旅の空

日本・謎の石造遺物紀行

6

群馬編「多胡碑と羊太夫伝説」

多胡碑

JR高崎駅から南へ約8km、多胡碑は、覆屋で厳重に守られて「吉井いしぶみの里公園」の一角にひっそりと建っている。あるいは多胡碑記念館と言った方が通りはいいかもしれない。

多胡碑Tago Monument

那須国造碑、多賀城碑とともに多胡碑は日本三大古碑の一つに数えられる。その内容は、今から約千三百年前の和同4(西暦711)年、現在の群馬県高崎市吉井町を中心に「多胡郡」が新たに設置されたことを記したもので、『続日本紀』にそれと合致する記述があることから、正史の記事を裏付ける重要な資料とされている。

また、高さ約1.5m、重さ約1.3トンの牛伏砂岩に刻まれた6行80字の楷書は、中国六朝時代の書風に通じるものとして、書の世界においても高く評価されているという。

【銘文】

弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和同四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左大臣正二
位石上尊右大臣正二位藤原尊


【書き下し文】

弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて多胡郡と成せ。和同四年三月九日甲寅に宣る。
左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王、左大臣・正二位石上尊、右大臣・正二位藤原尊。


【現代語訳】

朝廷の弁官局から命令があった。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡を作り、に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。
和同四(711)年三月九日甲寅。左中弁・正五位下多治比真人(三宅麻呂)による宣旨である。太政官の二品穂積親王、左大臣・正二位石上(麻呂)尊、右大臣・正二位藤原(不比等)尊

続日本紀

和同四(711)年三月六日 上野国甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美・片岡郡の山等の六郷を割いて、別に多胡郡を置く

なお、多胡碑と続日本紀とで郡を設置した日付に若干のずれがあるが、この違いは、続日本紀の3月6日が決定日で、多胡碑の3月9日が公布日と解される。

羊太夫伝説

碑文にある「羊」とは人名を指すとみられる。

この「羊」に関しては、不思議な物語が群馬県南西部を中心に語り継がれてきた。

羊太夫栄枯記』(あらすじ)


1.羊の誕生

昔々、上野国(かみつけのくに)多胡郡に羊太夫(ひつじだゆう)という男の子が生まれました。なぜ羊太夫という名前かというと、羊の年の、羊の日の、羊の刻に生まれたからです。


2.羊郡司となる

羊太夫は成長すると、身長は2メートル半もあり、学問にも武術にも優れた立派な青年になりました。お父さんが亡くなると、その後を継いで上野国多胡郡の郡司となりました。


3.都へ日参

あるとき羊太夫は「権田栗毛」(ごんだくりげ)というとても良い馬を手に入れました。それからというもの、奈良の都へ毎日お仕えに参上しました。その早く走る様子はまるで稲妻のようで、このように早く走ることができたのは、小脛(こはぎ)というお供を連れていたからです。


4.小脛の羽を抜く

そんなある日、あまりに暑かったので、二人は涼しい木陰で休むことにしました。ふと、寝ている小脛の方を見た羊太夫は、小脛の左右の脇の下にトビの羽が生えていることに気付きました。羊太夫はいたずらな気持ちから、なんとその羽を引き抜いてしまいました。小脛は驚いてがばっと起き、左右の脇を触ってみましたが、そこには大事な羽がありません。小脛は、「ああ、ご主人様。取り返しのつかないことをしてしまいました。この羽はご主人様のための守り神だったのに。私はもう都へお供に付いていくことはできません。明日からの都へのお仕えはどうしたらいいのでしょう。」と悲しみ嘆いたのでした。


5.羊討伐の軍議

大和国奈良を南都といい、時の帝王は南都三代目となる元正天皇でした。さて、都では、右大弁の実世卿という人が「上野国の羊太夫は毎日都に来ていたのに、最近はさっぱり来なくなった。おかしいぞ。もしかしたら謀反を企んでいるのかもしれない。」と言い出しました。さらに、以前から羊太夫とウマが合わなかった石上大納言は、「羊という者は魔訶不思議な術を使う曲者でして、天に上ったり地に潜ったり空を飛んだりします。また、一日に千里を駆ける名馬を持ち、駿馬とともに走る小脛という足の速い家来もおり、二人とも常人ではありません。このまま放っておけば、きっと天下を覆すでしょう。早く誅伐なさるべきです。」と讒言しました。それを聞いた天皇は、とても驚いて非常に怒り、安芸国の人・広島宿祢長利に羊太夫を討つように命令しました。そして、中国十六カ国、南海道六カ国から合わせて十万騎余りの軍勢が上野国へ向いました。


6.都の軍勢上野へ

羊太夫は、都から自分を討つための軍が向かって来る知らせを聞いてとても驚きました。しかし、羊太夫は今となってはどうすることもできなくなり、仕方なく戦わなければなりませんでした。


7.人見ヶ原の戦い

官軍は碓氷峠を越えて、その先頭は松井田や安中に到着し、碓氷川を渡って人見ヶ原で後ろから来る仲間を待っていました。そこへ、羊太夫は敵がまだ眠っているうちに押し寄せました。そのため敵は慌てて逃げ出して行き、羊太夫の作戦は見事に成功したのでした。


8.福島河原の謀略

官軍が再び押し寄せて来たとき、羊太夫たちは食事中でしたが、羊太夫にはある考えがあり、八束の方へ逃げることにしました。羊太夫たちが残していったお酒やご飯を敵軍の兵士が飲んだり食べたりしたところ、多くの者が苦しみもがき出しました。羊太夫はこのお酒やご飯に毒を入れておいたのです。こうして羊太夫は戦わずに勝利を収めたのでした。


9.女御たちの自害

このように羊太夫たちは苦労して戦っていましたが、次第に城を守ることが難しくなってきました。そしてとうとう羊太夫は、一族と共に官軍に城を取り囲まれてしまいました。羊太夫は勝ち目のないことを感じ、家来に奥方や若君をどこかへ逃がすようにと命令しました。


10.羊、金の蝶となり雨曳山へ

羊太夫は家来たちがみな戦死したのを見届けると、不思議なことに金色の蝶に変身して雨曳山の方へと舞い上がりました。そしてトビに変身して池村に飛んで行きました。小脛も同じようにトビとなって羊太夫に続いて池村の方へと飛んで行きました。


【エピローグ】

官軍は羊太夫たちが立てこもっていた八束城を攻め落としましたが、肝心の羊太夫を討ち漏らしたため、広島宿祢の心中は穏やかではありませんでした。かといって、鳥に変身して飛んで行った敵をどうすることもできず、もう神さまや仏さまの力に頼るしかないと考えてお祈りしました。すると、不思議な夢を見たおかげで池村の藪の中に羊太夫と小脛が自害して死んでいるのを見つけ、死体を池村に葬り、土を盛って小山を造りました。そして、敵ながら、羊太夫がただ者ではなかったことを思い、祠を建てて弔ったのでした。

奥方と若君を任された家来は落合村まで逃げましたが、とうとう敵に追いつかれてしまいました。そこで近くのお坊さんに若君をお願いして、奥方とその他6人の女性を自害させ、自分もそこで切腹しました。やがて、このお坊さんは奥方や6人の死体を7つの輿(こし)に入れて、葬ってあげました。今の七輿山古墳(藤岡市落合・前方後円墳)がこの奥方たちのお墓だと伝えられています。

この土地の人は、多胡碑を「ひつじさま」と呼び、羊太夫のお墓だと信じて、今でも神様としてお祀りしているのです。


(注)以上は、多胡碑記念館の配布資料「羊太夫鑑賞ガイド(こども用)」を基に、「羊太夫栄枯記」から一部を加筆・修正したものである。
多胡碑十字架の事

驚くべきことに、この羊太夫の墓からは十字架が出たという記録がある。

それを証言するのは、肥前国平戸藩の第九代藩主・松浦静山(1760~1841)である。

静山が隠居後に書き始めたという随筆集『甲子夜話』にその一件が取り上げられている。

甲子夜話』 巻之六十三

多胡碑十字架の事

 

〔二十一〕或人曰く。上州多胡郡の碑にある〔人名〕は、蓋し遣唐の人なり。後其墓中より〔墓中とは碑下を云や。又羊の墓と云もの別にあるや〕十字架を出だす。是を「イサアカテツチンギ」〔先年舶来の紅毛人〕に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、「テツチンギ」是を鑑定せよとは甚不審なりと言しと〔この意は、此物は天主教の所用。吾邦制禁のものなる故なり〕。
唐に景教と云有り。これは『金石粋編』に出。又打碑をも舶来す〔或人こゝに唐代のことを引たるは、多胡碑に和銅四年の号あるを以なり。此年唐睿宗の景雲二年〕。太秦寺の事、景教伝法碑にも出、『旧唐書』にも見ゆ〔『仏祖統記』云。末尼火祆者ハ、初メ波斯(※ペルシア)国ニ蘇魯支(※ゾロアスター)ト云有リ。火祆ノ教ヲ行フ。弟子来テ中国ヲ化ス。唐ノ貞観五年、其徒穆護(※マゴス)何禄(※ホスロー?)、闕ニ詣テ祆教ヲ進ム。京師ニ勑シテ大秦寺ヲ建。天宝四年両京諸郡ニ勑ス。波斯寺有ル者ハ並ニ名ヲ大秦ト改メヨ。会昌三年、勑シテ、天下ノ末尼寺並ニ廃ス。京城ノ女末尼七十二人皆死ス。回紇ニ在者ハ之ヲ諸道ニ流ス。五年勑ス。大秦穆護火祆等ノ二千人並ニ勒シテ俗ニ還ヘス〕。
『旧唐書』武宗ノ紀ニ云。会昌五年云云。又奏ス。僧尼祠部ニ隷ス合ズ。請フ鴻矑寺ニ隷ン。其大秦穆護等ノ祠ハ、釈教既已釐賀革シ、邪法独存ス可カラズ。其人並勒シテ俗ニ還ス。又云僧尼ヲ隷シテ主客ニ属シ、明シ外国之教ヲ顕、勒シテ大秦穆護祆ノ三千余人ヲ勒シテ、還俗セシメ、中華之風ニ雑ラザラシムと。
景教伝法碑にあるは、太宗の代、大秦国を征しとき景教を伝ふ。郭子儀大に信心すと〔『旧唐書』『新唐書』とも子儀の伝此事無。蓋伝法碑の説予未この碑文を見ず〕。
然れば遣唐使も専ら此後の頃なれば、或はこの教を伝来りしなるべし。『西洋紀聞』にも、斎食には魚鳥を用ひて、獣肉を禁ずなど云へば、今宍の禁は若くは景教に起る歟と。又云。景教の号は、唐の時天主教を名づけて称せり。(中略)
或人又云ふ。凡天主教の徒は牛を尚ぶ。天竺にも波羅門種はこれも牛を尊敬すと。夫れにつき窃に思ふに、京師に太秦広隆寺と云あり。この寺推古の朝十二年の所建、聖徳太子の創立とぞ。この時隋の末、唐の初の事なれば、若くはかの大秦の教も吾邦に伝へたりしか。此寺今に牛祭と云ことありて、異体の仮面を蒙れる者、牛に乗りて進退すること有るよし。『都名所図会』に見ゆ〔太秦と称するゆゑ、又広隆と云ふこと其書の注に見ゆ。皆信ぜられず。○『山城志』云。広隆寺ハ厩戸皇子秦河勝ニ命建所。推古三十二年七月、新羅、任那ノ二国使来聘、仏像貢、之置ク。又云。其ノ摩咤羅神祠毎秋九月十二日祭祀修、之ヲ牛祭云〕。
多胡碑のこと『蓋簪録』〔東涯著〕に云所は、土人呼テ羊大夫ノ社ト為ス。何ノ故知不。或ハ以穂積親王之墓ト為ス。前世県ヲ置ク之碑ナルヲ知ラズ。」これ其碑文に拠て云ならんが、成給羊の三字漢文にあらずして読がたし。人茲以羊大夫と云なる。又その碑図を出せるを見るに、跗石蓋石ありて、いかにも墓の如し。然れば置県の碑に非ずして、墓標と為んも然らんか。又『東江書話』には、『蓋簪録』のことを諭て、別に彼地土俗の云伝へし羊大夫の事蹟を載す。その略は、この人、後、不廷のことありて、官軍の為めに討れ、自ら剄と見ゆ。されば斯人有りしも計りがたし。何分にも十字架の、かの碑下に出たりしと云うは訝かしきこと也。(以下略)

(注)
 1. 文中の改行及び丸括弧注(※)は全て引用者(バハラム)による。
 2. 文字表示の都合上、漢文は引用者が書き下し文に改めた。

また、この多胡碑の下からは「JNRI」というローマ字が書かれた銅板も見つかったという。JNRIとは、ラテン語で「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」を意味する略語INRI(Iesus Nazarenus,Rex Iudaeorum)のことであろう。

甲子夜話』 続篇巻之七十三

多胡碑の傍より掘出す蛮文并考


〔十七〕 JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石槨を掘出す。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書『コルネーキ』を閲するに、邪蘇(※イエス・キリスト)刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮学通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。
多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。今天保三年を距ること千百廿ニ年。されば彼蛮物は何なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずることならん。尚識者の考を俟。

隠された十字架

羊太夫の墓から十字架やキリスト教関連の品が出たという甲子夜話の逸話がもし事実であったとすれば、それは一体何を意味するのだろうか。

言うまでもなく、キリスト教を初めて日本に伝えたのは、1549年、鹿児島県に上陸したイエズス会修道士・フランシスコ・ザビエルというのが通説である。

しかし、羊太夫は奈良時代の人物である。つまり、ザビエルより800年以上も前に日本には既にキリスト教徒がいた、あるいはひょっとするとキリスト教自体が伝来していた可能性を示している。そして、その時代に日本へ到達しえたキリスト教の宗派といえば、松浦静山の鋭い洞察にもあるようにネストリウス派(景教)以外にあるまい。

431年、エフェソスの公会議において異端宣告を受けたネストリウス派は、東へ逃れてササン朝ペルシアの庇護を受け、さらに東方へと勢力拡大を図った。景教が初めて中国へ入ったのは635(貞観9)年のことである。

唐の太宗は、阿羅本ら宣教団一行を時の宰相をして宮中に迎えさせ、経典の翻訳を許可し、宣教を勧め、越えて3年、長安市中に一寺を造らせ、僧21人を度せしめたとある。ちなみにこのときの宣教団を率いていた僧・阿羅本(アラホン)はペルシア人であった。

また、長安に造られたこの寺は最初、波斯寺と、宣教僧は波斯僧と呼ばれた。ペルシア人が景教の布教に果たした役割の大きさを表すものだろう。781年、長安に建立された「大秦景教流行中国碑」は、中国におけるネストリウス派の隆盛を伝える。

景教が日本に伝来したことを示す証拠はないが、同時代の中国での広まりを考えれば、可能性として日本への伝播は全く起こり得ない状況ではなかった。景教徒であったかどうかは不明だが、天平8(736)年、帰国する遣唐使に連れられて、李光翳(りみつえい)というペルシア人が来朝したという記事が『続日本紀』にみられるのである。

なお、話は少々脱線するが、太秦広隆寺も景教の所産ではないかという静山の推論は衝撃的だ。広隆寺は、蘇我馬子と共に廃仏派の物部氏と戦った厩戸皇子が新羅から贈られた仏像を安置するために、秦氏の頭領・秦河勝に命じて造らせた寺である。仏教の守護者たる厩戸皇子造らせた寺が仮にも景教を伝えていたとなれば一大事であろう。

さらに蛇足であるが、広隆寺に伝わる「牛祭り」について筆者は思うところがある。異体の面を被り、牛に乗って祭に登場する摩咤羅(マダラ、マタラ)神という由来不詳らしき神の正体はミトラではないだろうか。

「多胡」とは

7世紀以降、朝鮮半島からは滅亡した百済や高句麗のみならず、朝鮮半島を統一した新羅からも多くの移民が日本へ渡ってきた。彼らを関東地方へ集団で移住させたという記事が日本書紀や続日本紀に散見される。その中から大きなものを抜粋すると次のとおりである。

天智五(666)年冬 百済の男女二千人余を東国に住まわせた。百済の人々に対して、僧俗を選ばず三年間、国費による食を賜った。


霊亀二(716)年五月 駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国にいる高麗人千七百九十九人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。


天平宝字二(758)年八月 帰化した新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を、武蔵国の未開地に移住させた。ここに初めて新羅郡を置いた。

移民の出身国に因んだ名前の郡が置かれるなど、関東地方には相当な数の渡来人が移り住んだことがうかがえる。

羊太夫が支配を任された多胡郡も同様の状況であったとみられ、多胡とは、通説では「多くの渡来人」あるいは「多様な出身地の渡来人(が居住する)」という意に解釈されているようだ。

しかし、「」とは、ソグド人やペルシア人など、中国から見て西域のイラン系民族を指す言葉であり、実際にそうした意味で使われた例が正史の記述にもみられる。

755年、唐では、ソグド人の父と突厥人の母を持つ范陽節度使の安禄山が玄宗皇帝に対して反乱を起こした。この事件は、大和朝廷にとっても相当な衝撃をもって受け止められたようで、安史の乱として知られる謀反の経緯を続日本紀は詳細に伝えている。

報告を受けた淳仁天皇は国防の最前線である大宰府に対し、次のような勅を発している。

続日本紀』巻第廿一 天平宝字二(758)年十二月


【原文】

安禄山者、是狂狡竪也。違天起逆。事必不利。疑、是不能計西、還更掠於海東。(中略)宜知此状、預設奇謀、縦使不来、儲備無悔。(以下略)


【現代語訳】

「安禄山という人物は凶暴な胡人で、狡猾な男である。天命にそむいて反逆を起こしたが、事は必ず失敗するであろう。恐らく征西の計画は不可能で、却って海東を攻略にくるかも知れない。(中略)よろしくこの度の状勢を理解して、予め優れた策を建て、たとえ禄山が来寇しなくても、準備は怠ることがないようにせよ。(以下略)」

少なくとも、「」は、漢民族や新羅、百済、高句麗の出身者をいうときに使う字ではない。そうした人々が混在する集合体を指す場合でもそのような字を当てるだろうか。多胡の胡とは西域胡人の胡ではないのだろうか。

羊太夫の正体

以上のことから、短絡的に過ぎるかもしれないが、羊太夫の正体を筆者は次のように想像した。「羊」とは、大和朝廷の信任を得てこの地を支配した渡来系豪族で、ペルシア人景教徒。「羊」が渡来人の自称和名だったとすれば、キリスト教徒にこれほど似つかわしい名前はあるまい。それに、羊太夫の伝承には、「羊儀は神変奇異の曲者にて、天に上り地を潜り飛行を致し候なり。」とあるが、その人間離れした業は、宗教は異なるものの、祆教(ゾロアスター教)の眩人が使ったという幻術の類を思わせ、そうした術を操っていたであろうペルシア人を背後に連想させる。

しかし、事はそう単純ではなかったのである。

「羊太夫栄枯記」によれば、羊太夫には「宗勝」というれっきとした名前があり、大職冠鎌子連五代の孫・藤原将監勝定の嫡男であるという。大職(織)冠とは、「乙巳の変」で中大兄皇子と共に蘇我入鹿を暗殺した中臣(藤原)鎌足を指す。つまり、この伝承が事実であるとすれば、羊太夫は中臣鎌足の子孫、藤原一族の出ということになる。

多胡碑の碑文も考え併せたとき、さらに当惑させられるのは、多胡郡を与える側も藤原氏なら、与えられる側もまた藤原氏になることだ。しかも、右大臣として碑文に名前のある藤原不比等は鎌足の子である。伝承のとおりに羊太夫が鎌足の五代の孫だったとすれば、生きた時代が違う者同士が同じ場に居合わせたことになる。

この点について、関口昌春氏は著書『羊太夫伝承と多胡碑のなぞ』において非常に興味深い見解を披露している。

それによると、大織冠と称されるのは後に藤原を賜姓される鎌子(後の鎌足)ただ一人だが、その百年ほど前に鎌子がもう一人存在する。日本書紀では欽明13(552)年に登場する中臣連鎌子である。つまり、欽明朝の鎌子から数えればその五代の孫も鎌子であり、その嫡男は藤原不比等。しかも、不比等は未年生まれである。

また、伝承にある羊太夫宗勝とその父・勝定という名については、不比等と鎌足それぞれの法名が使われているのではないかという。すなわち、勝定を鎌足にあて、宗勝を不比等にあてる。不比等には、出家して定恵と名乗った兄・真人がいた。つまり、父親の法名である勝定を兄弟で一字ずつ分かち合ったのである。関口氏は、事情を知るべき者だけにそれが伝わるよう、あえて実名を伏せたとみている。ここに至って、曖昧模糊とした羊太夫の像は、あろうことか藤原不比等へと収斂するのである。

しかし、多胡郡を与えた側と与えられた側が同一人物という、およそあり得ない状況設定だけに筆者はかえって妙な真実味を覚える。

闇に葬られた史実がそこに封印されているような気がするのである。