旅の空

イラン 2016

10

ニヤーサル

ニヤーサルの拝火神殿  Chartaqi Niyasar

ニヤーサルは、カーシャーンから直線距離で西へ約25キロ、車で40分ほどの距離にある。マシュハデ・アルダハールやデリージャーンへ向かう街道の途中で道を折れた先にある山間の村だ。この村を見下ろす山の頂に、目指す拝火神殿遺跡がある。

僕は、その拝火神殿が遠くからでも一目でわかる場所に建っているものと思い込んでいた。しかし、車がニヤーサルに近づき、山頂にあるはずの拝火神殿を車窓から探し続けたが、それらしき建造物は見当たらない。実は昨日、マシュハデ・アルダハールからカーシャーンへ向かう道中でもずっと山の上を気にしていたのだが、拝火神殿は見つけられなかったのである。単に見落としただけだろうか。

車が山頂に達し、拝火神殿が唐突に姿を現した時、僕は遺跡を目にした興奮よりむしろ奇異の念に包まれた。

ニヤーサルの拝火神殿 | Chartaqi Niyasar(Niasar Fire Temple)

ニヤーサルの拝火神殿は、四方の壁がアーチ状に開口したチャハール・ターグ形式である。平面が正方形をした建物の四隅にスキンチを架けて丸屋根を載せている。同様の拝火神殿遺跡を、コナール・スィヤーフタンゲ・チャク・チャクアーザルジューイで見てきた。

ニヤーサルの拝火神殿 | Chartaqi Niyasar(Niasar Fire Temple)

遺跡の解説によれば、この拝火神殿が建立されたのはパルティア後期もしくはササン朝初期。アルダシール1世の時代に建てられたとする記録もある。つまり、イランに現存するチャハール・ターグ形式の拝火神殿としては最古の部類に属する。築造年代がパルティア後期もしくはササン朝初期とされている点が僕には意外だった。チャハール・ターグという建築様式は、ササン朝ペルシアで発明されたものとばかり思っていたのだが、実はパルティア時代に確立していたということか。

ニヤーサルの拝火神殿 | Chartaqi Niyasar(Niasar Fire Temple)

12メートル四方とされる基礎部分の大きさから見てドームの高さは8~9メートルであろうか。この拝火神殿にはレンガ状に成形した切石が用いられている。おおまかに成形した砕石を使用する典型的なササン朝建築とはその点が異なる。

ドームは現在、モスク風の形をしているが、元は卵型であった推定される。長い年月を経て崩落していたが、1955年に再建されたという。おそらく、ごく最近も補修が行われたと思われる。

ニヤーサルの拝火神殿 | Chartaqi Niyasar(Niasar Fire Temple)

この拝火神殿の数メートル下(地下?)からは冷たく澄んだ水が湧き出しており、その水がニヤーサルの滝となって、山麓の村へと流れているという(CAIS:Niasar fire temple )。

水に関係しているという点でニヤーサルも他の拝火神殿の例に漏れない。イランにある拝火神殿遺跡を訪ねても、もはや聖火の痕跡はなく、残っているのは水とのつながりを示すものばかりだ。拝火神殿というが、この中で本当に火を灯していたのかという気がしてくる。

ニヤーサルの拝火神殿 | Chartaqi Niyasar(Niasar Fire Temple)

この拝火神殿の用途に関して、フランスの考古学者アンドレ・ゴダールは、デリージャーンとカーシャーンへとを結ぶ街道の道標であって、その灯火は、直線距離で約30キロ離れたカーシャーンからも視認できたという趣旨を著書で述べている。

一方で、2000年にイラン人研究者(Reza Moradi Ghiasabadi)が提唱したのは、太陽の位置や陽射しの角度が季節によって変わることを利用した一種の天体観測施設であったとする説である。

ニヤーサルの拝火神殿 | Chartaqi Niyasar(Niasar Fire Temple)

ニヤーサルの拝火神殿がカーシャーンからも視認できたという件には腑に落ちないものがある。地形図を見ると、カーシャーンとニヤーサルの拝火神殿との間には、神殿の建つ山と同じ標高か、それより高い山塊が2つある。おまけに、拝火神殿のある山頂は意外に広く、傾斜の緩い台地状である。拝火神殿から見えるのは山ばかりで、見通しが良いとはいえない。灯台の火は何十キロも離れた洋上から見えるというが、ニヤーサルの拝火神殿はそもそも、カーシャーンからは山の死角に入るのではないか。その疑問が今もくすぶっている。

ニヤーサルの滝  Abshar-e Niyasar

旅の最後に訪ねたニヤーサルの滝は、拝火神殿のある山頂から直線距離で500メートルほど下ったところにある。山腹一面に果樹園が広がっている。この村は実に緑が豊かである。

車1台分の幅しかない、自分だったらちょっと運転したくない細い道を抜け、ニヤーサルの滝に着く。駐車場はほぼ満車だった。日本人はめったに来ないそうで、土産物屋の気の良い店員に歓迎された。

ニヤーサルの滝 | Abshar-e Niyasar(Niasar Waterfall)

閑古鳥が鳴いていた拝火神殿とは対照的に、滝は行楽客で大賑わいである。イランの人々は古代遺跡にあまり興味がないのかもしれない。

多くの家族連れが滝の周りから通路までところかまわず敷物を広げ、ピクニックに興じている。大抵の人は滝の前で写真を撮って満足するが、落ちたら大怪我をしそうな足場の悪い崖をよじ登る命知らずな面々もいる。崖に上るなという注意書きはあるのだが。イランは危ない国だと思っている人たちに、この平和な光景を見せたいものである。

午後4時、テヘランの空港へ出発する時間になった。

ニヤーサルの洞窟  Ghal-e Niyasar

ニヤーサルの拝火神殿からわずか300メートルほど東にニヤーサルの洞窟なるものが存在することを帰国後に知った。いや、正確に言うと、ウェブで存在は知っていたのだが、単なる天然の洞窟だろうと思い込んで、ろくに調べもしなかったのだ。

帰国後に改めてウェブの記事を読んで驚愕した。この洞窟は、パルティア時代に人の手によって掘られたもので、古代イランの太陽神ミスラを祀る神殿であったことは疑いがないというのである(CAIS:Niasar Cave)。しかも、拝火神殿の建材は、この洞窟から削り出した石を利用しているという。またしても痛恨の取りこぼしであった。

ニヤーサルには拝火神殿があり、ミスラ神殿があり、豊富な水にも恵まれている。となれば、ここはかつて宗教的に重要な場所であったとしか思えない。上記のサイトによれば、驚くべきことに、この村ではミスラ崇拝の名残を伝える祭儀が今も行われているという。また、この村では、ササン朝時代の土器などが大々的に盗掘された疑いがあるとも伝えている。ニヤーサルの地中には古代の都市でも埋もれているのだろうか。

今回の旅ではパルティア王国に対する認識を新たにした。僕は今まで、ギリシアかぶれの異民族王朝というイメージでしかパルティアを見ていなかったかもしれない。パルティアでは、ハトラやホルヘといったヘレニズムの影響を受けた建造物が建てられる一方で、キャンガーヴァルやニヤーサルのように、アーリア民族に古くから伝わる神々を祀った神殿を造営していた。パルティアの歴史や文化は思っていたより多様で、混沌として、魅力的かもしれない。

旅の終わり

エマーム・ホメイニー空港へ向かう道中の車窓に広がる荒涼とした平原を眺めながら、もし次にイランに来るとしたらどんな旅をするか考えた。しかし、思い浮かばなかった。僕はこの6回の旅でイランの最も美しいものをほとんど見てしまったのではないだろうか。

もちろん、まだ訪れていない名所旧跡はたくさんある。でも、それらは今までに見てきたものと似た何かであるような気がする。それに、まだ行ったことのないそうした場所をリストアップしても、そこから一週間の旅程を組むのはなかなか難しいのだ。

行きのフライトでひどく体調を崩したことは先に書いた。昨年、インドネシアへ行った時にはなかったことなので、おそらくフライト時間の長さと乗り継ぎの多さが僕には堪えるのだと思う。あまりに辛かったので、直行便が復活するまではイランに来るのはやめようとその時は思った。でも今は、もし直行便がいずれ復活するとしても、イランの旅は今回が最後になるかもしれないと思う。少なくとも、他に行きたい国が見つからないからイランに行く、という旅はやめる。また行きたいと心の底から思えるまで。

エマーム・ホメイニー空港へは帰国便の搭乗手続きが始まる1時間くらい前に着くことができた。経済制裁のせいでこれまで国内で使えなかったはずのクレジットカードが、空港の一部の免税店で使えるようになっていた。


《 イラン 2016 完 》