旅の空

日本・謎の石造遺物紀行

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群馬編その2「多胡碑周辺の古墳を訪ねて」

古墳王国群馬

古代史に興味があるか、群馬県民でもない限りはご存じないかもしれないが、群馬県には推定で1万2千基以上もの古墳があるという。知られざる古墳王国なのだ。100mを超える大規模な墳丘や巨石積みの石室、豪華な副葬品の数々は大和政権とつながりの深かった有力な豪族の存在を今に伝える。

多胡碑のある高崎市を中心に、藤岡市、前橋市にかけて、巨石建造物と呼ぶのがふさわしい石室を備えた古墳をいくつか訪ねた。

羊太夫にまつわる謎を秘めた多胡碑と併せて、これら周辺の古墳を巡る旅はいかがだろうか。「石好き」ならば、たとえ予備知識が一切なくても楽しめること請け合いである。

多胡薬師塚古墳
形式築造年代墳丘長墳丘高墓室石室長玄室長玄室高
円墳7世紀後半約25m約3.5m横穴式4.95m2.1m1.7m

多胡碑の最も近くにある古墳がこの多胡薬師塚古墳だ。多胡碑からは南西に約2.4km、上信越自動車道・吉井インターチェンジからは北東約300メートルに位置する。住宅と畑が混在する一角にあり、案内標識もないため、詳細な地図なしに辿り着くのは難しいだろう。ここへ行くには最寄りの多胡公民館が目印となる。古墳に駐車場はなく、車は公民館に止めるよう注意書きがあった。

多胡薬師塚古墳:墳丘多胡薬師塚古墳:石室

この古墳の石室には多胡碑と同じ牛伏砂岩が用いられ、精巧な切石に一部、切組積み手法をとり入れた高度な石材加工が施されているという。『多胡碑が語る古代日本と渡来人』によれば、多胡碑の加工技術にも通じる切石技術を駆使した古墳は吉井地区ではこの古墳の他にはもう1基だけで、当地の最有力者が埋葬されたと推定される。多胡郡建郡は8世紀初めの出来事であり、これらの被葬者が関わったのかもしれない、と。

それは、羊太夫のことを言っているのだろうか。

多胡薬師塚古墳:玄室多胡薬師塚古墳:羨道

【所在地】高崎市吉井町吉井川穴塚41

【URL】高崎市公式サイト

山上(やまのうえ)古墳
形式築造年代墳丘長墳丘高墓室石室長玄室長玄室高
円墳7世紀中葉約15m約5m横穴式7.4m2.7m1.7m

上信電鉄の線路を渡り、このまま車で進んで大丈夫かと少し不安にさせる狭い道をしばらく進んだ先の山間に山上古墳はある。道は少々狭いが古墳見学用の駐車場がきちんと整備されている。

しかし、古墳はそこからは見えない。名前のとおり、長い階段を5分ほど上った山の上だ。

山上古墳:墳丘山上古墳:羨道入口

古墳の解説を引用する。「石室は、遺体を納める玄室と、これに通じる羨道からなり南南西に口を開いている。羨道から玄室に入る所で、部屋の幅が拡がると同時に天井も高くなる。この部分の左右の壁には柱状の石をたて、天井も一段高くして玄門を形作っている。石室を組み立てている石材は、この丘陵を形成している第三紀層から凝灰岩(堆積岩)を切り出したもので、方形または長方形に切りととのえ、切石積みにしている。」

山上古墳:玄室山上古墳:羨道

側壁は巨石二段積み、奥壁には巨大な一枚岩を使用している。使われた石の大きさもさることながら、まるでコンクリート構造物のように平滑な面の加工に驚かされる。

それにしても、これだけの巨石をどうやってここまで運んだものか。


【所在地】高崎市山名町字山神谷2104

【URL】高崎市公式サイト

七輿山(ななこしやま)古墳
形式築造年代墳丘長墳丘高墓室石室長玄室長玄室高
前方後円墳6世紀前半145m16m横穴式(推定)未調査未調査未調査
七輿山古墳:全景

羊太夫伝説ゆかりの古墳である。七輿山という名前は、討伐軍に追い詰められて自害した羊太夫の奥方と側室を7つの輿に乗せてここに葬ったという伝説に由来する。しかし、古墳の築造年代は6世紀前半とされており、実際に7人の女性が墳丘のどこかに埋葬されたのかどうかはともかく、石室の主は羊太夫の時代より200年近く前の人物かもしれない。

七輿山古墳:前方部七輿山古墳:周濠跡

145メートルという全長は、6世紀の古墳としては東日本最大級の規模である。『多胡碑が語る古代日本と渡来人』によれば、墳形は真の継体天皇陵と目される大阪府高槻市の今城塚古墳と近似し、築造年代も近いため、継体天皇と関係が深い上毛野の大首長の墓であると推測される。調査が行われていないため、埋葬施設の形式や規模はわかっていない。

七輿山古墳:前方部七輿山古墳:前方部

墳丘を一周してみる。かつては墳丘を覆い尽くしていたであろう葺石が所々に残っている。周濠の跡もはっきりと見て取れる。遠目には自然の小山のようだが、前方部の直線を見ると人工建造物であることがはっきりとわかる。墳丘の上から周囲を見渡すと、16メートルという数字以上の高さが感じられた。


【所在地】藤岡市上落合七輿831-1ほか

【URL】藤岡市公式サイト

伊勢塚古墳
形式築造年代墳丘長墳丘高墓室石室長玄室長玄室高
不正八角形墳6世紀後半27.2m6m横穴式8.9m4.7m2.5m

伊勢塚古墳の特異な点は、まず第一に八角墳という珍しい墳形を採用していることだ。八角墳といえば、舒明天皇陵(段ノ塚古墳)に始まり、斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、天智天皇陵(御廟野古墳)、天武・持統天皇合葬陵(野口王墓古墳)、文武天皇陵(中尾山古墳)に至るまで、7世紀中葉から8世紀初頭の天皇陵に特有の形とされているのだ。その八角墳がなぜ、群馬にあるのか。

伊勢塚古墳:墳丘伊勢塚古墳:石室入口

もう一つは、模様積と呼ばれる独特の技法によって石を積んだ見事な石室だ。棒状の小さな石材を積み上げる中に一定間隔で中くらいの転石を置いていく。伊勢塚古墳より大きな石室を持った古墳なら他にいくらでもあるだろうが、これほど美しい模様の石室が他にあるだろうか。これを造った工匠は芸術家であろう。

見上げれば、今にも押し潰されそうなほどの巨岩が天井を塞いでいる。繊細な意匠を凝らした壁面との対比が圧倒的だ。

伊勢塚古墳:玄室 伊勢塚古墳:玄室 伊勢塚古墳:玄室 伊勢塚古墳:玄室 伊勢塚古墳:玄室 伊勢塚古墳:玄室

【所在地】藤岡市上落合字岡318ほか

【URL】藤岡市公式サイト

観音山古墳
形式築造年代墳丘長墳丘高墓室石室長玄室長玄室高
前方後円墳6世紀後半97m9.5m横穴式12.65m8.12m2.68m

前方後円墳の形とはこれほど美しいものかと思った。墳丘の段もはっきりと残っている。ただ、一帯は古墳公園として整備されており、墳丘も修復されているのだろう。

観音山古墳:墳丘観音山古墳:墳丘

この古墳も実に見事な、驚くような石室を備えている。ブロック状に整形された30~40センチの切石で壁面全体を積んでいるのだ。何とも日本離れした趣向である。それに対し、天井石には最大で22トンもの自然石が用いられているという。入念に石を切り揃えた壁面とは対照的だ。

観音山古墳:切石積石室

残念ながら、石室の入口にある柵は施錠されており、普段は中へ入ることができない。内部を見学するには、高崎市教育委員会への事前の申請が必要らしい。


【所在地】高崎市綿貫町1752

【URL】高崎市公式サイト

観音塚古墳
形式築造年代墳丘長墳丘高墓室石室長玄室長玄室高
前方後円墳6世紀末105m12m横穴式15.3m7.14m2.8m

カーナビの案内に従って幹線道路を折れた先は、予想に反し、民家が建ち並ぶ住宅街であった。こんな場所に6世紀末の古墳があるのだろうかと思った。

古墳の周囲に駐車場はないため、観音塚考古学資料館に車を停める。この資料館では石室見学用に懐中電灯を貸してくれる。古墳は資料館から歩いて5分もかからない距離にある。資料館の駐車場から鎮守の森のように見える小山がそれだ。

観音塚古墳:墳丘観音塚古墳:石室入口

石室に入った途端に度肝を抜かれるのは、使われた石の巨大さである。その大きさたるや、最大で10畳分、重さは55トンにも達する。これだけの巨石を、北を流れる烏川という川の上流から運んできたのだという。一体どれほどの人足が必要だったのだろうか。とてつもない石の大きさに圧倒されて、しばし茫然と佇んだ。

観音塚古墳:玄室

石室内部が調査されることになったきっかけは、戦時中、周辺住民が墳丘に防空壕を掘ろうとしたことだったという。石室からは30種300点余りに及ぶ副葬品が出土した。その豪華さと豊富さから、大和朝廷がいかにこの古墳の主を重要視していたかがわかるという。

観音塚古墳:玄室から玄門観音塚古墳:羨道から玄門

銅碗、太刀、馬具など、見事な装飾が施された出土品の数々は考古資料館に展示されている。古墳見学の帰りにぜひ立ち寄ることをお勧めしたい。


【所在地】高崎市八幡町800-144(高崎市観音塚考古資料館)

【URL】高崎市公式サイト観音塚考古資料館

八幡塚古墳(上毛野はにわの里公園)
形式築造年代墳丘長墳丘高埋葬施設円筒埴輪の数葺石の数
前方後円墳5世紀96m8m竪穴式石槨・舟形石棺推定6,000本推定398,000個

保渡田古墳群と総称される二子山、八幡塚、薬師塚の3古墳は現在、上毛野はにわの里公園として整備されている。墓室が竪穴式であることからも明らかだが、同じ前方後円墳でも、七輿山や観音山、観音塚と比べると、これらの古墳は1世紀ほど古い様式である。

3基の中で最も見ごたえがあるのは八幡塚古墳だ。古墳全体に円筒埴輪が立ち並び、その表面は膨大な数の葺石で覆われている。後円部には古墳内部へと下りる階段が設けられ、大きな舟形石棺も見ることができる。古墳が造られた当時を再現した復元古墳である。古墳といえば、鬱蒼と木が生い茂った小山を思い浮かべる人は多いかもしれないが、それは単に長年、維持管理されなかったために荒れ果てただけなのだ。前方後円墳の様式も時代によって違いがあるため一概には言えないが、造られた当時はこのような姿をしていたのである。

八幡塚古墳:墳丘八幡塚古墳:復元埴輪

公園内にあるかみつけの里博物館には、この薬師塚古墳などから出土した見事な埴輪が展示されている。古墳グッズが充実したミュージアムショップもある。この博物館も古墳見学の後に立ち寄ることをお勧めする。


【所在地】高崎市井出町1514

【URL】高崎市公式サイト

蛇穴山(じゃけつざん)古墳
形式築造年代墳丘長墳丘高墓室石室長玄室長玄室高
方墳8世紀初頭40m5m横穴式3m同左1.8m

蛇穴山古墳と宝塔山古墳とはそれぞれ140メートル足らずと非常に近い位置にある。その間には前橋市立図書館総社分館があり、車はそこの広い駐車場に停めればよかろう。先に蛇穴山古墳を見学し、その後に宝塔山古墳へ行った方がよいと思う。

蛇穴塚古墳:石室蛇穴塚古墳:玄門

この古墳には横穴式にはつきものの羨道がなく、玄門と玄室のみという特殊な石室である。しかし、天井、奥壁、左右の壁、いずれも見事に加工した各1枚の巨岩で構成している。この石室に見られるように、石材の縁に切り込みを入れて他の石材と組み合わせる技法を切組積(截石切組積)という。精巧な細工を施した玄門とともに、当時の石材加工技術の高さを物語るものだ。

蛇穴塚古墳:玄室蛇穴塚古墳:玄室から玄門

隣接する宝塔山古墳とともに最終末期の古墳に位置づけられるという。この後の時代では、もはや古墳自体が造られなくなるのである。


【所在地】前橋市総社町総社1587-2

【URL】前橋市公式サイト

宝塔山(ほうとうざん)古墳
形式築造年代墳丘長墳丘高墓室石室長玄室長玄室高
方墳7世紀末~8世紀初頭55m11m横穴式12.4m3.3m2.1m

自然の小山のようで、よく見るとピラミッドのような形をした墳丘である。墳丘長55メートル、墳丘高11メートルという規模は、方墳としては全国的にみても大きいという。

宝塔山古墳:解説宝塔山古墳:石室入口

石室も墳丘の規模に相応しい見事なものだ。使われた石材が大きいだけでなく、切組積を駆使した精巧な加工は、ペルセポリスの基壇を彷彿とさせる。

玄室には石棺も残っている。近所の住人が供えたものだろうか。訪ねた時、石棺の上に柿と栗が置いてあり、モノトーンの空間で紅一点、色彩を放っていた。

宝塔山古墳:石室宝塔山古墳:玄室の壁面と天井

『多胡碑が語る古代日本と渡来人』にはこの古墳について次のような記述がある。「家形石棺の存在に加えて、硬質石材を完成度の高い技術で加工し、壁面全体を漆喰で仕上げる特徴は、大和政権との直接的関係を抜きにしては考えられない。」

宝塔山古墳:玄室宝塔山古墳:家形石棺

【所在地】前橋市総社町総社1606

【URL】前橋市公式サイト

あとがき

古墳の石室であるからには、謎の石造遺物とはいえないかもしれない。石室に使われた巨石の運搬には修羅という木製のソリが使われたこともわかっている。

しかし、大勢の人足さえ集めれば、あのような巨岩でも動くものなのだろうか。未だに信じられない気がする。