イランの旅 2013
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アースィヤーベ・サンギー(ダーラーブ)
アースィヤーベ・サンギー(石臼) 概観 Asiyab-e Sangi (Stone Mill)
マスジェデ・サンギーのすぐ向かいの岩山に、マスジェデ・サンギー以上に問題かもしれない遺跡がある。
アースィヤーベ・サンギー(Asiyab-e Sangi)のアースィヤーブ(asiyab)とは臼のこと。「石臼」などという、遺跡にしては風変りな名前が付いている。といいながら、実は、この名前をここに書いてよいものかどうか少々ためらいがある。
マスジェデ・サンギーと違ってこちらには解説板が立っておらず、イラン観光協会のサイトにも情報がなく、書籍でこの遺跡のことを目にした覚えもない。地元での通り名であることは間違いなさそうだが、公的な媒体で確認できていないのだ。
一見して、水利施設であったことはわかる。岩山の麓には四角いトンネルが掘られ、そこから水路らしきものが伸びている。さらにトンネルのやや上、岩山の中腹には石積みの水路が北西・南東の両方向に走る。その規模たるや壮観である。特に南東方向へは一体どこまで続いているのか、マスジェデ・サンギーの位置からはうかがい知れない。
この遺跡が研究者の論文にどう書かれているのか僕は知らないが、建造年代は、やはりササン朝かそれ以前ではないだろうか。
例えばシューシュタルのように、ササン朝時代に建造された水利施設がイラン各地に残っている。ササン朝後のイスラム王朝に、これを造る技術や力があっただろうか。
何より、マスジェデ・サンギーの手前にも水路の残骸らしきものが残っており、マスジェデ・サンギーにも水を供給していたように見える。
水路の表面は(古代の?)コンクリートで覆われているようだ。
アースィヤーベ・サンギー(石臼) 坑道 Asiyab-e Sangi (Stone Mill)
岩山を穿った坑道は大人が立ったまま入れるほどの高さだったと記憶する。
坑道は通路と水路に分かれている。
塞がれてしまったのか、坑道の最深部は行き止まりになっていた。
坑道の壁には記号か図のようなものが刻まれている。自然にできた模様や落書きではないと思う。アラビア文字でもないと思うのだが。
アースィヤーベ・サンギー(石臼) 貯水槽? Asiyab-e Sangi (Stone Mill)
おそらく坑道の最深部がある位置の地上には、この遺跡の中枢とも思われる石積みの構造物がある。何とも形容が難しいが、キャンプで使う飯盒のような形と言えばわかりやすいだろうか。
この飯盒型建造物を上から見たのが次の写真だ。下から見ても想像できないが、円筒型の槽を二つ抱き合わせたような構造物だった。なるほど、これを石臼に見立てたわけだ。
槽の深さは7~8mといったところだ。おそらく槽の底部と坑道は同じ高さではないかと思う。危険なのであまり身を乗り出せなかったが、底部の壁面には穴が開いていたような気がする。
この飯盒型建造物を見て、イージ郊外で見た謎の遺跡と形が似ていると思った。もしかしたらあれも水に関係するものだったのか。
アースィヤーベ・サンギー(石臼) 水路 Asiyab-e Sangi (Stone Mill)
南東方向の水路は果てしなく続いているので、北西方向の水路を辿ってみることにした。
岩山を彫ってこの水路を造る労力もマスジェデ・サンギーを彫り出す労力に匹敵するのではないかと思う。
それにしても、イランで一般的な地下水路(ガナート)でなく、水路を地表に露出させている点が奇異に感じられる。蒸発による水の減少を考慮していないということか。
そもそも、ダーラーブの地名には「水がたくさんあるところ」という意味があるらしい。シーラーズやフィールーザーバードなどに比べるとこの辺りの空は雲が多く、湿度も比較的高いのは確かだ。
北西側の水路の先にはこれまた謎の遺構がある。
祠のようにも見える建造物は石積みの古さから判断してササン朝時代のものではないかと思う。しかし、その背後にある石積みは新しい。
おそらく、アースィヤーベ・サンギーもマスジェデ・サンギーと同様に、建造主であるササン朝が滅びた後も、改修・補修を受けながら後世まで使用されたのだろう。