきた。今までに見たどんな湖とも似ていない。
この湖は塩湖だという。見渡すと、水面にぷかぷかと浮いている人たちがまばらにいた。写真でしか見たことはないが、死海でお馴染みの光景だ。塩分の濃い湖水を利用した治療も行われているらしい。
奇妙な光景だった。湖岸がずっと白く縁取りされている。強烈な直射日光にさらされて、水が蒸発し、湖岸の石に塩が残る。それが、さらに太陽の直射でこびりつき、石と完全に同化していた。生き物などいるはずがないと思ったが、小さなエビのようなものが水中を泳いでいた。
オルーミーエ湖Daryache-ye Orumieオルミエ湖
湖を横断する道路の中央部分が未完成だったので、その区間はカーフェリーを利用しなければならない。我々が着いたときには、すでにフェリー待ちの車で長い行列ができていた。車の列は、時々、思い出したかのように、ほんのわずかな距離を進むだけで、我々の後ろの車列は長くなる一方だ。行列がほとんど動かない上、エアコンを効かせていても車内はかえって暑いので、外に出た。
フェリー待ちの時間、外は太陽がじりじりと照りつける。周りは湖、下はアスファルトの路面なので照り返しも結構きつい。我々の前は、アイスクリーム会社の輸送トラックだった。トラックの大きな影に入って日差しを避ける。トラックの運転手とレザーさんはフェリー待ちの間、ずっと何やら話をしていた。のどが渇いた頃にアイスクリーム売りが行列の車を巡って歩いて来る。商売上手である。我々は3人でスイカをほおばる。
Daryache-ye Orumieオルーミーエ湖:フェリーの上でウルミエ湖:フェリーの上で
ようやくフェリーの順番が回ってきたのは、およそ2時間も後のことだった。それでも、待ち時間を入れてもなお、湖を迂回するよりはフェリーを使う方が早いのだという。
船の上で若い男が英語で話しかけてきて、菓子をくれた。弾き語りの芸人も乗っていた。アイスクリーム会社の運転手とも船上で会った彼らとも、フェリーの待ち時間があったから生まれた出会いだった。

キャンドヴァーン  Kandvan

昼食にありついたのは4時過ぎである。フェリーの待ち時間があれほど長かったのは誤算だった。
オルーミーエ湖を過ぎ、道は次第に標高を上げてゆく。小さな山村をいくつか通り過ぎた。途中、大音量で音楽をかけて踊って大はしゃぎしている車があった。よく見ると、若い女性ばかりの4人組だった。
キャンドヴァーン村に着いたのは6時頃だった。といっても、夏のイランではまだ夕方という感じのしない明るい時間帯である。観光客もまだ大勢いた。見たところ、外国人はただ一人だけだったが。
キャンドヴァーン村Kandvanキャンドヴァーン
キャンドヴァーン村は、トルコのカッパドキア同様、奇妙な形をした石灰岩をくりぬいた家々に住人が住んでいる。ミニ・カッパドキアといってしまえばそれまでだが、奇観には違いない。それに、ここはカッパドキアよりも原始的な感じがする。住居の中も見せてもらったが、夏は涼しく、冬は暖かいのだという。
キャンドヴァーンは、イラン人にとっても有名な観光地で、通りには土産物屋がたくさん並んでいる。食べ物が多いようだ。近くには、名水の湧く場所があって、大勢の人がペットボトルに水を汲んでいく。たしかに、市販のミネラルウォーターより美味しいと思った。
キャンドヴァーン村Kandvanキャンドヴァーン:住居内部
エスファハーンの高校で物理学の教師をしているという男性に会った。奥さんと子供2人を連れ、はるばる車でやって来たという。どうしてイランに興味を持ったか、今までどんな町に行ったか、イランについてどう思うか、などなど英語でしばらく立ち話した。そんな彼が、「来週、エスファハーンの私の自宅に是非招待したい」と真顔で言う。さすがに、ここから千キロも離れている上、行程から大きくはずれるので丁重にお断りしたが、心遣いはうれしかった。

再びタブリーズ  Tabriz

大回りしてタブリーズに戻ってきた。妙な気分である。時間があれば、また絨毯バザールに行こうと思っていたが、到着があまりに遅くなりすぎた。夜のタブリーズは、相変わらず、人と車であふれかえっていた。