旅の空

日本・謎の石造遺物紀行

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兵庫編 「石の宝殿」

志都の岩屋
【万葉集 巻第三・355】
大汝 少彦名の いましけむ 志都の石室は 幾代経ぬらむ
大汝少彦名がいらしたという志都の岩屋はどれほどの年月を経ているのだろう。)

奈良時代の官吏、生石村主真人(おいしのすぐりまひと)が歌に詠んだ「志都の岩屋」とは、諸説あるものの、兵庫県高砂市にある生石(おうしこ)神社の御神体、「石の宝殿」を指すとされている。
姫路城の天守閣を遠くに眺めつつ、JR姫路駅から東海道山陽本線に乗って4つ目の宝殿駅で下車すると、目指す生石神社へはそこから西方向へ2キロ足らずの道のりである。

生石神社

生石神社は、標高112mの伊保山の山頂にほど近い中腹に建つ。参道はまるで直角かと思うほどの急な階段である。車道は車1台通るのがやっとの幅だ。途中、参道は山腹をジグザクに上る車道を横切る。
立派な石垣を備えた門をくぐり、社殿を抜けると、巨大な石の立方体がまるで妖怪ぬりかべの如く行く手に立ち塞がる。伊保山は山そのものが一つの岩盤から成っており、石の宝殿はその山体を削り出して造ったものだ。形は、昔のブラウン管テレビという形容が最も的を得ていると思う。
石の宝殿:生石神社Ishi no Houden (Stone Shrine) : Oushiko Shrine
大きさは、東側正面の横幅6.7m、高さ・奥行きはともに5.2mであるが、背面に切妻屋根風の突起があり、それまで含めると7.2mとなる。南北(正面から見て左右)と上面には幅約1.6m、深さ約20センチの窪みが帯状に彫られている。底面も深く彫りこまれているが、岩盤とつながっているという。そこに溜まった水のせいで、池の上に浮かんでいるようにも見えるので、浮石とも呼ばれる。
度胆を抜かれるのは、推定500トンともいわれる石の重量感だけではない。南北方向にぐるりと彫りこまれた溝、背面の四角錐状突起物、角の面取りなど、この巨石に施された精密な加工もまた然り。

石乃宝殿

石の宝殿の由来について、生石神社の略記は次のように伝える。
「神代の昔大穴牟遅(おおあなむち)少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時 二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰現在の米田町神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである、時に二神宣はく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に寵もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである 以来此の宮殿を石乃寶殿、鎮の石室と構して居る所以である。」
つまりは、出雲の主神にして、国譲りの神話で有名な大国主命と少名毘古那が建てようとした未完の神殿であるというのだ。
石の宝殿:生石神社Ishi no Houden (Stone Shrine) : Oushiko Shrine
占星台説、ゾロアスター教の拝火壇説なども唱えられたが、有力なのは牽牛子塚古墳益田岩船と同様に古墳の横口式石槨説で、いずれも7世紀の斉明天皇に関わるものだという。
石の宝殿があるこの丘陵地帯は古代から石材の一大産地であった。ここで切り出される石材は竜山石と呼ばれ、古墳時代には畿内を中心に大王や豪族らの石棺に用いられた。正式には流紋岩質溶結凝灰岩といい、比較的軟質で加工しやすいのが特徴であるという。
石槨説の根拠となっているのが、形状や製作技法が牽牛子塚古墳や益田岩船と共通している点、特に、南北方向にぐるりと彫られた溝の幅(1.2m)が益田岩船と全く同じであることだ。そして、草木が生い茂っている上面の窪み部分には益田岩船と同様に穴が開いているはずだという。

疑問

しかし、筆者は牽牛子塚古墳、益田岩船、石の宝殿を3つとも現地で見て、少なくとも益田岩船と石の宝殿の形が似ているとは思えないのだ。溝の幅が一致するという共通点はたしかにあるのだが。
最大の難点は、背面にある四角錐状の突起物だろう。石槨にこのような突起物は無用である。そもそも、この突起物こそがこの宝殿の最大の謎ではないか。上に行くほどすぼまる形状なので、例えば、縄をかけるといった実用目的があったとは思えない。削り取る前の段階だったとすれば、あれほど丁寧に加工するとも思えない。
造った位置も問題だ。実際に行った方ならおわかりだろうが、石の宝殿のある山頂付近から推定500トンもの巨石を下ろし、それをさらに大和まで運ぼうなどとは、いかに命令一つで何十万でも人足を動員できた時代だとしても非現実的すぎる。何となれば、飛鳥にも二上山のように竜山と同じ凝灰岩を産する石切場はあったのだ。
石の宝殿:生石神社Ishi no Houden (Stone Shrine) : Oushiko Shrine
かといって、あの場所に斉明天皇の墳墓を造営しようとしたというのはもっと考えにくい。大王級の石棺用の石材を切り出していたとはいえ、周囲が石切場という土地に天皇の墓を造るだろうか。天皇陵は被葬者にとって縁の深い場所に必ず造られたはず。だからこそ、九州で亡くなった斉明天皇も飛鳥に葬られたのではないだろうか。
万葉集の歌も気になるところだ。『続日本紀』巻第十八に「天平勝宝二(750)年1月16日、正六位上の大石村主真人に外従五位下を授けた」とあるように、生石村主真人は8世紀半ばの人物である。もし、石の宝殿が斉明天皇陵として造られたなら、斉明天皇からせいぜい百年後にしか過ぎない天平時代に、「志都の石室は幾代経ぬらむ」などという歌が詠まれるものか。
さらに、2008年に日本文化財探査学会が電波や超音波を使って石の宝殿を調査したところ、内部に空洞が存在することを示す計測結果は得られなかったという。石槨説を裏付ける有力な根拠となるべき、益田岩船と同様の穴は石の宝殿には存在しなかったのである。石槨説は旗色が悪くなったようにみえる。

鎮の石室(しずのいわや)

石の宝殿は一体、何のために造られたのか。伝承どおり、大国主命と少彦名を祀る神殿だったと考えるほかないのではないだろうか。
8世紀に成立した『播磨国風土記』は、聖徳太子の時代に弓削の大連(物部守屋)がこの宝殿を造ったと伝えている。物部守屋は、仏教の受容に反対し、日本古来の神のみ崇めることを主張した豪族である。蘇我馬子・厩戸皇子らと戦い、物部守屋は滅ぼされる。
生石神社の略記には、大国主と少彦名の二神が国土を鎮めるために石の宮殿を造ったとあるが、さらに、「この工事に依って生じた屑石の量たるや又莫大であるが、この屑石を人や動物に踏ませじと一里北に在る霊峰高御位山の山頂に整然と捨て置かれて居る。」という。掘削により生じた大量の破片を4キロも離れた高御位山の頂上に運んだというのである。その高御位山は大己貴命と少彦名命が降臨した場所とされ、その二柱を祭神とする高御位山神社がある。
石の宝殿は、やはり、大己貴命・少彦名命に意味づけられている。古代の出雲大社が、現在の約2倍、48メートルもの高さがあったことを考えれば、石の宝殿が同じ大国主命を祀る空前絶後のモニュメントだったとしても不思議はないと思う。神代の昔まで建造が遡ることはないにしても。
石の宝殿:生石神社Ishi no Houden (Stone Shrine): Oushiko Shrine
上述のとおり、宝殿の底部は岩盤とはまだつながっているものの、深く抉られている。略記の「正面に起こすことが出来なかった」という件には真実味が感じられる。宝殿は実際に引き起こすはずだったのだろう。背面の角状突起物は屋根を模したものとも考えられるし、他に何か象徴的な意味があるかもしれない。しかし、それならなぜ最初から起こした形で彫らなかったのかという疑問は残る。

石の山 (Kuh-e Sang)

日本を代表する名城、白鷺城。姫路駅から姫路城へと向かう人波は引きも切らない。しかし、そこからわずか4駅の距離にある石の宝殿まで訪れる人はその中で一体どれほどだろう。筆者としては、たとえ姫路城へは行かなくても、生石神社へは足を運ぶことをお勧めしたい。
竜山石の石切場石の宝殿グッズ
石の宝殿の両脇の岩肌には山の頂上へ続く階段が彫りこまれていて、回り込んで真上から石の宝殿を眺めることもできる。ここからは、竜山石を切り出した再生上の白い岩肌もよく見える。
伊保山の頂上に立つと、この山が一つの巨大な岩であることを改めて実感する。圧倒的な景観だ。イランでよく見かける山のようだとふと思った。