旅の空

イランの旅 2013

4

サルヴェスターン

マハールルー湖  Daryache-ye Maharlu

朝8時、昨日と同じく運転手バーバクさんの車に乗り込んでホテルを出発する。今日は長距離の移動があるため少し早めの出発だ。途中で寄り道をしながら、シーラーズから約300km南東のダーラーブを目指す。

ファールス州を旅するのは今回で3度目だが、シーラーズから東方面へ行くのはこれが初めてだ。行く先々にどんな風景が広がっているのだろうと期待に胸がふくらむ。

マハールルー湖Daryache-ye Maharlu (Lake Maharlu)

シーラーズから高速道路に乗って30分余り、左手に雪原のような光景が広がった。

マハールルー湖は、面積約200平方kmという広大な塩湖である。見渡す限り、湖面は完全に固形化した塩で覆われている。水はほとんど干上がってしまって、湖のごく一部にしかないという。製塩工場も近くにあるらしい。

白一色の湖面は照り返しがきつくて、サングラスなしには目を開けていられない。

マハールルー湖Daryache-ye Maharlu (Lake Maharlu)
サルヴェスターン  Sarvestan

sarv(サルヴ)とは糸杉のこと。糸杉はイランでは姿形の美しさに例えられる。sarvestanは「糸杉がたくさんあるところ」を意味する。なんとも縁起の良い名前なのだ。その名のとおり、郊外の畑にも市街地にも糸杉があちこちに植えてあった。街の雰囲気もどことなく気品が感じられる。

サルヴェスターンの街を過ぎて、荒野をしばらく走っていると、尖った形をした非常に印象的な山が現れた。そこで車は脇道へと右折する。見ると、道端に「Kākh-e Sāsānī(ササン朝宮殿)」とペルシア語だけで小さく書いた木製の看板が立っている。観光名所の案内標識としては地味すぎるようだ。

サルヴェスターンSarvestan

周囲は一面の平原なのに、目指すサルヴェスターンの宮殿はどこにも見当たらない。一体どこから姿を現すのかと、左右をあちこち見回しながら車で一本道を進む。

サルヴェスターン宮殿  Kakh-e Sarvestan

やがて、荒野の真っ只中にぽつねんとたたずむサルヴェスターンの宮殿が正面に見えてくる。(地図:Sarvestan Palace)

周囲との境には簡単なロープが張ってあるだけだ。駐車場や給水機、ペルシア語の説明板もあるが、例によって我々の他に見学客はいない。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan) ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

ここへ来るまで、サルヴェスターンの宮殿はフィールーザーバードのアルダシール宮殿より小さいものというぐらいの認識しかなかったが、どうやら、二つの間には建築様式も年代もかなり違いがあるとみた方がよさそうだ。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

そのことを感じさせるのは、南側と北側とで2つ並んだドーム建築の内部だ。

四つのアーチが建物の四辺を構成するチャハールターグ様式はササン朝建築の典型だが、サルヴェスターン宮殿の構造はアルダシール宮殿よりも拝火神殿に近いように思われる。

特に、ドームの天井には石ではなく薄いレンガを用いていて、ここがアルダシール宮殿と大きく違うところだ。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

南側の大ドームと北側の小ドームの両方が南東方向から並んで写真に収まる位置を探して、宮殿を少し離れる。

それにしても、なぜこの場所に宮殿を建てる必要があったのかと思わずにはいられない。バハラーム5世がグール(野生ロバ)狩りをする際に滞在した離宮だったというのは単なる俗説らしいが。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

アルダシール宮殿もそうだが、立つ位置によって、同じ建造物とは思えないほど見え方が変わる。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

大ドームは外観では小ドームと同じくらいの大きさに見えたが、内部は大ドームの方がはるかに広かった。

大ドーム内部は修復中で足場が組んである。宮殿の外にきれいに積まれていた日干し煉瓦はおそらくここの修復に使われている。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

サルヴェスターンの宮殿には、薄切りにした円柱をまた重ね直したような柱が多用されている。

僕の記憶が正しければ、この「だるま落とし」のような形の石柱は、他のササン朝遺跡ではついぞ見かけなかったものだ。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

珍しく、僕以外にも観光客が来た。イラン人の家族連れである。彼らもまさかここで日本人に会うとは予想しなかっただろう。しかし、記念写真を撮ったりしながら15分も経たないうちに彼らは帰ってしまった。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

宮殿の正面だったとされる南西側へ回る。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

かつて宮殿の正面には3つのエイヴァーンがあったという。正面のエイヴァーンは大ドームへ、右側のものは小ドームへ、左側のものは小部屋を隔てて住居へとそれぞれつながっていた。

正面に向かって左側の壁面に残る3本の太い筋は装飾だろうか。これも他のササン朝建築では見覚えのないものである。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

アルダシール宮殿とはまた趣の違う、優美な建造物とはいえないだろうか。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)

遺跡管理事務所がある北側には住居部分があったと考えられている。この区画には浴場跡とみられる小部屋があった。

ようやく入口に戻ってきた。ここに来てからもう1時間以上経っている。もちろん、一通り見て回るだけならそこまで時間がかかる広さではない。同じ場所を何度もぐるぐる回っていたからだ。

立ち去るのが名残惜しく感じられた。

ササン朝宮殿:サルヴェスターンSarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)
サルヴェスターン宮殿(遺跡解説)  Kakh-e Sarvestan

現地にある遺跡解説文を翻訳した。(2015年4月3日追記)

なお、写真の解説文に見える"tavahhoh","dahl"の2語は、本来あるべきアラビア文字の「点」が何らかの理由でなくなっている状態と判断し、それぞれ"tavajjoh","dakhl"と読み替えた。

サルヴェスターン;Sarvestan Palace (Kakh-e Sarvestan)
Kākh-e Sarvestān:   pāygāh-e mīrās-e farhangī o gardeshgarī-ye Sarvestān
banā-ye ma'rūf be kākh-e sāsānī-ye Sarvestān, be ab'ad-e taqrībī 37*45 metr dar 13 kīlū metrī-ye jonūb-e sharqī shahrestān-e Sarvestān vāqe' shode ast.
barkhī az pazhūheshgarān, īn banā rā kākhī az dourān-e pādeshāhī-ye Bahram panjom (420 tā 438 mīlādī) mī-dānand.
gorūh-e dīgarī az mohaqqaqīn nīz gamān dārand ke īn asar, āteshkade'ī bejā-mānde az doure-ye Āl-e Būye ast.
īn banā dar moqāyese bā dīgar āsār-e sāsānī-ye Fārs az jomle Kākh-e Ardashīr dar Fīrūzābād, me'mārī-ye pīchīde'ī dārad va az lahāz-e fannī mahārat-e ziyādī dar sākht-e tāqhā o gonbadhā-ye ān bekār rafte'ast.
nemā-ye aslī-ye banā ke tavassot-e se eivān be fazā-ye bīrūnī mortabet ast dar jāneb-e gharb vāqe' shode.
az vīzhegīhā-ye mohemm-e me'mārī-ye īn banā mī-tavān be tazyīnāt-e gachborī-ye sotuh-e dākhelī, sotūnhā-ye doqolū dar barkhī az fazāhā-ye darūnī-ye banā, nīm sotūnhā-ye tazyīnī-ye nemā o kongerehā-ye atrāf-e bām eshāre namūd.
dar hāl-e hāzar besiyārī az īn āsār az miyān rafte'ast.
dar pīramūn-e banā tā'sīsāt-e gostarde'ī vojūd dāshte ke tashkhīs-e vaz'īyat-e me'mārī o kār-borī-ye ānhā niyāzmande kāveshhā-ye bāstānshenākhtī ast.
 tavajjoh: banā-ye Kākh-e Sarvestān dar fehrest-e āsār-e mellī-ye keshvar be sabt rasīde va tebq-e māde 564 qānūn-e mojāzāt-e eslāmī, har gūne dakhl o tasarrof o īrād-e khesārat be ān peykard-e qānūnī bedonbāl dārand.

【訳】
サルヴェスターン宮殿   サルヴェスターン文化遺産・観光拠点
サルヴェスターンのササン朝宮殿として名高い建築物は、平面の大きさがおよそ37×45メートル、サルヴェスターン行政区の13キロメートル南東に位置している。
一部の学者たちはこの建築物を皇帝バハラーム5世(西暦420~438年)時代の宮殿と見なしている。
別の研究者たちの一団はまた、この遺跡がブワイフ朝(西暦932~1055年 ※訳者注)から時宜を得て残った拝火神殿であると考えている。
フィールーザーバードのアルダシール宮殿のようなファールス州の他のササン朝遺跡と比較すると、この建築物はより複雑な建築技法が施され、また技術的な見地からは、アーチやドームの製作にあたっては高度の熟練が発揮された。
3つのエイヴァーンによって屋外空間へと通じる建物本来の正面は西側に位置している。
この建築物の建築技術上の重要な特色(のいくつか)は、内壁の漆喰細工装飾や建物の内部空間の一部に見られる双子の柱、屋根側の胸壁や建物正面に見られる半分の装飾柱と言える。
目下、この遺跡の多くは消滅している。
建物の周囲には広範囲な施設が存在していて、その(施設の)利用状況や建築状況を判断するには、考古学上の発掘調査を必要としている。
 注意:サルヴェスターン宮殿の建造物は国が管理する遺跡の目録に登録されており、イスラム刑法564条によって、いかなる種類の改変や損害に対しても法的責任が追及される。
ファールスの古い都へ

サルヴェスターンを離れ、いよいよダーラーブへ向けて車を走らせる。旅の本当のはじまりはここからだと自分では思っている。ここまでは言ってみれば前座のようなもの。その割には豪華すぎる内容だったかもしれないけれど。

サルヴェスターンまでは、書籍でもネットでもそれなりの情報を得ることができる。しかし、ここから先は僕にとって未知の世界だ。

ファールス州東部の風景The scenery of the eastern part of Fars Province, Iran

ファールス州にあるのは遺跡ばかりではない。雄大な景色もまた魅力の一つだ。

ファールス州東部の風景The scenery of the eastern part of Fars Province, Iran
ファサー郊外の拝火神殿遺跡

サルヴェスターンからエスタフバーン方向へ86号線を走っている途中で、運転手のバーバクさんが気を利かせて、とある遺跡に立ち寄ってくれた。やはり運転手というのは職業柄、一般人が知らないような場所も知っているものだ。(地図:Remain of Fire Temple

ファサー郊外の拝火神殿遺跡The fire temple in a suburb of Fasa; Fars Province, Iran

ここはおそらく、前述した青木健氏の著作『ゾロアスター教の興亡―サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』157頁でファサーの拝火神殿遺跡と紹介されている遺跡である。

青木氏の本にもあるとおり、この遺跡はファサーから約20kmも北にあり、正確に言えば所在地はファサーではない。しかし、場所の目安となるようなある程度大きな最寄の街というと、やはりファサーということになろう。

ファサー郊外の拝火神殿遺跡The fire temple in a suburb of Fasa; Fars Province, Iran

青木氏の著作に掲載された写真では、拝火神殿前の池は満々と水を湛えており、グーグルマップの航空写真でもそれが確認できる。しかし、僕が訪ねた時、池は完全に干上がっており、無粋な黒いホースが遺跡の前を横切って池の底まで伸びていた。

ファサー郊外の拝火神殿遺跡The fire temple in a suburb of Fasa; Fars Province, Iran

拝火神殿は山の斜面に石積みで造られている。現存する石積みの高さは人の背丈ほどだ。以前、ヤズド近郊にあるゾロアスター教徒の村・チャムの神殿で見た祠を連想した。

周辺にも建物の残骸らしきものが埋もれているところを見ると、一群の建造物が他にもあったのかもしれない。それと、もしかしたら、池も神殿の一部だったのではないか。

エスタフバーン  Estahban

エスタフバーン・ツーリスト・インのレストラン次の目的地はイージ(Ij)だが、エスタフバーンから先、イージを経てダーラーブまでの区間はレストランがないとのことで、ちょうど昼時でもあり、エスタフバーンで昼食を済ませることになった。昼食場所はツーリスト・インのレストランである。

ツーリスト・インの敷地隅には豊富に水が流れる階段状の滝が造ってあって、バイクで水を汲みに来ている近隣住民がいた。

エスタフバーンもまた歴史ある古い街だが、遺跡は特に見つかっていないということだ。

しかし、水が豊富で緑も多く、おまけに涼しくて住みやすそうな街に思えた。

エスタフバーン近郊At a suburb of Estahban; Fars Province, Iran

長距離ドライブに備えて、途中の店でアイスクリームや菓子を買いこむ。

余談だが、Chee.Toz(Cheetosではない)というブランドのポテトチップスは美味しい。日本のカルビーと遜色ない味付けで驚いた。サワークリーム&オニオンが僕の好みだ。