旅の空

イランの旅 2009

3

ビーシャープール

シーラーズからビーシャープールへ

朝食のため、ホテル1階のレストランへ降りると、先客は一人もいなかった。時間が早いだけではない。夏休み期間だというのに、宿泊客がほとんどいない様子。ラマダンの影響はあるだろう。
手持無沙汰なウェイターたちがいるだけのがらんとしたレストランで一人、食事をする。バイキングのサラダを皿に盛ろうとして、妙なものを見つけた。ドレッシングの容器に使われていたのは、キッコーマンでお馴染みの「醤油つぎ」だった。つくづく、思いもよらないところで日本のものと出会う国だ。
8時過ぎ、迎えに来たガイドの車に乗りこんでホテルを出発する。5年ぶりに見るシーラーズの街は、高層住宅がやけに目につく。5年前にもこんな高い建物があったかどうか。地下鉄を建設する計画もあるという。なんだか、街の風景がテヘランに似ていくようだ。
シーラーズからビーシャープールへ向かう途中の風景 ビーシャープールは、シーラーズからは120kmほど西にあるササン朝都市遺跡である。
イランでは、郊外の一般道路は日本でいうと高速道路のようなもの。1時間もあれば着くと予想していた。8時という出発時間は少々早過ぎるのではないかと。
しかし、車で走るうちにそうはいかないことがわかってくる。
シーラーズを出て郊外へ少し車を走らせると、それまで、平原のほぼ一直線だった道は険しい山岳路へと変わる。起伏の激しい曲がりくねった道では思うようにスピードを出せず、遅いトラックが前を走っていても、見通しの悪いカーブばかりで追い越しもままならない。
ビーシャープールまではゆうに2時間がかりだ。

対ローマ戦勝記念レリーフ 1

ビシャプール:対ローマ戦勝記念レリーフThe relief of Shapur I: Bishapur
ビーシャープールに入る少し手前で岩場に彫られたレリーフを2つ見た。どちらも、3世紀、ササン朝ペルシアがローマ帝国との戦いで勝利したことを記念するものだ。最初に見た方は損傷が激しく、中央で跪くローマ皇帝の姿は識別できるものの、肝心のペルシア王はほとんど原形をとどめていない。ガイドは、外は暑いし、ここは車の中から見学してはどうかと勧めたが、興奮して、車から降りずにはいられなかった。

対ローマ戦勝記念レリーフ 2

こちらも、シャープール1世の対ローマ戦勝記念レリーフである。ナグシェ・ロスタムのレリーフが有名だが、敵方の皇帝をも捕虜とした歴史的勝利は、レリーフに繰り返し彫られる題材となっている。
ビシャプール:対ローマ戦勝記念レリーフThe relief of Shapur I: Bishapur
こちらのレリーフは、岩陰にあるせいか、比較的、保存状態が良かった。馬上のシャープール1世、跪くフィリップス・アラブス帝、両手をつかまれたヴァレリアヌス帝だけでなく、家臣や兵士の服装まではっきりと見て取れる。中央には天使らしきものまで彫られている。
ビシャプール:対ローマ戦勝記念レリーフThe relief of Shapur I: Bishapur

ビーシャープール  Bishapur

西暦260年、アッシリア地方エデッサ(現シリアとの国境でトルコ領の町シャンルウルファ)において、ローマ皇帝ヴァレリアヌス率いるローマ軍とシャープール1世率いるペルシア軍が会戦、ローマ帝国軍は、皇帝自らが捕虜になるという未曾有の大敗北を喫した。このとき、ヴァレリアヌス帝とともに数万ともいわれるローマ兵が捕虜としてペルシア本国へ連行された。そして、捕虜となった大量のローマ兵たちは、このビーシャープール(「麗しきシャープール」の都)をはじめ、現在もイラン南部に遺跡が残る灌漑施設や橋などの建設事業に従事させられたという。
捕虜となったローマ兵の中には、技術者や職人もいたようで、この都市は、直線の通りが碁盤目状に交差するギリシア・ローマ的な設計プランによって造られているという。
テヘランの考古学博物館に展示されているモザイクは、ササン朝ペルシアにおけるギリシア・ローマ文化の影響を示す実例とされるが、ここ、ビーシャープールで発見されたものだ。
ビシャプールの風景Bishapur, the ruined city
まず、周囲の異様な地形が訪れる者に忘れがたい印象を与えるだろう。遺跡の背後にせりあがった、とてつもない大きさの岩盤が見る者を圧倒する。
城壁、かつて大ドームがあった宮殿、捕虜となったヴァレリアヌス帝の住居跡などが残っているが、残念ながら、崩壊して、ほとんどが石積みばかりである。原因の一つは、ササン朝ペルシアの採用した建築技法にあるというのがガイドの説明だ。アケメネス朝ペルシアは、巨大な石のブロックと大量の柱で建物を造った。それに対して、ササン朝ペルシアは、小さな石材をモルタルで積み上げていく技法を採用した。この方が建設は容易だが、崩れやすいため、維持補修が必要となる。
ビシャプール:かつて大ドームのあった宮殿跡Bishapur, the ruined city

アナーヒター神殿  Ma'bad-e Anahita

ゾロアスター教御三尊の一つとされ、水と豊穣を司る女神アナーヒターを祀った神殿がビーシャープールの一角にある。この遺跡群の中で最重要建造物だろう。サーサーン家は、エスタフルでアナーヒター神殿に仕える神官の家系だったといわれる。
ビーシャープールにある他の建造物に比べると、ほぼ完全と言ってよいほどの状態を保っている。使われている石材が大きく、丁寧な加工がされているからだ。石の切り方、積み方は重厚かつ緻密でローマの水道橋を思わせる。
ビシャプール:アナーヒター神殿Anahita Temple: Bishapur
神殿は地面を掘り下げて造ってある。石張りの内陣には、かつて水が張られていた。トンネル状の回廊が内陣を囲んでいて、階段を降りると正面と左右に回廊への入り口が開いている。4つの出入口と十字形の動線は典型的なササン朝建築である。
回廊の両端には溝が通っている。近くの水源から引いてきた水を回廊に引き込み、そこから内陣へと巡らせる構造になっているのだ。ある一定の作法で水を流し、湛える。そのことにどれだけ心血を注いだかがよくわかる。水に対するこの思い入れの強さは想像を超える。
回廊のトンネル状アーチは驚くほどの精巧さだ。タフテ・ソレイマーンにもよく似た形の遺構があった。
ビシャプール:アナーヒター神殿Anahita Temple: Bishapur
ビシャプール:内陣を囲む回廊内部The watercourse of corridor, Anahita Temple : Bishapur

謎の石柱

アナーヒター神殿から奥へさらに歩を進めると、並び立つ2本の円柱が見えてきた。建物を支えるためのものには見えない。2本の柱の前にも基壇があり、かつては上に何かが置かれていたかもしれない。宗教的、儀式的な意味合いを感じる。
ビシャプールThe column: Bishapur
柱の表面にはパフラヴィー文字らしきものがびっしりと彫られている。柱頭を見て驚いた。これは、アカンサス文様、ギリシア・ローマ様式の柱飾りではないのか。
ローマ人によって建設された町だということはわかっていても、これが、ローマ世界から遠く離れたイランにあるのは不思議な気がする。

麗しきシャープールの都

ガイドの話では、この広大な遺跡の全てを見て歩くとすれば、2~3日はかかるという。主な見どころは押さえたはずだが、2時間余りで見ることができたのはごく一部にすぎない。
ビシャプールBishapur
少なくともここにいる間、外国人はおろか、イラン人観光客にも出会わなかった。ここがマイナーな遺跡だからなのか、あるいは、これもラマダンの影響なのか。