旅の空

イランの旅 2009

6

フィールーザーバード

フィールーザーバード  Firuzabad

ドフタル城砦から車で10分も走らないうちに、周囲を山に囲まれた平原に出た。フィールーザーバードは、ササン朝ペルシアの建国者、アルダシール1世(AD.226~240)が築いた都である。ここもまた念願の場所であった。
遠くに宮殿遺跡が見えたときの胸の高鳴りは忘れられない。

アルダシール宮殿 1  Kakh-e Ardashir

宮殿の周囲は、至るところに瓦礫が散乱しており、付属の建物がいくつかあったことをうかがわせる。かなり広い範囲をフェンスで囲っており、地中にはまだ色々と埋まっているのではないかと思わせた。周囲の調査・修復は手つかずといった印象である。
遺跡入場口には管理人がいるが、見学者が来れば入れてやるといった様子で、ペルセポリスのような観光地感はない。実際、ここにいる間、外国人はおろか、イラン人観光客にさえ一人も会わなかった。ラマダンの影響はあると思うが。
着いたのは、正午頃だった。管理人から、見学は午後1時までと告げられる。どうやら、1時から夕方まで昼休みで入口を閉めてしまうらしい。これは誤算だった。時間がなさすぎる。ガルエ・ドフタルより先にこちらに来るべきだったかもしれない。

アルダシール宮殿 2  Kakh-e Ardashir

宮殿のイーワーン(入口の大アーチ)を前にして、ふと、エスファハーンのマスジェデ・エマームが頭に思い浮かぶ。ササン朝の宮殿建築がモスクの源流だということがよくわかる。
イーワーンの真下に立つと、その大きさ、高さを実感できる。しかも、上円部を支える両側の壁は垂直ではなく、放物線を描いている。かなり高度な技術を要するアーチではないかと思う。
アルデシール宮殿 : フィルザバードArdeshir Palace ; Firuzabad

アルダシール宮殿 3  Kakh-e Ardashir

イーワーンを抜けるとドームの大広間へと出るが、このようなドームの間が横に3部屋並んでいる。見上げると、ドーム屋根の頂上は穴が開いている。修復途中なのかと思いきや、採光のため、もともと天井全体を塞いではいなかったという。雨除けのために、別の天井(おそらく布製)が内部にしつらえてあったらしい。
アルダシール宮殿:フィールーザーバードKakh-e Ardashir : Firuzabad
小窓はあるが、たしかにこれだけでは暗すぎるだろう。しかし、上から光が降り注ぐとはいえ、部屋全体には届かない。光が当たる部分と陰の部分とが強烈な対比をなしていた。
アルダシール宮殿のドーム:フィールーザーバードArdeshir Palace ; Firuzabad

アルダシール宮殿 4  Kakh-e Ardashir

ドームの間には四方向にそれぞれ出入口がある。イーワーンの反対側に抜けると中庭のような空間に出た。この空間はかつてどんな用途に使われていたのだろうか。
アルデシール宮殿 : フィルザバードKakh-e Ardashir : Firuzabad 壁にあるアーチ状の窪みは、主に装飾目的だと思うが、イランのモスクでよくみるアーチ型の窪みもここから来ているのだろう。それにしても、なんと美しい石積みだろうか。

アルダシール宮殿 5  Kakh-e Ardashir

宮殿内部に引き返して、メイン・ドームのある大広間左側の部屋へ。各部屋に出入口が4つあるので、どの入口を通ってきたのかわからなくなりそうだ。
かつて、宮殿の壁面には化粧漆喰が施されていた。造られた当時のまま残っている箇所もあれば、修復・復元された箇所もあるが、注目すべきは、ペルセポリスの建物入口や墓室入口などでみられるのと同じ装飾文様が用いられていることだ。
アルダシール宮殿:フィールーザーバードArdashir Palace : Firuz Abad
ペルセポリスは、アケメネス朝ペルシアの儀式上の都であった。そして、アケメネス朝ペルシアが滅びてからおよそ500年後に歴史の表舞台に登場したササン朝ペルシアは、彼らの末裔を任じた。
アルダシール宮殿の漆喰装飾 : フィルザバードThe stucco ornament of Ardashir Palace : Firuzabad

アルダシール宮殿 6  Kakh-e Ardashir

時間を気にしながらの見学だった。他にももっと見学可能な部屋があったかもしれない。
アルデシール宮殿 : フィルザバードArdashir Palace : Firuzabad
最後に、宮殿の外を一回りする。宮殿の周囲には崩れた壁や石材が散在していた。チャハール・ターク(拝火神殿)と思しき遺構もある。
修復作業は今も続いている。イラン政府は、この宮殿をどこまで復元するつもりなのだろう。
できれば、半日以上かけてゆっくりと見たかった。イランで見てきた中で、最も美しい建造物がここにある。
アルダシール宮殿:フィールーザーバードArdashir Palace : Firuz Abad
アルデシール宮殿 : フィルザバードArdeshir Palace : Firuzabad
時計を見ると、閉場時間の午後1時を少々過ぎていた。待ってくれた管理人に礼を言って、宮殿を後にする。我々が出ると、彼は入口の扉に鍵をかけた。

人呼んで世界と言う古びた宿場は、
昼と夜との二色の休み場所だ。
ジャムシードらの後裔はうたげに興じ、
バハラームらはまた墓に眠るのだ。

バハラームが酒盃を手にした宮居は、
狐の巣、鹿のすみかとなり果てた。
命のかぎり野驢(グール)を射たバハラームも、
野驢に踏みしだかれる身とはてた。

廃墟と化した城壁に烏がとまり、
爪の間にケイカーウスの頭をはさみ、
ああ、ああと、声ひとしきり上げてなく―
 鈴の音も、太鼓のひびきも、今はどこに?

天に聳えて宮殿は立っていた。
ああ、そのむかし帝王が出御の玉座、
名残りの円蓋で数珠かけ鳩が、
何処(クークー)、何処(クークー)とばかり啼いていた。

 ~ オマル・ハイヤーム 『ルバイヤート』(小川 亮作 訳、岩波書店)
アルダシール・ファッラフ(栄光のアルダシール)  Ardashir Khwarrah

アルダシール宮殿からやや離れた場所に、広大な荒れ地のような区域がある。かつて、アルダシール・ファッラフ(栄光のアルダシール)と呼ばれた都市遺構である。地上で眺めてもわからないが、直径2Kmの円形都市だという。
中心部に太い柱か塔のような建物の残骸が一つ立っているだけで、周囲には地面以外に何も見えない。ただ、本格的な発掘調査はまだされていないように見受けられた。
当然、ここも見るつもりだったのだが、アルデシール宮殿を見てすっかり満足してしまったのか、朝から炎天下を歩き回って疲れ、空腹だったのが効いたか、もはや塔のところまで歩く気にはならず、円の縁から眺めただけで、写真も撮らずに立ち去ってしまった。今にして思えば、痛恨の取りこぼしである。

フィールーザーバード新市

フィールーザーバード新市は、円形の古代都市跡に寄り添うようにして建っていた。新市は、イランのどこにでもあるような小さな田舎町である。
ガイドのスィヤーヴァシーが昼食に案内してくれたのは、町はずれにある、Firuzabad Tourist Innだった。
レストランには、我々の他に客は誰もいない。建物は清潔で、冷房も効いており、快適だった。食事も美味しかった。ここに泊って、遺跡をゆっくり見物するのも悪くないと思った。

シーラーズへ

昼食後、シーラーズへ戻る。行きに眺めた雄大な風景をまた楽しんだ。
昨日と同様に、ホテルで休憩をとってからシーラーズ市内へ繰り出す。今日はもう、フィールーザーバードだけで満腹の状態だったから、もっと色々見て回ろうという気にはならなかった。
フィルザバードからシラーズへ戻る途中の風景Bagh-e Jahan Nama : Shiraz
ジャハーン・ナーマ庭園は、別名を「恋人たちの安全地帯」という。高い土塀で囲まれたこの庭園の中なら、警察のお節介な詮索を受ける心配がない。水路沿いに並ぶ石のベンチに一定間隔でカップルたちが座って語らっていた。
夜7時前、辺りが薄暗くなってきた。
バーザーレ・ヴァキールBazar-e Vakil : Shiraz
ヴァキール・バザールをそぞろ歩く。遺跡では誰にも会わなかったが、バザールはそれなりに賑わっていた。
エフタール(一日の断食明けの夕食)が近い。

エフタール

レストランの席について、断食が明ける時間を待つ。エフタールが近づくと、家族連れが続々とやってくる。心なしか、みな、晴れ晴れとした表情に見える。辛く長かった一日の断食がもうすぐ終わるのだ。
8時、一斉に食事が始まった。まる一日、水さえもお預けだったガイドのスィヤーヴァシーもようやく食事にありつく。
広いレストランに、穏やかな喜びと安堵の空気が流れた。