旅の空

イラン 2016

8

ホルヘ、マシュハデ・アルダハール

カーシャーン小旅行

ケルマーンの旅を終えてから、帰国便に乗るまでの1泊2日でカーシャーン方面への小旅行に出かけることにした。カーシャーンへ行くついでに近郊の観光地へも足を伸ばすつもりだった。

普通なら、ここで有名なアビヤーネが真っ先に候補に挙がるだろう。しかし僕には以前から目を付けていた場所があった。ホルヘのパルティア遺跡、イランの現代詩人ソフラーブ・セペフリーの墓があるマシュハデ・アルダハール、そしてニヤーサルの拝火神殿である。この中ではホルヘだけ州が違うのだが、カーシャーンからは西へ90キロほどしか離れていないので、無理な行程ではないだろうと考えた。しかも、都合が良いことに、ホルヘからマシュハデ・アルダハールとニヤーサルを経てカーシャーンまで一筆書きの経路で巡ることができる。テヘランからホルヘまではやや長距離の移動になるが、グーグルマップで調べたところによれば距離は248キロ、所要時間は2時間42分とあるので、3時間ぐらいで行けるものと予想していた。

チェックアウトを済ませ、ホテルのロビーでガイドや運転手と待ち合わせた。運転手はカーシャーンからやって来た。カーシャーンの人間がテヘランの複雑な道路網を迷わずによく運転して来られたものだと感心する。

ナラーグ  Naraq

ホテルを出発してから3時間を過ぎても一向にホルヘに近づく気配がない。おかしいと思ったのは、ホルヘの次に行くはずのマシュハデ・アルダハールの地名が先に道路標識に現れた時だ。さてはホルヘを飛ばしたのではないかと不安になってガイドに確認したのだが、我々はまさしくホルヘに向かっているという。

ナラーグという町の近くの道路沿いに公衆トイレがあったので休憩した。外の空気はまるで高原にいるかのような爽やかさだ。遮るもののない青空から陽射しがさんさんと降り注いでいるのに、その熱を感じない。そこにいるだけで不思議と気分が良くなるような場所だった。印象的な形をした大きな岩山がそびえ立っている。写真を撮っておけばよかったと後から思ったのだが、この岩山を背景にしたナラーグの町はなかなかの壮観であった。

ナラーグ(マルキャズィー州)| Naraq, Markazi Province, Iran

休憩中に地図を確認して、予想とは全く違うルートを通ってきたことに気づいた。僕は、テヘランからサーヴェ近くを通る5号線に乗るとばかり思っていたのだが、実際に来たのは、7号線でゴムをかすめ、カーシャーンまで南下してから58号線に乗るルートであった。つまり、およそ使わないだろうと思っていたルートである。しかも、このルートを使うと、ホルヘからマシュハデ・アルダハールへ行くには同じ道をまた戻って来なくてはならない。

納得がいかなかったので、わざわざ時間がかかるルートを選んでいないか運転手に確認してもらった。距離は長くなるものの、我々が走ってきたルートは高速道路なので僕が想定していたルートよりも早いというのが運転手の答えであった。現地人の方が現地の事情に通じているというのは至極当然だが、それでも釈然としないものが残る。

ホルヘ古代建造物  Bana-ye Bastani-ye Khorhe

運転手もかなりの速度で飛ばしているのだが、デリージャーンからホルヘまでの道のりが非常に長く感じられる。結局、ホルヘに到着したのはテヘランを発ってから約5時間半後の午後1時過ぎ、見込み違いの大変なドライブになってしまった。

ホルヘの規模は、遺跡としての現況がある部分に関していえば、間口が約40メートル、奥行きは50メートルほどである。入口付近には立体迷路のような構造物が奥まで広がっている。おそらくこれは、発掘調査をした後に遺構を保護するため土を被せたものだ。一番奥に印象的な2本の高い石柱と低い石柱の断片が並んでいる。この柱が見たくてはるばるやって来たようなものである。

遺跡の南東端から約100メートル先には川がある。ホルヘから約20キロ南には、園芸が盛んなマハッラートという町もあり、水に恵まれた地域といえるだろう。

ホルヘ古代建造物 | Khorhe Ancient Building

高さ6~7メートル、直径60~70センチと思われる2本の石柱は誠に遺憾ながら支柱で厳重に保護されていた。ただ、黄色の覆いをしたパイプは案外、周囲の景色や石柱の色にも馴染んで、むき出しの鉄柱よりはマシかもしれない。

ホルヘ古代建造物 | Bana-ye Bastani-ye Khorhe

遺跡の解説などによれば、ホルヘの建造物は、古くはセレウコス朝時代にまで創建を遡る拝火神殿であると長年にわたって信じられてきたが、最近の考古学的調査によって、紀元1世紀のパルティア時代に建造された邸宅(manor house)であることが明らかになった。出土品は、大理石製の小さな容器、銅の指輪、多種多様な陶器などで、住人はおそらくアルサケス王家の支配層に属する人物であった。(CAIS:Parthian Khorhe’s Sixth Season of Archaeological Excavation is Completed

ホルヘ古代建造物 | Khorhe Ancient Building

石柱群の周りには遺跡の保全作業に使う資材が地面に置かれたまま、作業員が使用すると思しきドラム缶のゴミ箱まであって、さながら工事現場の趣である。我々の他に見学者の姿はない。イラン人の9割はこの遺跡を知らないだろうとガイドは言う。

ホルヘ古代建造物 | Bana-ye Bastani-ye Khorhe

アルサケス朝パルティアはイラン系の遊牧民が興した王国であるが、シリアからパキスタンにまで及んだその領土内には、アレクサンドロスの東征以降に入植したギリシア人が各地に都市国家を築いており、ギリシア文化の影響を強く受けたといわれる。

ホルヘ遺跡の魅力は、マルキャズィー州という名前のとおりイランの中央ともいえるこの地でヘレニズムの痕跡が見られることではないだろうか。巻物を紐で束ねたようなこの柱頭飾りはイオニア式の派生形だろう。魅惑の渦巻き文様である。

ホルヘ古代建造物 | Khorhe Ancient Building

遺跡の中でひときわ目を引く2本の石柱であるが、ギプスで固定したような姿が痛々しい。柱は2本とも損傷がひどく、支柱なしではたしかに折れてしまいそうだ。ネットに出ている写真を見る限り、少なくとも2014年6月にはすでに支柱が組まれていたようだ。おそらくこの先も何年かはこの状態が続くだろう。ことによると、支柱が仮設ではなくて常設になるかもしれない。

ホルヘ古代建造物 | Bana-ye Bastani-ye Khorhe

遺跡の解説は例によってペルシア語のみ。セレウコス朝時代からパルティア時代の間に建立された神殿という説とパルティア時代に建造された宮殿もしくは別荘という説とを併記しており、遺跡の名称も「bana(建物)」という中立的な表記に留めている。

チャール・ナフジール洞窟  Ghar-e Chal Nakhjir

ホルヘを見学した後、もう3時になろうかという頃に遅い昼食を済ませた。来た道をまた戻るのかと思うと気が遠くなりそうだったが、さらに途中でチャール・ナフジール洞窟に立ち寄ることになった。マルキャズィー州の目玉観光地である。僕は正直、気が進まなかったのだが、運転手氏の強い勧めに根負けした。

行ってみると、有名なアリー・サドゥル洞窟にも匹敵する立派な鍾乳洞であった。カリフラワーのような鍾乳石が美しい。しかし、この鍾乳洞ではカメラやバッグを受付で預けなければならないため、写真を1枚も撮っていない。しかし、携帯電話をポケットに入れておけば、実質的に写真撮影は可能だった。なぜカメラの持ち込みがいけないのかわからない。

マシュハデ・アルダハール  Mashhad-e Ardahal

マシュハデ・アルダハールは、マルキャズィー州のデリージャーンとエスファハーン州のカーシャーンとを結ぶ58号線のちょうど中間地点にあって、マルキャズィー州との州境に位置している。カーシャーンからは車で40分ほどの高原にある巡礼の村である。

この村のソルターン・アリーという霊廟の敷地内に、イランで最も有名な現代詩人、ソフラーブ・セペフリー(1928-1980)の墓があるのだ。

ソルターン・アリー霊廟(マシュハデ・アルダハール)| Aramgah-e Soltan 'Ali, Mashhad-e Ardahal
ソフラーブ・セペフリーの墓  Aramgah-e Sohrab Sepehri

セペフリーはカーシャーンで生まれた。「水の足音」という彼の有名な詩は、"ahl-e Kāshānam"(僕はカーシャーン生れ)という一節で始まる。

彼の詩を知ったのは、アッバース・キヤーロスタミ―の映画がきっかけだ。代表作である『友だちのうちはどこ?』は、セペフリーの「Neshānī(住所)」という詩からインスピレーションを得たものだといわれており、キヤーロスタミーは他にも作品中でセペフリーの詩を引用している。僕がペルシア語の独学を始めたのも、セペフリーの「住所」や「明るさ、私、花、水」といった詩を原語で読んでみたいと思ったことがきっかけだ。

ソフラーブ・セペフリーの墓 | Sohrab Sepehri Tomb

ソフラーブ・セペフリーの墓は、ソルターン・アリー霊廟の中庭に墓石と肖像画があるだけだった。ハーフェズやサアディーのような立派な廟があるのかと思っていた。

 be sorāgh-e man agar mī-yā'īd
 narm o āheste beyā'īd
 mabādā ke tarak bar-dārad
 chīnī-ye nāzok-e tanhā'ī-ye man

 僕を尋ねて来るのなら
 そっと、ゆっくり来てほしい
 僕の、セトモノでできた華奢な孤独の器に
 ヒビが入ってしまわぬように

後から知ったことであるが、セペフリーの墓銘は「vāhe'ī dar lahze(一瞬の中のオアシス)」という詩の最終節であった。あまりに内容がぴったりで、てっきり、自分の墓銘に刻むために作っておいたのかと思ったほどだ。

ソフラーブ・セペフリーの墓 | Aramgah-e Sohrab Sepehri

セペフリーの墓石は、ソルターン・アリー霊廟の女性用入口に面している。廟を訪れる人の多くは彼の墓石の前に立ち止まる。それにしても、彼はこの場所に埋葬されることを望んだのだろうか。

ソフラーブ・セペフリーの住んだ家は、キャッレ(Rūstā-ye Kalle)という田舎町に今も残っているが、2年前から閉まっているという。カーシャーン人の運転手から聞いた話だ。

ソルターン・アリー霊廟  Aramgah-e Soltan 'Ali

カーシャーンへ発つ前にソルターン・アリー霊廟で一休みした。マシュハデ・アルダハールには名水が湧くらしい。霊廟の給水機から出てくる水は冷たくて美味しかった。チャール・ナフジール洞窟でペットボトルの水を飲み干し、喉はずっとカラカラだった。

ソルターン・アリー霊廟(マシュハデ・アルダハール)| Aramgah-e Soltan 'Ali, Mashhad-e Ardahal

冷房の効いた廟の中で3人とも寝そべった。モスクや霊廟は言うまでもなく、礼拝をするところだ。でも、少なくともイランでは、礼拝する人の邪魔さえしなければ、たとえ寝転がっていても、昼寝をしていても、責められたりはしない。

日はまだあるが、今日の観光はもう終わりだ。仕事とはいえ、運転手にはかなりの長距離運転をさせてしまった。ニヤーサルの拝火神殿へは、本当はこの足で寄るのが効率的なのだが、明日に回す。多分、カーシャーンで予定していた場所を全て回るだけの時間はないだろう。でも、まあいいや、と思った。

カーシャーン  Kashan

カーシャーンで泊まったネガーレスターン・ホテルは、有名なフィーン庭園に近く、旧市街からは離れた場所にある。テヘランの街中にでもありそうな高層ビルである。すぐ近くに別の高層ホテルを建設する計画もあるようだが、こうした高層建築がカーシャーンの景観に相応しいかどうかは疑問だ。ホテル自体は新しく、部屋も広くて快適だったので文句はないのだが。

街外れということもあり、周囲は緑が多く、人や車の往来はさほど多くない。部屋の窓から通りを見下ろすと、自動車修理店だろうか、店先で作業する人たちが見えた。夕暮れの街にアザーンが響く。それにしても、窓を閉めている割に外の物音がやけによく聞こえると思ったら、壁と木製の窓枠に隙間が空いていた。

夕食のレストランは運転手に勧められた店へ。ホテルからさらにフィーン庭園の方向に進む。木立に囲まれた敷地の中央を水路が通っている。この豊富な水流はおそらくフィーン庭園からのおすそ分けなのだろう。

食事をしていると、どこからともなく野良猫が何匹も座台に忍び寄って来る。キャバーブの肉の切れ端を地面に放り投げると、熾烈な争奪戦が勃発する。通りがかりのウェイターが時々、猫たちを追い散らす。

カーシャーンの夜も涼しい。これがイランで過ごす最後の夜だ。頭上に広がる梢と暗がりを見ながらしみじみと思った。