旅の空

イランの旅 2009

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ペルシアと奈良と大統領選挙と騒乱

ペルシアと奈良

2009年の夏休みの行先は、3度目のイランと少し前から決めていた。そのきっかけとなったのが奈良への旅行だ。
奈良・東大寺の付属倉庫であった正倉院は、8世紀に天皇の遺品が奉納されて以降、千年以上にわたって、歴代天皇をはじめとする権力者たちの宝物庫として、膨大な数の宝物を収蔵してきた。
毎年、10月下旬から11月中旬にかけて、その所蔵品の一部を特別公開する『正倉院展』が奈良国立博物館で開催されている。2008年の正倉院展では、あの有名なササン朝ペルシア伝来のカットグラス、「白瑠璃碗」が13年ぶりに出典されるというので、高校の修学旅行以来となる奈良を久々に訪れた。
実物で見る碗は、写真で見た印象や想像をはるかに超える素晴らしさだった。ショーケースの中で、白瑠璃碗は、照明の光を反射して宝石のような輝きを放っていた。これがただのガラスでできているとは、そして、千年以上も前に作られたものだとは到底信じられなかった。(参照:「ペルシアと奈良:正倉院御物「白瑠璃碗」
そして、ほぼ20年ぶりに訪れた法隆寺や東大寺。境内のあちこちを見て回るうち、なぜかペルセポリスが思い出されて仕方がなかった。
白瑠璃碗がイラン熱を再び呼び起こした。

大統領選挙と騒乱

旅行の約2ヶ月前、2009年6月12月はイラン大統領選挙の日であった。現職のアハマディーネジャード大統領はイラン国民の間でも不人気とみられ、対立候補で改革派と目されたムーサヴィー候補が勝利するというのが大方の予想だった。
しかし、ふたを開けてみれば、現職アハマディーネジャード大統領の圧勝である。当局による不正な票操作さえ取り沙汰される中、選挙結果に怒った夥しい数の市民が繰り出して通りを埋め尽くし、シュプレヒコールを上げ始めた。
テレビのニュースや動画投稿サイト「YouTube」に流れる映像を、連日、信じられない思いで見つめた。道路の真ん中でバスが炎上し、路面には壊れた鉄柵や瓦礫が散乱している。映像の向こうには、僕が知っているテヘランの街並みとはかけ離れた、まるで内戦状態の国のような光景が広がっていた。そして、デモの参加者たちは、言論の自由が必ずしも保証されないこの国で、「マルグ・バル・ディクタトール!」(独裁者に死を!)と口々に叫んで道路を練り歩いている。
YouTubeには、生々しい、ショッキングな動画も次々と投稿されるようになった。治安部隊やバスィージと呼ばれる民兵が放った銃弾で命を落とした人たちの映像だ。中でもショッキングだったのは、ネダー・アーガーソルターンという女性を写した動画だった。
その映像は、道路に倒れ込んだジーンズ姿の若い女性を周囲の人々が介抱する場面から始まる。彼女の目は見開いたまま一点を凝視し、閉じた口から血があふれ出る。僕は二度とこれらの映像を見ることができない。
イラン政府もこのような映像が外部に流出するとは予想しなかったのではないか。このインターネットの時代に情報統制など不可能なのだということを見せつけられた。

収束へ

一時は体制をも動かすかに見えたデモだが、精鋭部隊である革命防衛隊が鎮圧に乗り出す構えを見せ始めた頃から勢いが衰えていったように思う。やはり、革命などそう簡単には起こるものではないのだ。何しろ、鎮圧する側には充分な武器があり、それを使うことにためらいがないのだから。
その後、小規模なデモが散発的に続いたものの、全て鎮圧された。そして、しばらくすると、テヘランの街はすっかり平常を取り戻したようだった。
非常に悩ましい事態に陥った。こんな流血事件が起きた後に、まるで何事もなかったかのように観光旅行などできようか、と思った。収まったとはいえ、デモ隊と治安部隊との衝突が再発する可能性は捨てきれず、安全面の懸念もある。一時は、旅行を断念する方向へと傾いた。
しかし、日数が経つにつれ、やっぱり行きたくなる。航空券やビザの手配もあるので、行くのならある時期までに決断しなければいけない。参考までに、イランへのパッケージツアーを扱う旅行会社にデモ以降のツアー催行状況を尋ねたところ、意外にも、全て問題なく催行されているという。団体ツアーが催行されるか否かはその国の安全度を計る大きな目安になる。
行けるんじゃないか? 葛藤の末、結局、行きたい気持ちが勝った。

3度目のイラン

今回は、7日間の短い休みなので、一箇所に滞在してそこをじっくりと見て回るスタイルにした。週2便しかないイラン航空は残念ながら日程が合わず、エミレーツ航空を使うことになった。ドバイからテヘランへの乗継便の接続も割と良く、待ち時間は3時間ほどだが、関西空港を離陸するのが深夜なので、移動だけで1日半がかり。7日間とはいうものの、正味4日間である。
今回の旅では、シーラーズに連泊して、周辺のビーシャープールやフィールーザーバードといったササン朝ペルシアの遺跡に足を伸ばすつもりだ。これらの遺跡は、シーラーズから100kmほどの郊外にあり、普通のパッケージツアーではまず立ち寄ることはない。初めてイランを訪れた2004年よりもずっと前に僕はこれらの遺跡を知っていた。念願の場所だったのだ。

ラマダン

今回、大統領選後の騒乱に加えてもう一つ誤算だったのはラマダンであった。
イスラム暦は太陰暦なので、ラマダン月は毎年、10日ぐらい前にずれてゆく。2009年あたりから、ラマダン月がちょうど夏休み時期と重なる巡り合わせであった。
僕はどういうわけか、2009年のラマダン月の始まりを8月26日と勘違いしていた。旅の日程は8月20日から26日で、ラマダンをうまく避けたつもりが、実際は、到着翌日の8月22日からラマダンに突入した。蛇足だが、イランのラマダン入りは、例年、周辺のイスラム諸国より1日遅いらしい。
ラマダン中、敬虔なムスリムは、日の出から日没までの間、水や食べ物を一切口にしない。もちろん、ムスリムでない我々がそれに従う必要はないが、なにしろ、イスラム共和国を標榜する国のことである。ラマダンの時期、ほとんどのレストランやチャイハネが日中の営業をしないという話なので、朝食や夕食はいいとして、外出先で昼食にありつけないのではないかと心配した。
旅が終わってみれば、それは杞憂であった。たしかに、日中は街のほとんどのレストランが閉まるが、ホテル内のレストランは大概、開いている。それに、ムスリムであってもラマダン中の断食を免除される人や、そもそも断食をする意思がない人もいる。そういう人たちのために、どこかしら、営業している店があるものなのだ。外国人を案内するガイドであれば当然、そういう店を知っているわけで、昼食に事欠くようなことは全くなかった。
イランでは、たとえムスリムであっても、断食を誰かに強要されることはなく、するかしないはあくまで個人の信仰に委ねられているという印象を受けた。ラマダンの日中に営業するレストランでは、新聞紙などで窓に目張りをして、外から内部が見えないようにしてある。断食をする人、しない人、双方の立場が尊重されているように思う。
また、エジプトなどと違って、ラマダン中だからといって遺跡や博物館が特別に早く閉まるということもなく、観光面だけで言えば全く影響がなかった。
でも、ラマダン中のイラン旅行を勧めるかともし聞かれれば、行く時期を選べるのなら避けたほうがいいと答えるだろう。理由の一つは、旅の大事な楽しみでもある飲食がどうしても不便になること。たとえランチを食べそびれることはないにしても、街角のジュース屋やチャイハネは閉まっている。歩き回って疲れた時に、チャイハネで一休みできないのは痛い。
もう一つの理由。それは、ラマダンの日中はどこも人出が少なくて、物寂しさがつきまとうことだ。食事や水も口にできず、その上、外は炎天下とくれば、屋内にこもるのも無理はない。ペルセポリスという一大観光地ですら閑古鳥が鳴いていた。いくら遺跡や街並みが素晴らしくても、イラン人のいないイランでは面白さも半減なのである。