旅の空

イランの旅 2013

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マスジェデ・サンギー(ダーラーブ)

マスジェデ・サンギー(石のモスク) 外観  Masjed-e Sangi (Stone Mosque)

ロスターグ、フォルグ方面から92号線でダーラーブへ戻る途中、南側の高台への脇道をしばらく上り、頂上から少し下った辺りの右手に小高い岩山が見えてくる。マスジェデ・サンギー(石のモスク)と呼ばれるササン朝遺跡である。ダーラーブ市内からは、南へ約10kmと少し離れている。

マスジェデ・サンギーは、岩山をくり抜いて造った建造物である。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab

「石のモスク」という名が示すとおり、イランがイスラム化してからはモスクとして使用されたが、その前が何であったかについては見解が分かれるようだ。

このサイトでこれまで何度か言及している青木健氏は、著書『ゾロアスター教の興亡―サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』156頁で、この建造物をネストリウス派の石窟教会と記している。

しかし、遺跡の解説板にはキリスト教会に関する記述は一切なく、「アーザル・ハシュの拝火神殿」という異名を併記している。イランの考古当局は拝火神殿だったと考えているらしい。しかも、その前身はメフル(ミトラ)神殿であるという。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab

ちなみに、どういう理由か、解説版の右上にあったはずの"Masjed-e Sangi"の文字はきれいに削り取られていた。当局が消したものではないと思う。「石のモスク」という名前が気に入らない者の仕業ではないか。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab

岩山にはアーチ型の入口が二つある。向かって左側の大きい入口が神殿本体だが、右側の小さい方は粗彫りした洞穴のような空間があるだけだ。解説板には番人の詰所であったと書いてある。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab
マスジェデ・サンギー(石のモスク) 内部  Masjed-e Sangi (Stone Mosque)

南東に面した入口をくぐると、まず前室のような空間がある。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab

教会建築的な言い方をすれば、入口から続く身廊の先に内陣があり、身廊と内陣との中間地点からそれぞれ左右に翼廊が伸びている。中央交差部は床面を正方形に一段浅く彫りこんである。内部の平面構造は正十字形といってよさそうだ。

岩山からこの大空間を彫り出す労力は一体どれほどのものだったろうか。事前に写真を見てはいたが、思わず驚嘆の声が上がる。

下の写真は入口(南東)から内部を撮影したもの。左側が南西、右側が北東にあたる。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab

下の写真は北東側の翼廊である。(南西側翼廊から撮影)

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab

下の写真は南西側の翼廊である。奥の壁面にメフラーブが彫りこまれている。(北東側翼廊から撮影)

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab

メフラーブは、13世紀にこの建造物がモスクへ改造された際に付け加えられたものだ。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab

中央部の天井は採光のために穴が開いている。天井の穴を開けるために彫った岩の厚さも相当なものである。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab

支柱の構造はビザンティン建築でいう内接十字型であろう。あるいは、ササン朝建築のチャハールターグ形式といえるのかもしれない。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab
ミトラの石  Mithras Stone

ビザンティン教会を思わせる内部の構造を見て、最初は、なるほどたしかにこれはキリスト教会だと納得したのだが、モスク転用後に追加されたメフラーブを見て違和感を覚えた。

メフラーブは南西方向に伸びた翼廊奥の壁面に彫られている。不審に思ったのは、元々あった建造物に対して、メフラーブがあまりにもきれいに収まりすぎている点だ。

イスタンブールやヤズドで僕は、モスクに転用された教会や拝火神殿を見てきたが、そのどれも、メフラーブは元々あった建物に対して不自然な取り付き方をしているのである。当然のことだが、キリスト教やゾロアスター教にとってはイスラム教の聖地の方角など無関係だからだ。

しかるに、このマスジェデ・サンギーでは、メフラーブは入口から見て左側の翼廊奥の壁面に、まるで後からそれが追加されることを予期していたかのように、ぴたりと収まっている。後から地図で確認したところ、マスジェデ・サンギーのある位置から地図で南西方向をずっとたどっていくと、メッカに突き当るのである。偶然の一致だろうが、これは、モスクの前身となった建造物の中心線がもともと北西方向に傾いていたからだ。

各部屋の方角を改めて確認すると、メフラーブのある翼廊は南西、内陣は北西、入口は南東である。キリスト教会だとすると、入口と内陣の方角に疑問が生じる。内陣を東、入口を西に設けるのが教会建築では定石だったはずだ。マスジェデ・サンギーの配置は正反対なのである。

そして、最大の疑問は、なぜ岩窟教会でなければならなかったかということだ。いかに岩山をくり抜いた大空間とはいえ、マスジェデ・サンギーは、信者を集めてミサを挙げるにしては少々狭いように思われるのだ。逆に言えば、「岩山を彫った」点にこそ、この建造物の意味があったのではないか。

そこで筆者が連想したのは、ヨーロッパ各地に残るというミトラエウム(ミトラ神殿)である。

もともと古代イランの太陽神であったミトラの信仰は、メソポタミアやシリアなど西アジアに伝播した後、ローマ兵が持ち帰ったことによってヨーロッパにも広まり、キリスト教が登場するまでの間、ローマ帝国で隆盛を極めたという。

ヨーロッパのミトラ教徒たちは、ミトラ神を祀り、儀式を行うための神殿を洞窟や建物の地下に造った。これは、ミトラ神が「岩から生まれた」との信仰に基づくものらしい。「岩から生まれるミトラス神」なる彫刻作品まで存在するようだ。

マスジェデ・サンギーはミトラエウムの原型だったのではないか。

しかし、ミトラ信仰の本家本元たるイランで、メフルと岩との関わりについて言及したものが何かあったかどうか。

そう思っていたところへ、直接の資料ではないものの、次のような記述を見つけた。

…ミトラは「岩から生まれた神」ともいわれたが、弥勒像は観音像と同じように石を座とするのが古い形式であった。また、ローマのミトラスも弥勒も岩窟の中で生まれ、再生すると考えられた。
…イランではミトラ(ミスラ)は国と国との境いの山頂にいると考えられた。また、戦闘で両軍が対峙したときの中間の戦場に現れるとされた。ミトラはこのように二者の間に介在する神格であった。古代イランではミトラは「契約」の意味が強調された。もちろん「友情」「太陽」などの意味もそれに付随しており、現代ではこちらの意味が勝義をなす。
…ミトラの「ミ」は「接合」を表わし「トラ」は「場所、目印の石」などを表わした。ミトラのもとの意味は二者が接する場所にある境界石であった。
…境界は山頂や平原にあるばかりでなく洞穴そのものが境界とみなされた。洞穴の入口の石や奥の石もミトラの石(弥勒石)といわれるのである。
 出典: 井本英一 著 『境界・祭祀空間』((株)平河出版社)

やはり、ミトラは岩と深い因縁があるようだ。岩から生まれたとの信仰もイランが起源なのだろう。

マスジェデ・サンギーの位置する方角もミトラ信仰との関連を暗示しているかもしれない。入口が南東、最奥部の内陣が北西という配置は、おそらく太陽の運行を意識したものではないかと思うのだ。一年のある特別な日時に、太陽の光が入口から直接、内陣の壁に差し込むよう設計されたのではないかと筆者は想像する。まさに、太陽神ミトラの再生を象徴する神事として。

下の写真は、マスジェデ・サンギーの屋上、つまり岩山の頂上に置いてあった石である。筆者にはミトラ神が剣を突き立てる牡牛に見えて仕方がない。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab
マスジェデ・サンギー  現地遺跡解説(試訳)  Masjed-e Sangi (Stone Mosque)

ペルシア語で書かれた解説板の解読に挑戦してみた。

大意は外していないと思うが、何分、素人の翻訳であるため、誤りがありうることをお含みおき願いたい。

マスジェデ・サンギー、ダーラーブ | Masjed-e Sangi , Darab
(Masjed-e Sangī), Āteshkade-ye mashhūr Āzar Khash
Īn asar mansūb be 'omr-e Sāsānī va az jahat sabk-e banā dar nou'-ye khod bī-nazīr ast,
sākhtemān-e aslī dar del-e kūh sākhte shod va sotūnhā-ye ān tamāman sangī ast,
bar asās-e shavāhed-e mūjūd īn makān dar āghaz ma'bad-e mehr-parastān-aryā'ī būde va doure-ye Sāsāniyān be āteshkade tabdīl mī-gardad va sepas dar 'omr-e Atābekān-e Fārs be farmān-e Atābek Abū Bakr bin S'ad bin Zangī be sāl-e 652 hejrī-ye qamārī bā sākhtan-e mehrābī dar zel'e-ye jonūbī-ye ān be masjed-e tabdīl va az ān zamān be nām-e masjed-e sangī mashhūr mī-gardad.
Dar khārej-e banā otāq-e sangī-ye kūchekī barāye eqāmat-e negāhbānān sākhte'and.

【訳】
(石のモスク)、有名な「アーザル・ハシュの拝火神殿」
この遺跡はササン朝に関係しており、その建築様式故に比類なきものである。
建物の主要な部分は山の内部に造られ、柱は全て石でできている。
存在する証拠に基づいて言えば、この場所には最初、メフル(ミトラ神)を崇拝するアーリア人の神殿があったが、ササン朝時代に拝火神殿へと改変され、その後、ファールスのアターベク王朝時代にアターベク、アブー・バクル・ビン・サアド・ビン・ザンギーの命でヒジュラ太陰暦652(西暦1254)年、南の方向にメフラーブが造られてモスクに改変され、その時代から「石のモスク」という名で知られるようになった。
建物の外には番人が控えるための石の小部屋が造られている。
追記 2013/11/30

遺跡の解説板に書いてあるマスジェデ・サンギーの別名を当初、"Ateshkade-ye Azarakhsh"、つまり「稲妻の拝火神殿」と訳した。拝火神殿の名前にしては変だと思ってはいたのだが、その後、ここでいう「A-Z-R-KH-SH」は現代ペルシア語の「稲妻」ではないかもしれないと思い至った。

アーザル、アードゥル(Azar, Adur)はパフラヴィー語で「火」を意味する。アーザルバーイジャーン(アゼルバイジャン)地方にあるシーズの大拝火神殿(現タフテ・ソレイマーン)のことを、古くはアーザル・フシュ(Azar Khush)またはアーザル・ハシュ(Azar Khash)などと呼んだらしい。

追記2 2013/12/31

当初、マスジェデ・サンギーがキリスト教会であったという考えに対して疑問を書いた。入口や内陣の方角が通常と逆であることや隣にあるアースィヤーベ・サンギーとの関連性が説明できないこと、わざわざ石窟教会にする必然性がわからない、といった点からである。

しかしその後、マスジェデ・サンギーがかつてネストリウス派教会であったことを示す確固たる証拠が存在することを知り、宗旨替えせざるを得なくなった。

「東方キリスト教学会」が発行する学会誌『エイコーン』第34号に、三津間康幸氏と青木健氏が共同で執筆した「ダーラーブギルドのマスジェデ・サンギー遺跡の碑文 ~中期ペルシア文字碑文と東方シリア教会史~」という論文が掲載されている。

それによると、驚くべきことだが、カイ・イーショーヤブ、一人の教会の子という碑文がマスジェデ・サンギーの前室左上の壁面にパフラヴィー文字で刻まれているという。カイは尊称、イーショーヤブイエスは与えたという意味のシリア語で、人名を表わしている。

筆者も実は碑文を目にしており、本文に掲載した写真にもその一部が写っている。下の写真は一部分だけを切り取ったものである。

マスジェデ・サンギー碑文(一部) | the Pahlavic epitaph of Masjed-e Sangi, Darab

しかし、筆者はそれをモスク転用後にムスリムが刻んだアラビア文字だろうと思い込み、よく注意して見ることはなかった。もっとも、注意して見たところで、筆者がそれを読めるわけでもないのだが、あれが件の碑文であったかと、真相を知って少なからず衝撃を受けた次第である。

論文にはさらに驚くべきことが書いてあった。ササン朝時代における東方シリア教会の組織についてだ。

5世紀の記録によれば、東方シリア教会のパールス府主教座はレーウ・アルダシールにあり、その府主教座に属する主教座がダーラーブゲルドに存在したという。ヤズィードボーズィードやマーリフといった人名がダーラーブゲルド主教として記録に残っている。

また、パールスの府主教座に属するものとしては、ダーラーブゲルド以外にも、シーラーズ、エスタフル、ビーシャープール、ケルマーン、スィーラーフ他2箇所に主教座があったという。

ネストリウス派がササン朝時代のファールス地方にすらこれだけ根を張っていたこと、そしてネストリウス派の組織や活動に関する記録がこれほど残っているということが筆者にとっては大きな驚きだった。

以上の碑文や記録によって、マスジェデ・サンギーがモスク転用以前にネストリウス派教会であった点について疑問を差し挟む余地はなさそうである。やはり、教会建築の用語で構造が説明できるものは教会以外にないということか。

しかし、さらにその前身がメフル神殿であったという説までがそれによって直ちに否定されるわけではないと考えている。むしろ、冒頭に書いた疑問点は、元々あったメフル神殿をネストリウス派が教会に転用したことによって生じたものだとすれば解消すると思うのだが、いかがだろうか。

最初は単なる洞窟状であったミトラエウムをササン朝時代にネストリウス派が彫り広げ、ギリシア正十字の形をした石窟教会へと造り変えたのではないかと考えている。