旅の空

イランの旅 2013

6

チェル・ベルケ(イージ)

40の池

ボンダッレの泉を出て車で5分と走らないうちに、その遺跡は不意に姿を見せた。しかも、断崖絶壁といっていいような岩山の中腹に。遺跡はチェル・ベルケ(Chel Berke)という名で呼ばれているようだ。

チェル・ベルケ(イージ)(Chel Berke, Ij)

この遺跡を知ったのは、ボンダッレの泉と同様、写真投稿サイトでたまたま見つけた写真がきっかけだ。

chelとはchehel(40)の省略形、berkeは池や水たまりを意味する。つまり名前の意味は「40の池」。

航空写真を見ると、遺跡はたくさんの小部屋に仕切られていて、たしかに貯水施設のようにも見える。

だが、下から見ると、それはまるで石積みの堅固な要塞だ。城壁には一定間隔で円柱の塔のような膨らみがある。これはササン朝時代の造形であろう。

航空写真での計測だが、遺跡の平面長は約150m、奥行きは約45mと思われる。

チェル・ベルケ(イージ)(Chel Berke, Ij)

事前にネットの写真を見ていたので、山の上にあるということは知っていた。しかし、実際に目の当りにするとやはり驚きを禁じ得ない。あのような巨大建造物をなんというとんでもない場所に造ったものか。

果樹園を抜けて

さすがにあそこまで上るのは無理だと思った。下から写真を撮るだけでもいいから、もう少し近づきたい。

道路とチェル・ベルケのある山との間には塀で囲まれた果樹園(bagh)が横にずっと広がっている。ハメドさんやバーバクさんは、私有地である果樹園を横切らない限り山の麓へ行くことはできないと言う。

僕は事前にグーグルマップを見ていた。ここを一旦通り過ぎて集落から回り込めば道があるという僕の主張はしかし、聞き入れられなかった。

チェル・ベルケ(イージ)(Chel Berke, Ij)

本当に他の道はないのだろうか。ハメドさんが近くを通りがかった農作業車に尋ねたところ、親切なことに、それならうちの果樹園を通って行けばいいと言ってくれた。

道路と果樹園の間の土地は、至る所、重機で土を掘り返したようになっていた。根こそぎ抜かれた木が何本も転がっている。これは、どうやら水害の痕跡のようだ。

登山

果樹園を抜けると、山並みに平行して小道が通っている。チェル・ベルケに最も近づける地点は向かって左側だと思われた。

おそらく遺跡への最短ルートである北西側斜面に出る。写真を撮って帰るつもりが、尾根付近から城壁に続く石積みを見た途端、やっぱり上まで行きたくなってしまった。

しかし、いざ見上げると、登るのはどうかと思うほどの急斜面である。写真ではそう見えないかもしれないが、その険しさはヤズドの沈黙の塔どころではない。おまけに道らしい道があるわけでもない。「ここを登るの?」とハメドさんが聞いてくる。至極真っ当な感覚である。

チェル・ベルケ(イージ)(Chel Berke, Ij)

そのときはまだ、何としても登ろうという声とやめておこうという声が自分の中でがせめぎ合っていた。

しかし、頭で考えるより先に足が動き出す。いつもとは違う何かが自分を動かしているような気がした。「あんな建物を造ったからには登る道が必ずあったはず」。自分でも妙なことを言っていると思った。

予定外の山登りをすることになった。急角度の上に、斜面はやや小ぶりな岩石が堆積した、いわゆるガレ場である。こんなこともあろうかと思って、一応、アウトドアシューズを履いていたが、それでも足元がやや心許ない。上りは良くても下りが怖いかもしれないと微かに思った。

チェル・ベルケ  Chel Berke

左端の城壁の真下まで近づくことのできる地点が途中にある。しかし、残念ながら、そこから遺跡に入ることはできない。

チェル・ベルケ(イージ)(Chel Berke, Ij)

城壁を近くで見ると、その不思議な形や美しさはさることながら、保存状態の良さに驚かされる。

チェル・ベルケ(イージ)(Chel Berke, Ij)

それにしても、一体どうして、こんな場所にこのような巨大建造物を造る必要があったというのか。

チェル・ベルケ(イージ)(Chel Berke, Ij)

上るにつれ、斜度も増していくようだ。ハメドさんはとうとう足を止めてしまった。「もうこのくらいにしましょう」。それを、「僕は上まで行きたい」と言ってガイドを置いてかまわず進んでいく。これほど向こう見ずな一面があったとは自分でも驚いた。

チェル・ベルケ(イージ)| Chel Berke (Ij)

下から見たとき、尾根直下にある高い石積みはチェル・ベルケ本体へと続く通路だろうと僕は予想した。そして、ちょうど石積みが低くなった箇所があるので、そこからきっと通路へ這い上がれるに違いないと思った。

しかし、残り20mもないところで、斜面の傾斜がさらにきつくなった。さすがの僕も怖気づいてきた。これ以上進むと今度こそ本当に下るのが危険かもしれない。

このまま進むか引き返すか、しばらくその場で逡巡した。あとほんの少し登るだけじゃないか、と言う自分がいる。この遺跡に来る機会はもう二度とないんだぞ。でも、僕は研究者じゃない。夏休み中の単なる旅行者だ。無事に帰国して仕事に復帰しなければならない。命をかけるわけにはいかない。

ここまで来て、ようやく我に返った。少し下の位置で待っているハメドさんに「下ります」と声をかける。

下山

登る前からわかっていたことではあるが、本当に怖くて危険なのは下りだった。下りる段になって始めて、自分が登ってきた斜面の高さと険しさを思い知る。もはや、写真を撮る心の余裕はない。

不安定な小石や岩にどうしてもどこかで体重を乗せざるを得ない。下手をすれば、麓まで硬い岩肌を一気に転げ落ちてゆくだろう。一瞬たりとも気を抜けない、全く生きた心地がしない下山だ。石橋を叩いて渡るように慎重に歩を進めたつもりだが、滑って手のひらを擦りむいた。

この旅行記を読んでここに行ってみようなどと考える人がそういるとは思えないが、単独行は決して勧められない。万が一、滑落して負傷又は最悪、死亡した場合、ここでは誰にも気付いてもらえない可能性が高いのだ。もし登るなら、登山用手袋か最低限、軍手は必要だ。要するに、チェル・ベルケへ行くのは岩山の登山をするのと変わらないのだ。

思えば遠くへ来たものだ。9年前に初めてこの国へ来た時、僕はごく普通の観光旅行客に過ぎなかった。それが今では、学者ぐらいしか行かないような遺跡のために危険な山道を歩いている。考えてみれば、考古学者というのは案外、危険を伴う職業なのかもしれない。

ようやく麓に近づいてきた。全身を流れる汗は暑さのせいか、それとも冷や汗なのかわからなかった。

平地に両足が着いたときの解放感と安堵感は格別だった。思わず、ハメドさんの方を向いて両手を挙げ、「やったー」と声をあげた。

果樹園にて

果樹園を通らせてくれた主は見たところ60代半ばであった。無事帰還した我々にお茶を振る舞ってくれた。

敷物に腰を下ろして見渡すと、充分色づいた見事なザクロが辺り一面に実っている。二人とも、よく冷えた水を3杯に紅茶を2杯もいただいてしまった。遠慮がないと言われそうだが、それほど喉が渇いていたのだ。

畑にいるというのに、このご主人が淹れてくれた紅茶は実に美味しかった。それに、取っ手がついたシンプルで小粋なグラスはフランス製。たとえ畑にいてもお茶を嗜むとは粋である。

果樹園:イージ果樹園に実るザクロ:イージ

遺跡についての話も聞かせてくれた。

ご主人によれば、チェル・ベルケの山登りをする人は必ず朝早くに登り始めるということだ。我々のように日が高くなってから登る人はいないらしい。

そしてさらに、驚くべき話をこのご主人は披露してくれたのである。

なんと、チェル・ベルケはかつて、先ほど訪れたボンダッレの泉から水を引いていたというのだ。実際、山の上には水路が残っていて、以前は水が流れていたのを自身も見たそうだ。

にわかには信じがたい話である。というのも、ボンダッレからチェル・ベルケへと水が流れていたというからには、チェル・ベルケよりもボンダッレの方が標高が高くなければならないが、感覚的にそうは思えなかったからだ。

もし果樹園のご主人の言うことが事実なら、それは、古代ローマにも比肩しうる水道技術がこの地方にあったことを示唆するものではないだろうか。しかも、イラン伝統のカナート(地下水路)式とは違う系統である。

ボンダッレの泉とチェル・ベルケとの間につながりがあるとは全く思いもよらないことだった。

ダーラーブへ

バーバクさんが果樹園の外で何か叫んでいる。そろそろ出発しようと催促しているようだ。木陰が気持ち良くて、ついのんびりしてしまった。ダーラーブまで、まだ50kmほどの道程が残っている。

帰り際、ハメドさんは果樹園のご主人にチップをいくらか握らせていた。そんなものはいいのにと、本人は笑ってすぐには受け取ろうとしなかったようだが。こういう気遣いのできる文化は素晴らしくないだろうか。

果樹園を出て、チェル・ベルケの方を振り返る。

チェル・ベルケ(イージ)(Chel Berke, Ij)

あの断崖絶壁の上に、あのような巨大建造物を造るよう古の人を駆り立てたものは一体何だろう。

チェル・ベルケ(イージ)(Chel Berke, Ij)

それに、ボンダッレの泉でも書いたが、イージとは一体どういう場所なのだろうか。

ここに立ち寄ったおかげで予期せぬ大きな収穫があったが、来る前より謎はかえって深まった。

追記 2013/10/24

古代世界の午後』管理人のzae06141様から貴重な情報を頂いた。

11世紀から14世紀にかけて、シャバーンカーラという地方王朝がイージに都を置き、ダールルアマーンなる城塞を築いたという。

シャバーンカーラについては、上智大学のウェブサイトで渡部良子氏による論考を閲覧できる。(『Daftar-i Dilgushaに見えるシャバーンカーラ史の叙述 : モンゴル時代史研究における韻文史書利用の可能性 (特集 イラン世界とその周辺地域-その形成と展開)』)

また、『From Pasargadae to Darab』という書籍の95頁に、Dogan(イージの南西10km)の東にあるHabs-e Isfandiyar(イスファンディヤールの監獄)という遺跡について、次のような記述があるという。

Isfandiyar (Isfandiyars Prison)
East of Dogan is the ruined fortress of Habs-e Isfandiyar, on the crest of a rocky spur, where columns, rock-cut cisterns and other remains of probably Sassanian or early Islamic date.

ダールルアマーン城塞がチェル・ベルケを指すのかどうか、筆者は現時点で情報を持ち合わせていないが、Habs-e Isfandiyarは、間違いなくチェル・ベルケを指していると思う。