イランの旅 2013
12
ナグシェ・シャープール、アーザルジューイの拝火神殿
ナグシェ・シャープール Naqsh-e Shapur
ダーラーブ市街の南西端から、南東方向へ10km以上にわたって連なる岩山がある。
ナグシェ・シャープールと呼ばれるササン朝時代のレリーフは、その山並みのほぼ中間にあたる南西斜面に刻まれている。
ちなみに、マスジェデ・サンギーやアースィヤーベ・サンギーはナグシェ・シャープールから5kmほど離れた同じ山並みの南東端にあり、ナグシェ・シャープールから南西方向に目を移せば、その10km先にはダーラーブゲルドがある。
レリーフの高さは約5m、幅は約6mといったところか。地上から5mほどの高さで岩壁に彫り込まれている。
ナグシェ・シャープール(シャープールの絵)は、ササン朝の王シャープール1世が3世紀にローマ帝国との戦いで勝利したことを記念するレリーフである。ナグシェ・ロスタムやビーシャープールで同じ主題のレリーフを見てきた。
しかし、同じ主題でも、ナグシェ・シャープールの作風は他の2つとかなり違いがある。
まず、ナグシェ・シャープールの彫刻は、ナグシェ・ロスタムやビーシャープールに比べて不器用な印象を受ける。レリーフ右上部分の、頭部だけが浮き彫りされた臣下の像などまるで亡霊のようだ。この素朴さがナグシェ・シャープールの魅力といえるのかもしれないが。
レリーフに彫られた王の仕草にも違いがあって面白い。ナグシェ・ロスタムやビーシャープールでは、馬上のシャープール1世が捕虜となったローマ皇帝の両手を掴んでいるのに対し、ナグシェ・シャープールでは相手の頭を押さえつけている。
さらに、王冠にも大きな違いがある。シャープール1世のトレードマークともいうべき「城壁冠」が、ナグシェ・ロスタムやビーシャープール、コインの肖像でははっきりと描かれているのに、ナグシェ・シャープールのレリーフにはそれがないのだ。
ササン朝ペルシアの王冠は、王によって形が全て異なっているため、その像が描かれた人物を特定する識別子となっている。ナグシェ・シャープールの場合、王冠と球体の頭飾りだけ見ると、アルダシール1世のように見えるのだ。レリーフの製作を命じたシャープール1世自身が、ダーラーブゲルドに縁の深い父アルダシールの面影を、ここナグシェ・シャープールに限って自らの肖像に忍ばせたなどということは考えられないだろうか。
アーザルジューイの拝火神殿 Ateshkade-ye Azarjuy
5日目の最後に訪れたのは、旅行会社がダーラーブの見所の一つとして推薦してくれた拝火神殿遺跡である。それまではこの遺跡の存在を全く知らなかった。
場所はおそらくダーラーブから10kmほど西の地点である。ただし、地形や周辺にあった建物を手掛かりにした推定なので、下の地図に落とした位置は正確でないかもしれない。拝火神殿は、航空写真では雲の下に隠れてしまっているのではないかと思う。
名前にある"juy"が「小川」を指すとすれば、"Azarjuy"は「アーザル川」という意味かもしれない。実際、拝火神殿の傍らには川の跡があり、川の名前が付いたとしてもおかしくない。
ちなみに、旅行会社からは、"Azerju"という名前で教えられたが、"ju"と"juy"はどちらも「小川」を意味する。
アーザルジューイの拝火神殿は、一面の畑地帯を抜けて、その奥にそそり立つ荒々しい岩山の麓にひっそりと佇んでいた。神殿が建つ小山は人為的に盛土されたものかもしれない。前述のとおり、神殿と背後にそびえる岩山との間には川筋の跡がある。
遺跡は、天井部分が完全に崩壊し、壁面も下半分以上が崩壊もしくは埋没している。かろうじて残ったアーチ構造によって拝火神殿であったことがわかる。
ちなみに、名前こそアーテシュキャデだが、元の姿はチャハール・ターグであったろう。
小ぶりで形の粗い石材とモルタルを主な材料とする点では一般的なササン朝建築だが、それらに混じって所々で使われている薄いレンガが目を引いた。サルヴェスターン宮殿とも共通する特徴だ。
現存していれば、タンゲ・チャク・チャクの拝火神殿と同程度の大きさだったのではないかと思われる。
さらに、神殿を一周するうち、実は、思いのほか重要な拝火神殿だったのではないかという気がしてきた。
アルダシール・ファッラフの神殿遺跡で見たものと大きさも形も材質も同じといってよい切石が散乱していたのである。
ササン朝時代で確認されている巨石積み建造物は2つ、アルダシール・ファッラフの神殿跡とビーシャープールのアナーヒター神殿のみと青木健氏の著書((『ゾロアスター教の興亡―サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』137頁)にはあるが、この拝火神殿を3つ目に加えられるのではないか。
この大きな切石は川岸にかけて散乱しており、川まで一体のものとして神域を整備していたように見える。
「まただ」と思った。
かつて聖火が焚かれていた拝火壇は、神殿が放棄された際、どこかへ持ち去られてしまったのだろう。
同様に、イラン各地の拝火神殿遺跡を訪ねても、もはやそこに聖火の痕跡を見ることはできない。ただ、池や川など水の跡が残るばかりだ。
アーテシュキャデが聖火護持殿(種火入れ)で、チャハールターグが聖火礼拝殿(拝火壇)というのは本当なのだろうか。様々なササン朝遺跡を見るにつけ、逆に段々とそれが信じられなくなっていくような気がする。
アーザルジューイの夕暮れ
午後6時を回って陽が大分傾いてきた。岩肌に当る光が赤みを増してゆく。一面の畑では青々としたトウモロコシが背を伸ばしつつあった。
タンゲ・チャク・チャクから始まった、とてつもなく濃密な一日が終わる。
追記 2014/2/2
拝火神殿の脇に立っていた遺跡解説板の翻訳を試みた。
マスジェデ・サンギーの時にも書いたが、素人の訳なので、誤りがありうることをお含みおき願いたい。
Āteshkade-ye Āzarjūy
Īn banā-ye chahārtāqī az āteshkadehā-ye mohemm-e 'omr-e Sāsānī būde ast sākhtemān-e aslī-ye āteshkade bar rū-ye soffe-ye 'azīmī be ertefā'-ye hodūd-e 3 metr qarāl dāshte va bevasīle-ye pellekānhā'ī az atrāf be darūn-e āteshkade rāh dāshte ast dar sākhtemān-e īn banā az sang-e āhak, gel va gach estefāde shode ast tūl-e azlā'-ye banā-ye āteshkade hodūd-e 15 metr va ertefā'-ye ān 6 metr mī-bāshad.
Īn banā dar moqābele cheshme va estakhr-e tabī' ī bozorgī qarāl gerefte ast.
Īn āteshkade banā be gofte Mas'ūdī dar "Murūj al-Dhahab" (qarn-e chahārom h.q.) az moqaddastarīn āteshgāhhā-ye zardoshtiyān būde ast.
【試訳】
アーザルジューイの拝火神殿
ササン朝時代の重要な拝火神殿の中でも、このチャハールターグ形式の建造物は、拝火神殿の主要な構造物が3メートルもの高さがある豪壮な基壇の上に築かれ、周囲から神殿内部へと続く階段施設を備えている。
この建造物の材料には、石灰岩と粘土、石膏が用いられている。拝火神殿の建物の辺長はおよそ15メートル、高さは6メートルあっただろう。
この建造物は、(傍にある)天然の大きな泉や池と対照を成している。
この拝火神殿は、『黄金の牧場』(ヒジュラ太陰暦4世紀)でのマスウーディーの言によれば、ゾロアスター教徒にとって最も神聖な聖火所であった。
注目すべき記述は解説板の下から3行目以降にある。
マスウーディーは9世紀のバグダッドで生まれ、10世紀にカイロで没した歴史家、地理学者、旅行家である。
特に、解説板でも言及された代表作『黄金の牧場と宝石の鉱山』によって、「アラブ人のヘロドトス」とも評される傑出した歴史家であったらしい。彼の伝記と膨大な著作の概要については、大阪外国語大学の竹田新氏の論文に詳しく紹介されている。(参照: マスウーディー著『黄金の牧場と宝石の鉱山』の第三〜第六章をめぐって(1)(文化編)
マスウーディーは、当時のファールス州にも実際に足を伸ばし、ゾロアスター教徒たちに会ってゾロアスター教に関する詳細な情報を得ていたようである。その彼が著書の中で、アーザルジューイはゾロアスター教徒たちにとって「最も神聖な」(moqaddastarin)聖火所であったと述べているとある。
青木健氏の著書『ゾロアスター教の興亡‐サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ‐』でもマスウーディーの記述が次のように引用されている。
ジャムシードの聖火を安置した、ダーラーブギルド(Darabjird)の拝火神殿。本来はホラズム(Khwarizm)にあったが、アヌーシルワーンの時代にカーリヤーン(Kariyan)に遷り、アラブの侵攻後にニサーとバイダーに遷った。この火は、今日ではアーザル・ジューイ(Azar Juy)と呼ばれている。
ジャムシードの聖火
はアーザル・フッラの火
とも呼ばれ、ゾロアスター教の三大聖火の筆頭、「アードゥル・ファッローバイ聖火」のことを指すという。