イランの旅 2013
18
レイ、ヴァラーミーン
テヘラン、朝8時
7時半頃に目が覚める。9年前の旅行で最終日に泊まったのと同じホテルだ。
今回は、クラクションの音で目が覚めるといったことはなかった。



朝食を早めに済ませて、9年前もそうしたように、近くのラーレ公園へ散策に出かける。



とうとう帰国の日が来てしまった。しかし、夜10時の帰国便までにはかなり時間がある。
過去4回の旅行でテヘラン市内の観光名所はあらかた行き尽くしているので、今回はテヘラン州南部に焦点を当て、テヘランの約40km南にあるレイ、そしてレイからさらに20kmほど南にあるヴァラーミーンへ足を伸ばすことにした。
テヘランの南
高層ビルが立ち並ぶテヘラン市街を南へ抜けると、辺りは広大な畑や草むらなどの田園風景が広がる。
しかし、話を聞く限りでは、テヘランの南郊地域は見かけほど長閑な場所ではないらしい。むしろ、テヘラン市民の間では、あまり治安が良くない地域と認識されているようだ。
といっても、昼間の街中を歩くのさえ危険だという意味ではない。ハメドさんの言葉を借りれば、テヘランとレイの間に広がるこの広大な草原が問題なのだ。夏の間に高く茂った草むらは、殺人死体を捨てたり、隠れて大麻を吸ったりするのに好都合というわけだ。しかしそれは、大都会テヘランの身から出た錆というべきものではないだろうか。
アリーの泉 Cheshme-ye Ali
レイの有名な見所といえば、やはりなんといってもアリーの泉ではないだろうか。
何やら妖しげな姿をした砦が建つ岩山の麓に、有名な泉が湧き出ている。同じ岩山の麓にあるガージャール朝時代のレリーフもまた有名だ。


砦はおそらく近年になって復元されたものだが、この一帯からは紀元前4千年にまで遡る遺物が考古学的調査によって確認されているという。
泉で絨毯を洗い、洗った絨毯を岩山に広げて干す光景がかつては春の風物詩であったという泉も、夏真っ盛りの今では、子供たちにとって格好の水遊び場となっていた。
トグロルの塔 Borj-e Toqrol
トグロルの塔はセルジューク朝のトグロル1世(トゥグリル・ベク)の墓塔であるらしい。高さは20mほど。12世紀に建造された時には、円錐形の屋根があったが、地震で崩壊してしまったようだ。
70歳は超えていようかという男性がここの管理人であったが、僕が日本人だと知ると大歓迎してくれて、30分ばかり熱心に説明してくれた。
日干し煉瓦を精巧に積み上げた壁の厚みが圧倒的である。2m以上に達するのではないだろうか。
また、外壁に24の角があることから、天文台や日時計であったともいわれているようだ。
しかし、最も僕の印象に残ったのは内部の見事な音響効果である。中で手を叩くと、その音が壁に幾重にも反響しながら上ってゆくように感じられる。日光東照宮の鳴き竜を思い出した。


タッペイェ・ミール(ミールの丘) Tappe-ye Mil
今日の最大のお目当てがこのタッペイェ・ミールである。しかし、相当わかりにくい場所にあるようで、運転手が途中で地元民を3人ほどつかまえて道を尋ねたにも関わらず、なかなかたどり着かない。しまいには、たまたま近くにいた地元のタクシーに先導を頼んだほどである。そのタクシーでさえ道を一度間違えた。
ミールの丘という名前のとおり、一面に畑が広がる平原の真っ只中に小高い山があり、その頂上にササン朝時代の拝火神殿遺跡が残る。
ただし、見てのとおり、この丘は自然にできた地形ではない。タッペ(テペ、テル)とは、廃墟の上に新たな建物が造られることが永い歴史の中で繰り返された結果、考古学上の遺跡を含む地層が重なってできた人工の丘、遺丘
であるという。つまり、この丘の起源はササン朝時代をはるかに遡るということだ。


仮設の階段を上りきった頂上には予想以上に大がかりな遺跡が広がっていた。通路の両脇には壁で仕切られた小部屋がいくつかあり、居住空間だったようにも見える。遺跡を保護するための屋根がかかっているため、地下にいるような雰囲気だ。


同じく拝火教複合施設であっても、タンゲ・チャク・チャクやコナール・スィヤーフとは様子が全く異なる。以前、ハメダーンで見たエクバタナの丘を思わせる。


奥へと続く長いトンネルを抜け、上ってきたのとは反対側の斜面から回り込むようにして神殿の最上段に達する。


先ほどまで通ってきた屋根付きの遺構を見下ろす位置に、有名なササン朝時代の拝火神殿が建っている。


神殿には、石材とモルタルと日干し煉瓦でできたアーチ状の構造物が直列に2つ並んでいるが、ササン朝建築でお馴染みのチャハールターグ形式とは違うようだ。


丘を下りてから、気になることを聞かされた。明らかに遺跡には用がなさそうな男が2人、頂上にいたという。車上狙いか何かではないかとハメドさんは言う。
タッペイェ・ミール(ミールの丘):博物館 Tappe-ye Mil
タッペイェ・ミールで出土したササン朝時代の化粧漆喰などの遺物を展示する博物館が丘の麓にある。ここまで来る機会があれば博物館にも立ち寄ることをお勧めしたい。


ビザンティン帝国の装飾文様にどこか似ているような気がするのは僕だけだろうか。


ヴァラーミーン Varamin
昼食を兼ねてやって来たのは、レイからさらに南や20kmほどのところにある町、ヴァラーミーンだ。
ヴァラーミーンの名前は以前の旅で聞き覚えがある。ダマーヴァンド山の麓に広がる美しい高原、ラール国立公園で特別な許可を受けて放牧を行っているのがこの町の羊飼いとのことだった。
ヴァラーミーンの最大の見所である金曜モスク(Masjed-e Jame')は、14世紀初め、モンゴル支配時代に建造された。ソルターニーエのゴンバドとほぼ同時代の建造物であるという。


煉瓦の壁にことさら何か付け加えることはせず、彩釉タイルの使用も控え目であるなど、言われてみれば、ゴンバデ・ソルターニーエに通じるものがある。
1つ1つの煉瓦にも微妙な色の違いがあってきれいだ。色鮮やかなタイルもよいが、こうした土色だけの空間の方が心が落ち着く気がする。


特筆すべきは、化粧漆喰で造られた装飾の見事さだ。


ドームも立派なもので、イラン有数の規模ではないかと思われた。
なかなか見応えのあるモスクであったが、帰りがけにちょっとしたトラブルがあった。
モスクを出て、外観の写真を撮っていたら、管理事務所から3~4人の係員が出てきて、ここは撮影禁止だと言い出したのである。これには、自身も写真を撮っていたハメドさんが怒って、「あんたら、我々が来るのも見ていたくせに、冷房の利いた部屋でのうのうと涼んでおいて、後から言うな!」(本人談)と猛抗議した。
ハメドさんの抗議とガイド証が効いてか、それ以上の追及を受けることはなかったが、管理事務所から見える位置でカメラを構えるのは避けた方がよさそうだ。もしかしたら、テヘランのセパフサーラール・モスクのように、安全上の理由で外観の撮影が禁止されているのかもしれない。


近くに、金曜モスクより少し古い時期に造られたというアラー・オッディーンの塔
(Borj-e Ala od-Din)がある。塔の内部は小さな博物館になっているようだが、行ったときはたまたま休館日だったのか、中に入ることはできなかった。
レイのトグロルの塔も元はこんな形をしていたのだろう。
ラシュカーン城砦 Dej-e Rashkan
昼食後、ヴァラーミーンからレイに戻って訪ねたのは、パルティア時代の遺跡といわれる「ラシュカーン城砦」である。レイほどの歴史ある町なら不思議はないのかもしれないが、パルティアの遺跡があるとは意外だった。
自然の山を利用した砦には、山麓から山頂にかけて建造物がはっきりと確認できる。大遺跡といってよい規模だと思う。見学用の仮設の階段もあるので、当然、上まで登るつもりだった。


しかし、着いたばかりだというのに、できるだけすぐにここを離れたいとハメドさんが言う。
一体どういうことか尋ねたところ、遺跡前の広場に挙動不審な男が2人いるのだという。どうやら麻薬中毒者らしい。
ハメドさんの言い分はこうだ。麻薬中毒者は何をするかわからない。頂上にいるときにナイフで脅されたりしたら逃げ場がない。他にも何か良からぬ匂いをハメドさんはこの場所で嗅ぎ取ったようだ。
たしかに僕も、20代らしき男2人が木陰の下で妙な動きをしたのを見ていた。だが、遺跡を見るのに夢中なあまり、その男たちのことは頭の隅に追いやってしまったらしい。
それに、山の麓には工場があり、ゴミが散乱する場所もあるなど、本来、遺跡があるような環境ではないことも確かだ。
何といっても、イラン国内でも数少ないパルティア遺跡である。見たいのは山山であったが、帰国日に犯罪に遭う危険を犯すわけにはいかないと思って、ここはガイドに従って立ち去ることにした。非常に残念だ。
この近辺が元々不穏な場所なのかどうかは断言できないが、少なくともイランで、白昼に麻薬中毒者を見かけるというのは尋常ではない。
なお、Panoramioにはラシュカーン城砦の詳細な写真が投稿されており、参考になる。
ギャブリー城塞 Qal'e-ye Gabri
最後に立ち寄ったのは、「ギャブリー城塞」というササン朝遺跡である。"gabr"を辞書で引くと「拝火教徒」とある。「タッペイェ・ギャブリー」の名でも呼ばれているかもしれない。
おそらく一辺が100m以上にもなろうかという大きさである。残念ながら内部には何か現代の建物が建っているようだ。遺跡の解説板にもそう書いてあったので、ササン朝時代のものであることは間違いないと思う。


実は午前中、タッペイェ・ミールへ行こうとして道を尋ねたときに間違って教えられたのがこの遺跡だ。レイにこのようなササン朝遺跡があるとは意外だった。
まだ行ったことはないが、遠くメルブのキズカラ遺跡を思い出した。
レイについて
ササン朝ペルシア最後の王ヤズダゲルド3世の娘で、伝説ではシーア派3代目イマームのフサインと結婚したとされるシャフルバーヌーの霊廟(Aramgah-e Bibi Shahrbanu)には、元々ゾロアスター教の聖地があったといわれており、もしかしたらその名残があるかもしれないと期待して行ったが、今や完全にシーア派の聖者廟であった。
ただ、廟のすぐ脇には洞窟がある。天井から水がしみ出す様子はなかったが、かつてここは「チャク・チャク」だったのではないかと思わせる雰囲気があった。
実は、レイにも「ダフメ」(沈黙の塔)がある。レイのものは、「アストゥーダーン」(Astudan)と呼ぶらしい。
しかし、山の中腹にあるそれらしきものが道路から見えていながら、そこに行き着くことはできなかった。というより、現状では、山の麓にあるセメント会社の敷地に立ち入らない限りダフメには近づけないように見えたので断念した。実際のところ、見学できるのかどうかわからなかった。
他にも、ササン朝時代のものとされる遺跡では、松本清張が著書で紹介した「ハールーンの牢獄」(Zendan-e Harun)やヴァラーミーン郊外の「イーラジ城塞」(Qal'e-ye Iraj)がある。イーラジ城塞などは、知られざる大遺跡というべきだろう。もし次にイランを旅する機会があれば、今回は行けなかったこうした遺跡も訪ねてみたいと思っている。
紀元前数千年からの歴史を誇るレイには、それにふさわしい豊かな歴史遺産があることを実感した。単に飛行機待ちの時間つぶしのつもりで行くのは勿体ないくらいだ。テヘランにこれだけ近いのだから、もっと観光面で注目されてよいのではないだろうか。
ファールスの古き都より ~完(あとがき)~
旅行日数では2007年の2週間に比べて半分だったにもかかわらず、気付いてみれば、2007年の旅行記を優に超えて18ページになっていました。2013年の旅行記もこれで完結です。
内容はともかく、中断、挫折することなくこうして書き上げることができてほっとしています。同時に、これで本当に旅が終わってしまう寂しさも感じています。筆者にしてみれば、旅行記を書くことは旅を追体験することと同じでした。
今回はダーラーブを中心に、主にファールス州東部の遺跡を見て回りました。
無謀にもほとんど知識や情報を持たないまま現地に飛び込んでみれば、念願だった神殿へ奇跡的に行くことができ、また、そこにあることさえ知らなかった数々の遺跡に遭遇し、毎日が興奮と感動の連続でした。これほど濃密な旅はもうできないのではないかと思うほどです。
しかし、旅に出る前よりもかえって謎は深まりました。もしかしたら、その答えはすでにどこかの研究者の論文に書いてあるのかもしれませんが、一素人に過ぎない筆者にそれを知る術はありません。それでも、今回の旅で見てきたものは一体何だったのか、これからも関心を持ち続けたいと思います。