旅の空

イランの旅 2013

8

タンゲ・チャク・チャク

ロスターグ  Rostaq

朝7時半、今日から2日間お世話になるダーラーブの運転手、ラスールさんの車に乗り込む。まずは、ロスターグという村に寄ってラスールさんの友人に車を借り、それからタンゲ・チャク・チャクに向かうと聞いている。

ダーラーブからロスターグには30分もかからずに到着。すると、車は幹線道路沿いにある何やら公共施設のような建物の敷地へ入って行くではないか。

奥行きがたっぷりある敷地の一画に建つ車庫には消防車がある。そして、建物の表示は、"Bakhshdari Rostaq"(バフシュダーリー・ロスターグ)と読める。つまり、この建物はロスターグ郡政庁。ロスターグにいるラスールさんの友人というのはなんと、ロスターグ郡長のことだった。僕はひっくり返りそうになった。

思いもよらぬ場所に連れて来られて、すっかり面食らい気後れした我々を、職員はさらにロスターグ郡長の執務室へと案内する。執務室の入口に近い場所に郡長の重厚な机が置いてあり、低く長いテーブルを挟んで、部屋の両側には背もたれのついた椅子がずらりと並んでいる。僕とハメドさんは郡長に一番近い場所に座るよう促された。

ロスターグ郡長のG氏は、話し好きで大変気さくな人だった。チャイを振る舞ってくれた上に、タンゲ・チャク・チャクに行く車が用意できるまで、我々の話し相手を務めてくれた。

ロスターグの風景Rostaq

しかし、かれこれ1時間近く経とうというのに出発する気配がない。聞けば、ラスールさんは郡庁舎にある四輪駆動車を借りるつもりだったが、その車は洪水でエンジンが水に浸かって調子が悪いため、代わりに、四輪駆動車を持っている村人に車を貸してくれるようG氏が頼んでくれたらしいのだ。その村人が来るのを待っているのである。日本からやって来た僕のために、ラスールさんもG氏も、惜しみない親切を与えてくれた。さらにまた別の村人まで巻き込んでしまって申し訳ない気がした。

ようやくその車と持ち主が到着したのはさらに30分も経った頃だろうか。しかし、燃料が少ないというので、今度はラスールさんがガソリンスタンドに行ってポリタンクで燃料を買ってきた。

ようやく出発の準備が整った。車の持ち主であり、運転手と案内役を務めてくれるS氏、村の有力一族の代表で世話役のT氏、ラスールさん、ハメドさん、そして僕、以上の5名によるタンゲ・チャク・チャク遠征隊が発足した。

タンゲ・チャク・チャクへの道  Rah-e Tang-e Chak Chak

S氏の車はトヨタのピックアップトラックである。13年前に買ってから一度も故障したことがないという。これからも是非、日本車に乗り続けてくださいとお願いしておいた。

郡庁舎から幹線道路をフォルグ(Forg)方面へ5分も走ったか走らないかというところで車は右折し、南西方向へ向かった。これは意外だった。ここへ来る前にグーグルマップの航空写真でタンゲ・チャク・チャクを探したのだが、ロスターグからフォルグに行く途中で道を左折したどこか、つまり北側にあるのだろうと予想していたからだ。見当違いの場所を探していたことになる。見つからないわけだ。

幹線道路から折れた先はずっと未舗装路である。セメント工場のような施設に突き当ったら左へ迂回する。そこから先はほぼ一本道だ。

右手にある台形をした山並みを眺めていたら、「あの山の裏にも遺跡がたくさんある」と教えられた。タンゲ・チャク・チャク近辺にある遺跡というのは聞いたことのない話である。ひょっとして僕は重大な事を聞いてしまったのだろうか。

タンゲ・チャク・チャクへの道The Road to Tang-e Chak Chak

正確な情報がようやくわかった。ロスターグからタンゲ・チャク・チャクまでの距離は約8キロ、以前は車で15~20分で行けたものが、洪水被害により道路が欠壊した影響で現在は40分かかるという。

行ってみればたしかに大変な所だった。もともと未舗装だった上に路面は荒れ果てており、道は完全なオフロードコースと化している。悪路走破性能の高いクロスカントリータイプの四輪駆動車でなければ走行は不可能である。しかも、見たところ、コース取りを間違えば、横転もしくはスタックしかねない地点がいくつかある。もし今の路面状況がこのまま荒れるに任されたら、いずれクロカン四駆でさえ走行できなくなるのではないかという気がする。

タンゲ・チャク・チャクへの道The Road to Tang-e Chak Chak

強調するが、この程度のダートなら普通の車でも行けるではないかなどと思うなかれ。手すりにつかまっていなければ頭を強打するような路面状況のときに写真は撮っていないのである。

さて、車の天井に頭をぶつけること3回、ようやくゴールに近づいたようだ。目指すタンゲ・チャク・チャクはあの谷の向こうにあるという。

タンゲ・チャク・チャク周辺の風景

それにしても、何という荒々しい地形だろうか。

The Scenery Around Tang-e Chak Chak

あの拝火神殿が見えた!

タンゲ・チャク・チャク周辺の風景 | The Scenery Around Tang-e Chak Chak

思ったより大きい!

タンゲ・チャク・チャク | Tang-e Chak Chak

向かって左側がアーテシュキャデ(聖火護持殿)、右側がチャハールターグ(聖火礼拝殿)。

タンゲ・チャク・チャク | Tang-e Chak Chak
タンゲ・チャク・チャク(アーテシュキャデ)  Ateshkade-ye Tang-e Chak Chak

ロスターグ側から見て手前に位置するのが聖火の種火入れと考えられている神殿である。高さは10mほどか。

タンゲ・チャク・チャク(アーテシュキャデ) | Ateshkade-ye Tang-e Chak Chak

ヴァンデン・ベルゲ教授の写真ではこれほど大きく崩れているのはわからなかった。壁が厚いために倒壊を免れたのだと思う。

タンゲ・チャク・チャク(アーテシュキャデ) | Ateshkade-ye Tang-e Chak Chak

アルダシール宮殿やサルヴェスターン宮殿と同様、ドームの天井には採光のためか穴が開いている。

タンゲ・チャク・チャク(アーテシュキャデ) | Ateshkade-ye Tang-e Chak Chak

コナール・スィヤーフのアーテシュキャデにもこのような壁龕があった。

タンゲ・チャク・チャク(アーテシュキャデ) | Ateshkade-ye Tang-e Chak Chak

地面には何らかの遺物が埋まっていたが、何者かに持ち去られてしまったという。チャハールターグの地面にも同様の状態の穴があった。

タンゲ・チャク・チャク(アーテシュキャデ) | Ateshkade-ye Tang-e Chak Chak

建造は6~7世紀、ササン朝ペルシアの時代と考えられている。

タンゲ・チャク・チャク(アーテシュキャデ) | Ateshkade-ye Tang-e Chak Chak

周辺には大量の石材が散乱している。コナール・スィヤーフと同様に、かつては多くの付属建造物があったのだろう。

タンゲ・チャク・チャク(アーテシュキャデ) | Ateshkade-ye Tang-e Chak Chak
タンゲ・チャク・チャク(チャハールターグ)  Chahartaq-e Tang-e Chak Chak

チャハールターグは「4つのアーチ」を意味する。聖火を灯す拝火壇が置かれた神殿とされている。

タンゲ・チャク・チャク(チャハールターグ) | Chahartaq-e Tang-e Chak Chak

高さはアーテシュキャデとほぼ同じと考えてよいと思う。独特の気品漂う美しい建造物ではないだろうか。

タンゲ・チャク・チャク(チャハールターグ) | Chahartaq-e Tang-e Chak Chak

コナール・スィヤーフの拝火神殿も素晴らしかったが、タンゲ・チャク・チャクと比べてしまうと、一段も二段も格が落ちると言わざるを得ない。

タンゲ・チャク・チャク(チャハールターグ) | Chahartaq-e Tang-e Chak Chak

柱の太さが圧倒的である。建造から千数百年近くも持ちこたえてきたのは、この強固なアーチ構造のおかげだろう。

タンゲ・チャク・チャク(チャハールターグ) | Chahartaq-e Tang-e Chak Chak

アーテシュキャデと同様、おそらく天井を全部は塞いでいなかった。天井部にはまるでレンガのように見える薄い石材が使われている。

タンゲ・チャク・チャク(チャハールターグ) | Chahartaq-e Tang-e Chak Chak

神官たちの居住施設なども備えた複合施設として現存する拝火神殿は、イラン全土でもコナール・スィヤーフとタンゲ・チャク・チャクの2つだけだという。

しかし、コナール・スィヤーフは後世に補修を受けている。建造当時のまま残るのはタンゲ・チャク・チャクただ一つだろう。

タンゲ・チャク・チャク(チャハールターグ) | Chahartaq-e Tang-e Chak Chak

崖の上に見えるのは見張塔もしくは狼煙台と考えられている遺跡だ。

タンゲ・チャク・チャク(チャハールターグ) | Chahartaq-e Tang-e Chak Chak
タンゲ・チャク・チャク(見張塔もしくは狼煙台)  Watchtower or Beacontower

タンゲ・チャク・チャクは地盤の隆起と浸食作用が造り出した特異な地形である。拝火神殿群の背後にそびえる崖は、巨大な岩盤が片側だけせり上がってできたもの。地面からゆるやかな傾斜で立ち上がっているため、特に危険を感じることもなく上ることができる。

崖の突端にある見張塔もしくは狼煙台を目指して、それと、あるカメラアングルを探して斜面を上る。

タンゲ・チャク・チャク周囲の風景 | The Scenery around Tang-e Chak Chak

念願の場所にとうとうたどり着いた。これこそ、1957年にスイス調査隊のヴァンデン・ベルゲ教授が写真に収めた風景だ。無我夢中で何枚もシャッターを切った。

ヴァンデン・ベルゲ教授の後に、同じアングルで写真を撮った人物はいるのだろうか。

タンゲ・チャク・チャク | Tang-e Chak Chak (Qasr-e Dokhtar)

見張塔もしくは狼煙台だったとされる同様の遺跡が周辺に全部で10基ほど確認されているという。高さは約3メートルほどか。

タンゲ・チャク・チャク(見張塔もしくは狼煙台) | Watchtower or Beacontower of Tang-e Chak Chak

入口が崖っぷちにあり、昇り降りの際は少々注意を要する。勢い余れば崖下に真っ逆さまである。

タンゲ・チャク・チャク(見張塔もしくは狼煙台) | Watchtower or Beacontower of Tang-e Chak Chak

内壁には建造当初のものと思しきモルタルが残っている。野ざらしの状況でよくここまで残ったものだ。

タンゲ・チャク・チャク(見張塔もしくは狼煙台) | Watchtower or Beacontower of Tang-e Chak Chak

フォルグ(ドボルジー)方面は険しい峡谷が続く。水が流れ下った痕跡がはっきり見てとれる。

タンゲ・チャク・チャクの谷 | The Valley of Tang-e Chak Chak

静まり返った峡谷に、小鳥の長く澄んだ鳴き声だけが響く。

タンゲ・チャク・チャクの谷 | The Valley of Tang-e Chak Chak

秘境の谷間に涼やかなそよ風が吹き抜けた。

タンゲ・チャク・チャク | Tang-e Chak Chak (Qasr-e Dokhtar)
乙女の宮殿または鏡の宮殿  Qasr-e Dokhtar ya Qasr-e Ayine

タンゲ・チャク・チャクはまたの名を「乙女の宮殿」、「鏡の宮殿」などというようだ。

なんでも、かつて女王がここを支配していたとか、鏡を使って統治していたとか、詳細は不明だが、なんともロマンチックな言い伝えがあるらしい。タンゲ・チャク・チャクならばそういった伝説が生まれるのも充分理解できる。

タンゲ・チャク・チャク、別名「乙女の宮殿
または「鏡の宮殿」 | Tang-e Chak Chak, the other name: Daughter Palace or Mirror Palace

アーテシュキャデの向かいの岩壁に、岩の表面を四角く縁取りをした箇所がある。表面も平らに整えたようだ。

ここには、レリーフか碑文を彫りこむつもりだったのではないだろうか。鏡の宮殿という名前は、もしかしたらここを「鏡」に見立てたものかもしれない。

タンゲ・チャク・チャク、別名「乙女の宮殿
または「鏡の宮殿」 | Tang-e Chak Chak, the other name: Daughter Palace or Mirror Palace
もう一つのチャク・チャク  Another Chak Chak

2つの拝火神殿が並ぶ高台の向かいの崖下に、青木健氏の言葉を借りればタンゲ・チャク・チャクの御神体というべきものがある。

それは、天井から水が滴り落ちる洞穴。その水が滴り落ちる音こそが「チャク・チャク」という名の由来だ。

タンゲ・チャク・チャク | Tang-e Chak Chak

青木健氏によれば、「チャク・チャク」とはゾロアスター教以前からイランに存在する聖水信仰の名残りである。

タンゲ・チャク・チャクについても、最初に水の聖地として成立した後に拝火壇や種火入れ、神官の住居などを追加してゾロアスター教複合施設を形成したものであると氏は著書『ゾロアスター教の興亡―サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』で述べている。

タンゲ・チャク・チャク | Tang-e Chak Chak

「チャク・チャク」とは地名であって地名でないもの。だから、チャク・チャクという名前は、ヤズド郊外にあるゾロアスター教聖地「ピーレ・サブズ」だけを指すものではなかったのだ。

チャク・チャクの谷間で

4人は洞穴の中で僕が戻るのを待っていた。Tさんが気を利かせて、ここへ来る直前にアイスクリームや菓子、ジュースなどを買ってくれてあった。

岩陰で一休みしている間に、ここへ連れてきてくれたお礼と言っては何だが、ハメドさんに通訳を願って、ロスターグの2人とラスールさんに正倉院の話を披露した。

8世紀に建立された正倉院という宝物殿が奈良にあること。その宝物にササン朝ペルシアで製作されたガラスの碗があること。そのうちの2つ、「白瑠璃碗」と「瑠璃坏」を実際に間近で見たこと。実物は写真よりもはるかに素晴らしかったこと。今から千年以上も前に日本へやって来たペルシア人が歴史書に記されていること。正倉院のガラスがきっかけで特にササン朝ペルシアの歴史や文化に興味を持つに至ったこと。

3人は僕の話を興味深そうに聞いてくれた。とあるウェブサイトから拝借して携帯電話のメモリーに入れてあった「白瑠璃碗」と「瑠璃坏」の写真を見せながら話したのだが、それを自分の携帯電話のカメラで撮影したりしていた。

タンゲ・チャク・チャクへの道  Rah-e Tang-e Chak Chak

帰る時が来た。

谷の入口にある大きな岩陰には、いつの間に来たのか、羊飼いがたくさんの羊たちを休ませていた。

スイス調査隊のヴァンデン・ベルゲ教授が発見したというけれど、思うに、彼らはそれよりずっと前からこの場所を知っていたのではないか。

帰りの車中でハメドさんにこんな質問をしてみた。
「もし次にタンゲ・チャク・チャクへ行きたいというリクエストを受けたら何と答えますか。」

すると、ハメドさんは即座に答えた。
「行けないと言います。」

なんということだろう。僕が今回、タンゲ・チャク・チャクに行くことのできた要因の一つは、妙な話だが、そこが実質的には行けない場所だということを、日本の旅行会社も、イランの手配会社も、ガイドも、そして僕自身も、誰一人として知らなかったためなのだ。もし、その中に現地の事情を知る者がいたら、僕のリクエストは却下されていたはずだ。

そして、質問をした僕自身も実はハメドさんと同じことを感じていた。もう二度とここを訪れることはできまいと。今回、僕がここへ来ることができた最大の要因は、何といっても、運転手のラスールさんやロスターグの人々の底知れぬ親切を受けられたからだ。再び彼らの厚意に甘えることなどできようか。

タンゲ・チャク・チャクから帰路についた今、今回の旅自体がまるで奇跡であるかのように思えてくる。

遠ざかる景色の彼方、タンゲ・チャク・チャクへの道は再び閉ざされた。

追記 2018/1/14

2017年の末にタンゲ・チャク・チャクを訪ねた方から頂いた情報によると、ロスターグの幹線道路からタンゲ・チャク・チャクへ至る未舗装路は、途中、路面が荒れた箇所はいくつかあったものの、普通乗用車で問題なく行くことができたという。

上にも書いたとおり、筆者が訪ねたときは、クロスカントリータイプの四輪駆動車でなければ到底、進むことはできないほど路面が荒れ果てていた。この4年あまりの間に修復されたものらしい。